1 (R15)
「オネエサン、俺と1曲踊らない?」
大きな胸を強調させて、鮮やかな赤いドレスに身を包んでいる女性が一人。潤いある唇を少し震わせて、クラシカルな曲のワンフレーズを口ずさんでいた。コツン、コツンという、ハイヒールの地面を鳴らす音も、鼻歌にあわせてリズム良く打たれている。
そんな彼女は、後ろから降ってきた声に一瞬ビクリと肩を揺らした後、ゆっくりと声の方へと振り向いた。
そうすれば、そこには見慣れぬ姿の男が一人。真っ白いファー付きのコートに黒いシルクハット。コートの下には何もまとわず、黒いパンツに黒い手袋をし、端正な顔立ちをした青年だ。
真っ直ぐに彼女を射抜き、一瞬たりとも視線を外す気配が感じ取れない。そこで気づく――この男、片目を包帯で覆っている。さらに、あらわになっている瞳の、なんとおぞましくギラついた赤なこと。
しかし女は、恐怖など微塵も抱かなかった。
ただその綺麗な顔に喜んでいたのだ。こんな綺麗な顔の男が自分と1曲踊ってくれるのかと。そう思うと、喜び以外の感情は心に入り込む余地もない。
ちょうど女はパーティーの帰り道。普段は車に乗って帰るのだが、今日は少し酔っていることもあってか、何の断りも入れずに勝手に会場を抜け出してきてしまってた。
本来なら、そういったパーティーの際、招待客が主催者や関係者に無断で抜け出すことはたいへん失礼な行為であり、関係が断たれることも覚悟しなければならない。しかし女にとってそのパーティーは、ひどく退屈でつまらないものだった。
退屈でつまらなくて一銭の価値もないパーティーだったが、もしこの男が一緒に踊ってくれるというなら、会場に戻っても良いだろうという気さえする。値踏みをするように長い睫毛を揺らして上から下まで彼の姿を見つめ、彼女は満足したように微笑んで口を開いた。
「あなた、まだ若いわね。踊れるの」
女は目つきを変えた。とろんとした虚ろ気な目――だが、その奥にはまるで獰猛な猛獣でも飼っているかのように鋭い欲望を携えている。一曲踊れば私の綺麗さに堕ちるわ。そんな確信を秘めながら、女は大きな胸を見せつけるようにして男の目前までやってきた。
だが、男は笑った。ただ笑った。その質問に、笑ったのだ。女はその様子に、訝しげに男を見やるのみ。
男は見た目若い。外見だけなら20代半ばくらいだ。確かに若い。若い、が。そんなことに男は笑ったわけではなく。本当はもっと歳をとっているだとか、そんなことに笑ったのでもなく。ただもっともっとシンプルでどうしようもないことが、彼の笑いを誘っていたのだ。
「おいおい、オネエサン。まさかこんな路地裏で本当に一曲踊るつもりじゃねぇよな」
「え?」
踊れるのか――その質問に笑ったのだ。
踊れるに決まっている。男からこうして誘ったのだ。下手なら絶対に誘わない。むしろそこらの奴より上手い自信が彼にはあるだろう。テクニック満載、相手のこともその行為もしっかりと熟知しているのだから当然である。
しかし、ただのダンスではない。踊るという行為にそれを見立てて比喩にしているだけで、実際に一般的な考えとして想い巡らせるダンスとはほど遠かった。ある意味“踊る”でも間違えてはいない。けれども、的確とは言い難い。
「踊ろうぜ。今夜は月がきれいだ」
喧騒のない静かな裏路地。赤煉瓦を基調にした景色は相変わらず妖艶な雰囲気を醸し出している。立ち並ぶ高層の建築物は隠然たる勢力を備えているかのごとく、どっしりと居を構えて存在しているように思えた。
その隙間から覗くきれいな三日月。そいつは今この場所――地上にいる全ての存在を嘲笑うかのように弧を描いて、我々を見下ろしている。静かに肌に触れて去り行く風が、小さく音を立てた。
男が女の顎に手をかける。そして、その高い背ゆえか故意かは分からないが、愉悦の色を瞳に浮かべて女を見下ろす。月より卑猥で確かな存在感を放つその男は、女の視線をくぎ付けにしていた。
「最高の夢、見させてやるからよ」
「最高の、夢……?」
「そ。快楽の、な」
低く耳元で紡がれた言葉に、女はハッとした。なるほど、「そういうことか」、と。
つまりこの男、自分との性行為を求めているのだ。恐らくこの美しい体に目が眩んで欲しくなったのだろう。そう考えた女は狂喜を露わにした。こんなにもイイ男が引っ掛かるなんて、と。
「いいわよ、一曲踊りましょう。月夜の下、貴方に抱かれるのも悪くないわ」
「ハッ、言うねぇ! 潔いオンナは好きだぜ。じゃああれだな。せいぜい月と俺に抱かれながら、良い音楽奏でて乱れてくれよ」
そしたら、天国にイカせてやるからさ。
その言葉が合図だった。
男は女の手を奪い、勢い良く壁に押し当てる。乱暴な様が女を刺激し、もっと、という欲望の疼きを感じさせた。まるで強く求められているその様子が、ひどく心を擽ったのだ。乾いた心に確かな“承認”を与えてくれる男の獰猛さに、どうしようもない“女”の自分が、ワガママなほど顔を出して求めてしまうのがわかった。
自分も求めたい――そんな欲に駆られて、女は誘いの動作に入る。
