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なにを言っているのだろうか、この不審者は。
ちはるは先ほどまで感じていた言い知れぬ恐怖感を忘却の彼方に捨て去り、勇気ある行動にも思えるが、訝しむように自称吸血鬼とやらを睨んだ。
しかし、対する自称吸血鬼は、彼女の睨みなどものともしないらしい。余裕ある視線を返し、“人間の”挑戦的な態度を面白がるように、小さく声を漏らして笑った。
その姿が癇に障る。ちはるの視線はさらに不機嫌さを帯びた。
「ほらほら、肩の力抜きな。アンタに何かをしに来たわけじゃねーから、あまり警戒しないでいいぜ」
おちゃらけた雰囲気でかわされてしまうのは、もうお約束に近いのかもしれない。
思わず無言になったちはるを彼はニヤニヤと笑いながら見つめ、黒い手袋を填めた自身の人差し指を、そっと彼女の顎にかけた。
「もう飯は食ったからな。腹はいっぱいなんだ」
――ゾクリ。そう言ってシニカルに笑んだ彼に、ちはるはまた言い知れぬ悪寒を感じた。
「腹はいっぱい」と言ったことに対してか、それとも彼の醸し出す空気か。明確な悪寒の対象はわからなかったが、確かに背筋が凍ったような気がした。
反射的に首を振り、彼の人差し指を退ける。恐怖? 嫌悪? ――そんなものでなく。
何かが突き上げてくるような、それはまるで体内からの上昇気流のような。そんなものに運ばれて、何かがちはるに警鐘音をかき鳴らしていた。
吸血鬼。
今日もバイト先で始終話題にあがっていた、ファンタジーの題材として非常によく扱われる伝説的存在。様々な説はあるものの、夜に墓場から蘇る死者の霊であり、人間の血を吸って力を得る化け物、というのが一番ポピュラーなものだろう。
また、「吸血鬼に咬まれた人間は、死んで吸血鬼になる」というのも、多くの設定に付属しているものだ。どの作品も言い伝えも、大体はその設定を利用している。
とは言え、何度も言うがそれらはただのファンタジーかつ伝説であり、現実としては考えられないようなものであるわけで。
「……ふざけてるの」
「こんな性格なものでね」
そう捉えられがちだが、言っていることは本当さ。
なんて、ワザとらしくも肩を竦めてみせたその男。ちはるはやはり「胡散臭い」という感情を至極あらわにした、訝しげな視線を投げつけた。
どう考えてみても、目の前の男は胡散臭い。口調も雰囲気も、どこか言葉遊びを楽しんでいるだけのようだ。そんな男の言うこと――それもあまりに非現実な内容を、素直に「はいそうですか」と信じることなど不可能に近い。
そんなちはるの意思を読み取ったらしい。あらま、と言って残念そうな表情をする。
その姿が挑発的で嫌な感じという印象を与え、ちはるはやはり心底嫌そうな顔で彼を睨みつけるのだった。
彼に良い印象など、塵ほどにも抱かなかった。いや、抱けなかったのだ。
「俺の目って赤いだろ? 吸血鬼ってのはな、赤い目をしているのさ。まぁ俗説では、血を吸うから瞳まで赤に染まった、なんて言われているがな。ぶっちゃけ俺たち吸血鬼も、自分たちの体の仕組みについてはあまり詳しくねぇんだ」
「不真面目なのね」
「そう否定的に捉えるなって。人間だって自分たちの身体の仕組みについて、全員が全員詳しいわけでもないだろ。吸血鬼だって一緒さ」
もっともらしいことを言う彼。その口調は軽いが、自分が吸血鬼であることは決定事項であるかのような言い方だった。それが明らかな事実であり紛れもない現実なのだと、何ということもない言い草が、まるで「本当」であるかのような気にさせてくる。
だが、吸血鬼と言われはしても、信じられないというのが本音だった。
もちろん、吸血鬼という生き物がただの寓話であるということもだが、それ以上に、まだ数分しか関わり合っていないがそれでも分かる、彼の挑発好きな性格を知ったからである。だからこそ、ちはるをからかっている以外に捉えようがなかった。
