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あの人、知り合い?
にこやかな笑顔で湊に聞かれたのは、つい先ほどのこと。「いいえ、知りません」なんて、にこやかな笑顔で切り返したちはるは、一発例の男に睨みをきかせてすぐに顔を背けた。
そんなちはるに、湊は目を細める。
知り合いがこうしてバイト先に足を運んでくれるなら、彼女も仕事がしやすいだろうし、まだ新人である彼女には、力を抜ける良いチャンスかもしれない。
そんなことを思いながら湊は微笑ましそうにちはるを見ていたが、それにしても――と、ちはるの知り合いらしい男に目を向けた。
サングラス、裸に真っ白いファー付きのコート、革の黒パンツを穿き手には黒い手袋。どこか変質者ともとれる格好だと思うのは、自分の捉え方の問題だろうか――いや、そんなことはないはずだ、と湊は反語で自己完結。
もしかしたら何かの撮影の後かもしれない。なんて、あまりに苦しい理由付け。それでも、サングラスをしていてもわかる彼の容姿の端麗さは、そう結びつけても不自然さは感じさせないだろう。
そして、対するちはるに視線をやった。
真っ白い七分丈のフリル付きのブラウスを、ウエストリボンの黒いスカートにイン。水色のチャーム付きネックレスを首からぶら下げ、足元には白のパンプス。茶色く染められた髪の毛は2つに分けて結ばれており、女子大生らしい清楚感溢れる身だしなみだろう。
この二人が知り合いなんだ。
少しだけ驚きながら、カランカランと鈴の音を響かせてやってきた別の客に笑顔を向けた。
「久しぶりにきちゃった」と言って笑ってくれたかつての常連客に、「お久しぶりですね」と柔らかく歓迎する。穏やかな気持ちのままその女性客二人を席に案内し、水を持ってきたちはるに視線を――。
「ちょっ、ちーちゃん、お水お水! こぼれてるんだけどっ」
「……ゆっくり歩きます」
「……そうして」
相変わらずのちはるの不器用さに、思わず焦った声を出す。
ちはるとしては、どうして水が零れるのかと少々イライラ気味であるが、そんな彼女の心境などお構いなしに水はコップにおさまらないまま、自由になりたがっているようだった。
店内は今日も満席。忙しく動く従業員に合わせて、ちはるも素早くお冷を届けたいところであるが、そういうわけにもいかないのがまたイライラさせる。
申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちでどうにかなりそうだった。そんなちはるの心情をなんとなく推し量ってはいるものの、丁寧に指導するには少々人が多すぎる。
湊も湊でもどかしい気持ちを抱えながら、彼女が席まで運ぶ隣に付き添い、「落ち着いて平行にね」とアドバイス。ちはるはそのアドバイスをもとに、ギクシャクとしながらもそろーりそろり、抜き足差し足忍び足で常連客女性たちのもとへと向かう。
「がんばれー」なんて声が聞こえることを嬉しく、そして恥ずかしく思いながら、彼女は必死に水を運んでいた。
そんな彼女に店内は笑いに溢れているが、それは昨日ですこし慣れたので、恥ずかしさに染まる頬は気にしないようにして、水に意識を集中させた。
なるべく平行に歩けば――そんな一心で、結局変な歩き方になっているのはご愛嬌か。
普通に歩いているはずなのに、水はどうにも零れ落ちてしまう。「大丈夫ですか」などと、ついには客に心配される始末。
「全力で急いでいますので、少々お待ちを、……あ、こぼれたぁ!」
「ちーちゃんがあそこに辿り着くまでに、どれだけ残ってるかなぁ」
「あははっ! お姉さん、頑張ってあたしのとこに持ってきてくださいね!」
応援されて、少し苦笑する。
さっさと歩く同大学の先輩にあたる女バイト生を横目で捉え、「何であんなに動いているのに零れないんだろう」と心からの疑問。「歩き方じゃね?」どこかの客が推測する。歩き方。そう考えて、自分のそれを見直す。
しかし、特別ピョンピョン跳ねて歩いているわけではないし、今は特に意識して普通に歩いているつもりだ。だとしたならば歩き方ではないだろう。それなのにどうして。いや、普通に歩いているつもり、なのか。
そこまで考えて、ちはるは何かを思いついたように「あ」と言った。それと同時に、少し水かさが減ってしまったお水を女性客2人の机上に置く。ようやく来たお冷に笑顔をみせた女性客は、「ありがとう」とお礼をひとつ。
