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亡骸にキス  作者: 一之瀬ゆん
question 疑念を吞み込むその夜に
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4

 すっかりお客が誰一人としていなくなった室内で、店員たちは後片付けに励んでいた。

 ちはるも例外ではなく、テーブル上を布巾ふきんできれいにし、忘れ物がないかをチェックして回っている。

 疲れたな、と思いながらふぅ、と一息吐いたところで、聴覚がちいさな笑い声を拾った。思わず、ちはるはその主を見やる。


「疲れたかな」


 そう、それは湊。やわらかな笑みを口元に灯して、ちはると同じようにテーブルを拭いている。

 慣れた手つきは素早く、しかし丁寧で、憧れさえ抱く。が、彼の質問にどう答えたらいいか戸惑ったちはるは、結局沈黙で返した。

 確かに疲れたのだが、はっきりそれを言っていいか分からなかったのだ。


 そんなちはるに気付いてか、それとも本心なのかは分からない。

 分からないが、それでもまるで答えやすくしてくれたかのようなタイミングで湊はクスリと笑って、「俺は疲れたなぁ」と一言漏らした。

 思わずその返答に目を見開いて、「え」なんて漏らしてしまう。


「湊さんも疲れるんですか?」

「ちーちゃん、俺を何だと思ってるの」


 湊の苦笑が返る。

 ちはるとしては、長年勤めて慣れている彼でも疲れるのかと、驚愕から出た言葉であったが、失礼に値してしまっただろうか。

 不安になりながら、「いえ、人間ですけど……」なんて返してみる。


 そこで言い訳をしない、というより言い訳が思い付かないあたりが椎名ちはるである。

 ドキドキしながら湊の顔色をうかがうように見つめていれば、とたんに、彼は大きな声で笑い出した。


「あはは、分かってるって! ごめん、ちょっとだけ、意地悪」


 そう言って、悪戯いたずらっ子が浮かべるような子供っぽい、それでいてどこか憎めない笑顔を見せてきた湊に、ちはるは「湊さん!」と言って少しだけ声を上げた。

 「ごめんごめん」あまり反省はしていないような謝り方で、彼は未だ肩を震わせながら笑いをこらえている。

 こらえ切れていないというか、誰が見ても明らかに笑っていると判断できるところが目につくのだが。


 ムッとしてじとーっと恨みがましいという視線で彼を睨むが、あまり効果はないようだ。

 意外に意地悪だな、と印象を改めながらも、とても心地の良い空気であることは否めない。


 やっぱりここで働けて良かった。

 まだ働き始めて少ししか経っていないのだが、そう実感するほかない。

 自分の友人の中には、バイト先の従業員との人間関係で様々な問題にぶち当たり、色々と愚痴を零している子もよくいる。

 特に、女性の先輩がいるような場所では、女同士の確執のようなものが生まれてしまうようだ。


 が、自分にそのようなものは無縁のよう。

 もちろん、今後何が起こるかわからないのだが、そう言い切っても良いのではないだろうかという気がするほど、ここの雰囲気は心地良い。


 ふ、と小さく笑みを零し、水色のストライプが入った布巾でテーブルを拭く。

 このような地道な作業が元来好きだからなのだろうか。それともやはり心地良さゆえか。あまり面倒臭さを感じない。

 それなりには面倒くさがりである自分が、こうも活き活きと作業をこなしているところを見れば、やはり雰囲気だろう。ちはるはそう思いながら、せっせと片づけを済ませていく。