顎を上げて唇を押しだす。鮮やかで美しい赤の唇がぷくりと、誘うようにして男の前に突き出される。それは紛れもなくキスのおねだり。その様子に、男は静かに口角を上げた。そうして言うのだ――それはお預けだ、と。
戸惑った表情を見せた女にくつくつと喉で嗤い、男は頬にゆっくりと手を這わせた。どうしてキスしてくれないの――そんな疑問を表情で露わにしているその女に何も言わず、男はやはりわらうのみ。
女は頬を触られる小さな感覚に酔いながらも、なぜキスをしてくれないのかと未だ表情で問いかける。唇に触れたい、そう思うのにどうして。
しかし隻眼に視線をやれば、赤が自分の目を射抜いていた。それだけで震える身体、囚われる心――もっと欲しいと、そう思わせる。爪先から脳天に駆け巡るような欲望は、自身の「雌」の部分を容易に煽っていた。
「あーあ、単に頬を触っただけなのに。ずいぶん酔うのが早いな」
「あなたのせいよ」
「そりゃ失礼」
真っ直ぐに顔を見ながらそう言われるも、その射抜くような加虐心を秘めた視線に見つめられると、もっともっとと求めて感じてしまう。
挑発的な言葉を作るそのテノールも、この男以外に言われていればすぐに気分を害して立ち去ってしまっていてもおかしくないのに、彼が言えばたちまち甘く優しく刺激的な響きをまとってしまう。
そうしてまた、溺れていく。
ああ、なぜだろうか。
探るようなじれったい愛撫を頬で繰り返されているだけで、自信満々な割には、テクニカルなことはひとつもしてもらっていない。
もう何人とも交わらせてきたこの身体。そんな幼稚なお触りなんかで、満足することなどできない――はずなのに。
なぜ。なぜこんなにも、心が躍るのだろう。
なぜ、こんなにも求めてしまうのだろう。
もっともっとと思ってしまう。願ってしまう。もどかしくて、じれったい。どうしようもなく、この男が欲しくなる。
「ああ、期待してんだよな。これから先を」
ニヤリと嗤う、その男。
ああ、ただ声を発しただけなのに。
なのにどうしてこんなにも求めてしまうのか。
彼の容姿か声か、それともその存在全てが媚薬なのだろうか――疑問は尽きぬまま、それでも魅せられていくばかり。
「”酔っ払い”の困ったオネエサンだ」
何もしていないのに快楽に浸っているらしいその女に、男は「仕方ねぇな」と一言漏らした。
その声をきちんと捉えたらしい女は、男の顔が自分に近づいているのを感じ、次にくるだろう確かな唇の感覚に胸を高鳴らせ目を輝かせた――きっと、キスをくれるわ、と。
が、次に男が行った動作は、女の予想をはるかに超えるものだった。
「っ、い……!」
カリ、と何かが何かを咬む音がした。女が一瞬の痛みに顔を歪める。その顔に、ようやく男は満足そうな顔をしてみせた。
「な、に……」
嗜虐趣味というほどではないようだが、それでもいささか意地悪なことを好むのだろうか。
そう、男は胸元をただ牙を立て、甘く噛んだのだ。胸元を噛まれるとは思ってもいなかった女は、理性の片隅で「すこし変わった趣味ね」なんて、そんなことを思う。
「痛みに歪める顔。行為の時となんら変わらねぇ。おもしれぇな、本当。女ってのはよ」
女はその言葉に、焦らされているような感じを覚えた。我慢ができないという、焦りの感情が浮かんでいく。
あの瞬間を待っている。待っているのだ、自分は。なのにどうして焦らすの――瞳が問いかける。そして、求めている。
「そんな御託はいいわ! 早く、早くちょうだいっ」
「せっかちなオネエサンだこと。お楽しみはこれからだぜ」
急かす女に笑みを浮かべる――本当に困ったオンナだという色を込めて。
男も「目的」を果たす方が重要であったことが作用してか、その後は仕方がないなという雰囲気を出しながらも、至ってシンプルに行為は進んだ。
ただし、男の指す「目的」も「行為」も、女の求めるものとはかけ離れているのだが。
男が、咬んだその場所から「何か」を吸い上げる。その瞬間、頭が真っ白になりそうなほどの刺激が駆け上った。今まで味わったことのないような凄まじい感覚が女の体を襲っていく。
今まで幾度となく幾人もの男と体を重ね合わせてきた女だが、この男との、この「体を重ね合わせずになされる行為」が一番の快楽ではないかと、ほとんどなけなしの理性でそんなことを思った。
これまで多くの男から与えられてきた快感など、いま首元から与えられている、この全身を貫く巨大な刺激には、太刀打ちできぬほどに小さく、気づかなくなるほどに弱かった、と否応無しに気づかされた瞬間だった。
甲高い声、ビクリと揺れる体。
おかしくなりそうだと思う間もなく、女の理性と意識は完全に吹っ飛ぶ。
そんな女を一瞥して、男は口を少しだけ離した。
そうして、彼は言う。それは静かな響きを持っていた。
「天国に1名様ごあんなーい」
言葉と同時に、女はくたりとして動かなくなった。
気を失ったのだろうか。あまりに強い刺激。脳がオーバーヒートしてしまうこともあり得る。
しかし――しかし、だ。
ちがうのだ。この女は気絶したのではない。決して、気絶したわけではない。この女は、そう。
本当に天国に逝ってしまったのだ。
「吸血鬼に咬まれた人間は死んじゃうってね」
ただし――。
そう紡がれたその先は、闇夜に吹いた一陣の風だけが足早に攫って行った。