むしろごめんなさいとしか言えないわ。引きつる口元をなんとかコントロールし、「ごめんなさい」とまさに気持ちそのままを口にするのだった。そして、今思い付いた最高の案を湊に向けて発する。
「湊さん。いっそコップだけ持って行って、お客様の席で水入れましょう!」
「ちーちゃんのみ、それもありかもね……」
「あは」
遠い目をしてそう言った湊に、「そうしろよ!」なんて店内が騒ぎ出す。ええっ、と逆に驚いている店長・湊を完全無視の方向で、「次からそれで決定だな!」と中年の男性客が声を張り上げた。同意の声がちらほらと飛び、湊は苦笑を洩らす。
普通、このような要領の悪さは非難されるのが当たり前なものだが、こうして温かく許されるのがここ、C&B。新人教育をしていないわけではないのだが、こんな新人はかつても幾人かいたようで、常連客は慣れているようだった。
もちろんアットホームな雰囲気であるとは言え、神経質なきっちりタイプには嫌われる店だろう。やるべきことはやっているからこその「自由」なのだが、ちはるだけを見ると評判も下がりそうだ。
それでも、評判は下がらず温かい態度で笑ってくれる客と従業員がいるからこそ、それがここの魅力でもある。
「ご注文が決まりましたら、お呼びくださいね」
「お疲れさま!」
「う……、本当に、すみませんでした」
「いいって。またよろしくね」
「こちらこそ」
笑いあって、ちはるは厨房に向かった。
そして、出来あがったオムライスとオレンジジュースに、色々思い出して溜息を吐く。
太陽の光が苦手な夜行性である吸血鬼がなぜ、まだ明るいこの時間帯に活動できるのかしら。尽きない疑問をまた再発させて、このメニューを注文した男の元に足を運ぶ。
優雅に座っている様はとても絵になるが、どうにも憎らしく思えてたまらないのは出会いが出会いだったからか、それとも彼自身の性格を知ってしまっているからか。
それでにしても、眉目秀麗な様はどの補正もかからず確かなようで、すこしだけ悔しくもある。
「ちゃんと“取ってこい”はできたかよ」
そして、この口調である。
私は犬じゃない――突っ込んでみたところでどうにもならない。からかうように上げられた口角が憎たらしいが、今は仕事中。抑えるしかない――と昨日から何度も言い聞かせている気がする。
確かに、みんなに見守られながら何かを持ってくるのは、まるで犬の「ボール取り」、いわゆる彼の言う「取ってこい」のようではあったが。それでも、やはり言われると頭にもくるというものだ。
零れていない奇跡のオレンジジュースを彼のテーブルに丁寧に置いて、営業スマイルに励んだ。その笑顔への返事だろうか。「どーも、お嬢さん」と軽い調子がちはるに贈られる。
サングラスに何を隠しているのか。そんなことにちはるは興味などそそられもしないのだが、少しだけ気になったのは、室内でそれをかけているからなのかもしれない。深い意味などないだろう。
「こちらのデミグラスソースをご自分でおかけになって、お召し上がりください」
「はいはいっと。ところで、ちはるってナマエなんだな」
「ええ、そのようですね」
うわ、他人事。そう言って、わざとらしく肩をすくめてみせた男に、ちはるは「それでは仕事がありますので、失礼しますね」と言ってその場を去った。
いや、正確には「去ろうとした」のだが。ちはるの腕は、男の黒い手袋をはめた手に捕まっており、彼女は引きとめられていた。
うわ、と思い引きつりそうな口元を再度丁寧にコントロール。「何かご用でしょうか」と至って普通を装い、柔らかく優しく丁寧に、ちはるは男に問いかける。
そんな彼女の腹の底に気付いているらしい。男は少し尖った犬歯を見せながら、感じの悪い笑みを浮かべた。
なるほど、悪役も面目丸つぶれ。
そんな笑みに、ちはるは改めてこの人間――いや、人間の形をした「吸血鬼」とやらの並みならぬ意地悪さを、しかと感じていた。
コイツは確かに吸血鬼だ、なんて、皮肉も言い得て妙である。
「今日お嬢さんの仕事が終わったら、あの家まで送ってやるからさ。終わって外出たら、『シン』って俺のナマエ呟いてよ」
何を言い出すのか。この男に家まで送ってもらう義理はない。送り狼にでもなりそうなこの男に、どうして送ってもらう必要があるのか。
ちはるは不審げな色を瞳に宿して、シンというその男を睨んだ。何が目的なのかは分からないが、このようなよくわからない存在にこれ以上関わる気はしない。