 花瓶に生けられた百合の花に視線を移し、「やっぱ綺麗だなぁ」と感想を漏らす。


「百合が好きなの?」


 別の従業員から声をかけられ、「大好きです」と笑顔で返事。

 「百合の花っぽいもんね、ちはるちゃん」さらっと投げられたその言葉に「えー」っと言いながらもちょっと嬉しかったりもする。


 百合の花言葉には色々とあるが、「強いからこその美しさ」が特に好きだった。

 百合には「純潔」などの可憐なイメージが付き物だが、そんな百合でも芯はしっかりしており、力強い女の美しさが象徴されている。

 百合の花の造形はもちろんのこと、そういった花言葉も彼女がそれを好きな一因なのだ。


「やっば、そろそろ11時になっちゃうね。もう遅いから先に帰っていいよ」


 壁にかけられた白い円形の時計に視線を投げたかと思えば、そんなことを言い出した湊。自身もそこに視線を向ければ、彼の言うとおり、もう23時になろうとしていた。

 窓から外の様子を覗けば、すっかり暗い。いや、覗かなくても暗いことには気がつけるほど、外の静けさが夜であることを主張していた。


 店内は確かに灯りがあるし、電気もついているため明るい。

 それでも、外の暗さが店内に反映され、昼間よりは遥かに薄暗いのだ。


 けれど、薄暗くなった店内は、それでも落ち着いた色合いで心に安らぎをもたらしてくれる。

 木製であるこの建物と、蛍光灯の淡い輝きが混ざりあって、どことなく森林浴をしているような気分だ。


 だからなのだろうか。

 あまり帰りたいという気持ちが起きない。というより、もう少しここにいて癒されたいなんて思ってしまう。

 それに、これはお仕事。これくらいの時間ならまだ遅いとは言い難いし、承知の上だ。


「いえ、大丈夫です」

「いやいや、俺もこんな遅くに女性1人、夜道を歩かせるわけにはいかないからね」


 そう言って紳士的に微笑んだ湊に、反応に困りながらも「惚れそうだ」と頭の片隅で思った。

 彼こそが、何かのお伽噺とぎばなしにでも登場しそうな、誰もが1度は夢見る「王子様」ってやつだろう。


 三十路みそじにそろそろ突入とは言え、それを感じさせない瑞々しさというか、大人としての無邪気さというか、とにかく、若々しい彼の態度や微笑みには安心できるものがある。

 ほんと、柔らかな空気で笑うひとだな。

 そう再実感しながら、「ほら、帰る準備」と促してくる湊に、困ったように視線を向ける。

 いくら彼がその王子様であるとは言え、その素晴らしさに目がくらんで、素直に「はい」と言えるかといえばそうではない。


「でも、」

「店長命令だよ」

「あ、それズルい!」

「ちーちゃんを心配して言ってるんだよ」

「む……」


 そう言われるとすごく弱いのだが、そう言われても、という気持ちもまた強い。自分だけが先に帰るなんてさすがに良心が痛む。

 もちろん、湊のそれこその良心を無下にしたくはないのだが、まだ片付きそうにない店内を見ていると気が引けるというもの。


「車で送ってあげてもいいんだけど、やっぱりねー」


 男性の車に乗るというのは、いくら親しくまたは優しく温厚な「良い人」でも、女性は少なからず警戒すべきだろう。

 もちろん、湊が悪いことをする人間でないことは十分分かっているのだが、彼が言葉をにごしながらも「注意しろ」と言ってくれたように、注意はしなければならないということだ。


「もちろん、俺が車で送ったからって何かするわけじゃないんだけどね」


 苦笑いでそう言った湊に、「確かにこの人はそんなことはしないだろうな」と心の内で確信した。

 そんなちはるの様子に湊はまた、いつもの柔らかい笑みを浮かべ、「はいはい、無理しない。安全のために早く帰って欲しいな」と言ってちはるの背中を押した。


「う……、はい」


 上手く言いくるめられてしまったちはるは、結局早くにあがらせてもらうことになり、ではお先に失礼しますね、と言って控え室に足を進めた。

 控え室に行く前に厨房の水道で布巾を手洗いし、それを今度は洗濯機に運ぶ。そうして控え室で荷物を整理した後、再度、湊と顔を合わせた。


「あの、お疲れさまでした」

「うん、お疲れ様。明日、明後日はオフだよ。十分休んで、また週明けからよろしくね」

「はい。それでは、ありがとうございました」

「いいえー、こちらこそ」


 にっこり微笑んで温かく見送ってくれた湊に笑いかけながら、ちはるはドアを開き、外を見た。

 空には、昨日のような星はひとつも浮かんでいない。代わりに、どんよりとした雲が空を覆っていた。


 明日は、雨かしら。雨なら早起きしないとなぁ。

 寝ていたいという気持ちを早くも最大限に脳に送りながら、ちはるは一歩、店から踏み出す――その時だった。


「もう俺との約束、忘れちまったのか? いやなに、お嬢さんにはしっかりと枕元で言い聞かせてやんなきゃ難しい注文だったかな」


 そんな挑発的な言葉と共に、嫌でも聞き慣れてしまった音が空から、いやちはるの頭上からたのしそうに降ってきた。

 不快感にしばし沈黙を強制されたちはるの声帯が、「失礼な挨拶ね」と音をつむぐために震えたならば、声の主もテノール同様、ちはるの頭上から降ってくる。


「ひゃあっ」


 驚愕を露わにした反射的な悲鳴をもらせば、恐らくC&Bの屋根から飛んで降りてきたその男――シンは、なんとも嬉しそうな表情でちはるの目の前に着地した。

 華麗な動きで着地した人間離れしているその能力に驚くより、頭上から何かが降ってきたという事実に驚愕を隠せない。


「イイ顔、してんじゃねぇか」

「っ」


 クイっと、人差し指で顎をあげられ、紅い隻眼とちはるの漆黒が交わって反発しあう。


 何がイイ顔よ!