それに、前回はなんとか何もなくて済んだが、今後一体何をされるかわからないのだ。
この男の雰囲気からしても危険なものだということは容易に判断できるし、だいたい「吸血鬼」であるということを本当の本当に信じるとしたならば、絶対に関わりたくないものである。
「いえ、結構です。確かに夜道は恐ろしいけれど、あなたにそこまでしていただく義理はないわ」
段々、この吸血鬼に敬語を使うのが煩わしく感じてきた。ちはるは口調を少々崩しながら、そう答える。
それでも、敬語が崩れ始めたのは意図的か無意識か。じ、と視線は逸らさず、気の強い彼女の性格そのままに、ちはるは睨むようにしてシンを見ている。
聴覚の端っこで、カチャカチャと食器が重なり合う音が聞こえた。拾い上げた音はなるほど忙しそうで、今このような会話をここ一点に留まってしている場合ではないと思わせる。
忙しく動いているほかの従業員とは真逆に、一点から動かない自分がなんとなく異様な姿であるような気がした。
「おいおい、ここらには俺と同種なのに、卑劣で飢えた最悪な奴らが腹空かして獲物を狙って待ってんだぜ」
「あなたに言われたら彼らもおしまいね」
ついに敬語が滑り落ちた。どうやら、なけなしの理性で繋ぎ止めていた優しさと丁寧さは、どこかに消え去っている。
「手厳しいご意見だ。くくっ、悪くねぇ」
邪悪、だ。ちはるは率直な感想を脳内にて述べる。笑い方がもはや悪魔、いや魔王、いやいや大魔王のよう、なんて。そんなことを頭の片隅に生みながら、至極愉快そうにしている男に眉を寄せる。
そして常に眉間にシワを寄せ始めている自分の境遇に気付き、この先の将来に一抹の不安を抱いた。
シワの標準装備だなんて、目玉焼きに塩コショウでなくお茶がかかっているくらい不快なことだわ、と。
どうでも良いことだが、目玉焼きには醤油でもソースでもなく、塩コショウ、というのがちはるの好みだ。本当に、どうでもいいことなのだがさらに追加するとすれば、どうして醤油とソースを並べ上げ、塩コショウ又は妥協して塩が並列されないのかと不満である。
とは言え、醤油とソースが似通っているから並列されているのだろうが、不満で仕方が無いというのは本音だ。本当に激しく最高にどうでも良いが。それでも、彼女にとっては重要なことなのだろう。味覚というものは生き物にとって重要な要素であるから。
しかし、そう考えるとこの目の前の「吸血鬼」とやらの味覚はどうなっているのやら。考えただけで恐ろしい。背筋も凍る勢いだ。
だって、吸血鬼の主食は人間の生き血。
人間の中にもカニバリズムやそれに似たような嗜好をもつ者もいるようだが、枠からは外れているように思われる。
それは差別的な認識ではなく、単純な恐怖だ。
マイノリティーに恐怖を抱くマジョリティーとしての、そして自分とは違うからにして抱く確かな嫌悪か。
その感覚が認識としての批判などといったものではないことは言うまでもないが、一般的な感覚からすると、それは少々異常であり異質だろう。
しかし吸血鬼。吸血鬼というグループで考えると、これもまた変わってくる。吸血鬼という存在を認識する手段としても、「人間の生き血が主食」というのは当然のものである。彼らはそれを美味しいと言って食すのだから。
さらに言えば、吸血鬼という存在自体は異常であり異質であるが、吸血鬼という存在を考える際には「人間の生き血が主食」という事実が「普通」であり「一般」になり得るのだから、また面白いことである。
ただ、どうであれ自分の味覚と同じような感覚で彼らも血を美味だと感じ取っているというならば、なんとも不思議なものだろう。自分たちの思う「食べ物」の範囲でなら好き嫌いも理解できるが、それが自分の体内を流れる血液となれば少々想像がしにくいのも無理はない。
「ちはるちゃん、お話し中悪いんだけど、次のオーダーお願いできる?」
「あ、はい! すみません」
湊の呼びかけにちはるは我に返る。そして、そっと掴まれていた腕を振り解き、失礼しましたと吸血鬼――シンに向かって笑みを浮かべてみせた。そして、急ぎ足でその場を去って行く。
このまま吸血鬼という存在に脳内を侵されていくのは心外だ。そう思いながら次のオーダー元へと歩を進ませるが、やはり自分の思考を占めるのは吸血鬼について。なんともファンタジーな頭だと思えど止まらない。
背中越しの笑い声は、気付かないふり。警鐘音は、音を刻まない。