 イイ顔と言っても、どうせ恐怖を抱えた表情のことだろう。そう思うと素直に喜べる気がしない。

 怒鳴りたかったちはるだったが、返ってきそうな台詞を予想しなんとか我慢することにした。


 顔を横に勢い良く振って、シンの指を振り落とす。彼は「残念」とこぼして、その左手をぷらぷらと揺らすのみ。

 相変わらずの演技がかった大げなさその態度に、ちょっとした苛立ちが蓄積していく。

 それでも、何も言えないのはやはり、彼という存在への恐怖が先立っているからなのかもしれない。


「で。俺を呼べって言ったのに」

「どうして私があなたを呼ばなきゃいけないのよ」

「俺がアンタに、そうしろって言っただろ」

「だからって、あなたの指示に従う必要なんてないわ」

「吸血鬼を知っているか」


 突然の脈絡のないシンの言葉に、ちはるの勢いは一気に止まった。

 今までのやり取りから一転したその質問は、彼女の勢いを削ぐには十分だ。


「そ、そんなの、あなたが説明してたじゃない」


 確かに自身は昨夜、このシンという男に彼が「吸血鬼」であるという事実を含め、その存在が何たるかを教えてもらった。

 だから、ある程度の知識は彼から得たつもりだ。

 その思いで、ちょっと突き放したような言い方でそんなことを言えば、シンは「あー」と曖昧な音を作り、「そうだな」と一言零した。


 それは、どういう風に言葉を使ったらいいかを考えあぐねているような、躊躇ためらいに見える。

 ぽんぽんと嫌味な台詞を作り出してまき散らす彼にしては珍しい。そう思いながらも口を開くまで律儀に待っているあたり、自分もなんだかんだ馬鹿。

 それでも、身体を支配するはやはり恐怖と、確かな好奇心か。


「吸血鬼を、理解しているか」

「え?」

「いや、これも聞き方が……」


 ブツブツ言い始めたシンを訝しげに見つめながらも、ちはるの脳内は『吸血鬼とは』という表題を掲げ、思考を巡らせていた。


 ――吸血鬼とは。いくら考えても、昨日シンが説明してくれたこと以外にはよく分からなかった。

 だいたい、彼がちはるに「吸血鬼とは」を丁寧に説明したというのに、なぜ、知っているか、などと投げかけのか。疑問でならないのが本音だった。

 そんなちはるに気付いてのことだろう。シンはため息を吐き、「吸血鬼ってのはな」と語り始めた。


 一応、耳を澄ましてきちんと聞くという行為に辿りついたちはるは、黙ってそれを見守る。


「吸血鬼は夜、人間を狙う。誰だって良いんだ。目に入れば誰だって。吸血鬼には人間と違って大層な理性なんてもんはない。そりゃ多少なりともあるっちゃあるが、人間に比べりゃ微量なもんでな。本能のままに血を求めて人間を狙う」


 この意味が、わかるかよ。


 そう言って、ちはるをその射抜くような一つ眼で見つめるシンに、ちはるは小さく声を出した。

 声を出そうとしたときの、何かが突っかかったような感覚は、即座に無視をして――。


「それって、私があなたに狙われるってこと、でしょう」


 震えた声は、恐怖に染まっていた。

 しかし、シンは「それも考えられると言えば考えられるか」と、今さら気がついたとでもいうように、感心したような声色で呟く。

 思わず拍子抜け。恐怖は途端に微粒子となって霧散する。


 一体、何なの。そうでないというのなら、一体何を言いたいのか。

 ちはるが不信感も露わにそう言えば、つまりだな、と自分でも上手く整理しきれていないのが丸わかりな態度で、彼は言葉を口にした。


「俺は理性のある方でな。止めようと思えば止められる。オンナがダイエットのために食事制限するようなもんだ。頑張ろうと思えば止められるが、まぁ止める必要もないから、ガマンなんざせずに喰うわけだけど」


 なるほど。ダイエット、と言われると、すこしだけわかるような気する。


「だがな、俺のように理性のある吸血鬼なんざいやしねぇ」

「……だから?」

「つまり、アンタが吸血鬼の目に留まれば、一瞬で餌食になっちまうってことさ」


 そんなの、危険なのは私だけじゃないわ。

 そうは思えども、口にはできなかった。もし本当に目に留まってしまった時のことを考えれば、言うことなどできなかったのだ。


「俺は、俺のお気に入りを他人に渡すつもりはねぇ」

「……」

「俺がアンタに興味をなくすまでは、だがな」


 それはつまり、いつかは殺されてしまうということなのだろう。

 いつかは、シンによって吸血鬼にされてしまうということなのだろう。


 それがいつになるかは分からない、それでもいつかは――いつか、は。


「それまでの間だ。俺がアンタを守ってやるよ」

「そんなのっ、」

「ゴチャゴチャ言うな。小難しいことは嫌いなんだ。とにかく」


 彼は、声を上げる。


「俺のお気に入りである以上、他の野郎には指一本触れさせねぇつもりだ。だから、アンタも他の野郎にやすやすと股開くなよ」

「だっ、だれが開くもんですか!」

「ま、俺限定で許可すっけど、なんて」

「っ」


 森がざわめく。沈黙が唄う。

 期限付きの用心棒は、さて用心棒になり得るか。


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