とは言え、吸血鬼であろうとなかろうと、目の前の男がちはるにとって犯罪者となりうる人物には間違いないのだが。最初ほど危機感を感じさせないのは、この飄々とした態度だろう。
黙って見つめられると恐怖感にも似た感情が沸き上がるが、こうしてずっと話していると途端にそれは消えていく。故意かもしれないがどうしようもなく、ちはるは自身が自身によって、なされるがままに行動していくしかなかった。
「ま、とにかく、お嬢さんがなんと思おうと、俺という存在が吸血鬼であることにちがいはねぇ。よろしくな、お嬢さん」
「、そんなに簡単に吸血鬼だなんてバラしていいの」
「バラしてアンタが言いふらしたところで、誰も信じやしないぜ」
彼がクツクツと喉で笑う。なんだか不思議な感覚だった。
自分から自信満々に吸血鬼であることを告げてきたというのに、世間一般のそれに対する見解や反応としては的確かつ、否定的な意見。そうされてしまうと、変に現実味を帯びてくる。
彼が吸血鬼であることを信じたわけではない。が、そうなのではないかと思い始めている鈍った脳があった。
ワインレッドのカーテンが窓から入り込む強い風に抱かれ、彼の後ろで無造作に舞った。
のぞく半月はどこか不気味だ。
「……じゃあ、」
踏み込むな。どこかで誰かの声がした。
「吸血鬼の伝説はどれが本当なの」
関わるな。どこかで誰かが引きとめた。
それでも、好奇心というものが沸いてきてしまっては引き返せなかった。引き返したくもなかった。いや、叶うならば引き返したいと思っていた。叶うならばこのまま逃げ去って関わり合うことをやめ、いつもの日常とやらに、すぐさま戻りたかった。
だが、ぶら下げられてしまっては好奇心が騒ぐ。そこまで本当であるかのような態度を見せられては、どうしようもない。
もちろん、恐怖感が完全に消え去ったわけではないから、こうして「吸血鬼」と相手を仮定して話しかけるには、いくら信じていないとは言え恐ろしいものがあるけれど。
しかし、知りたかった。嘘か真か。ただ、それを。
「んー、例えば? 例えばどういう伝説のことだ」
「、伝説って言われるとすぐ出てこないけれど……」
いざ「伝説」とやらを思い浮かべようとすると、なかなか出てこない。いや、出てくると言えば出てくるのだが、聞いて良いものかと悩んでしまう自分がいる。
相手が吸血鬼だったとして――そうでなかったとして――どこまで踏み込んで良いものか、図りかねているのだ。
それでも、自分が一番聞きたい質問というのは結局これではないだろうか。少しの勇気は確かに必要だが、聞いてみる価値はあるかもしれない。
不審者と仲良くなろうという気は一切ないが、せっかくならば聞いてみるのもありかと思った。怖いけれど、好奇心は現在それに勝っている。
「そうね、吸血鬼ってどんな生き物なの」
ちはるが言えば、彼は口元に弧を描いた。良い質問だとでも言うように。
「そんなアバウトなオープンクエスチョン、初対面でかますようじゃ、お嬢さんのコミュニケーション能力はお粗末だな」
「なっ」
彼にとって“からかいやすい”良い質問だった、ということだったようだが。
「まぁ落ち着け、答えてやる。吸血鬼ってのは、一般的には様々な説がある」
民話で吸血鬼は、惨殺されたり事故死したり自殺したり現世に悔いがあったりと、そんな死に方をした、又は生前に罪を犯した人間が、墓場から生前の姿を持ったまま、不死者となって夜に生き返る者とされている。
また、人間の血を喰らうために色んな姿に変身できるというのも有名な説だ。擬態とでも言うだろうか。様々な姿に変身して化けることにより、人間をおびき出すというものだ。この説はなかなか有力で、非現実を現実にする際によく使われる設定だ。
「けど、これについては全部が正しいとは言えねぇ」
「え?」
驚愕の表情で男を見やった。信じていないはずなのに、あまりに言い切るから本気にしてしまう。
そんな自分に気がついたちはるは、馬鹿じゃないのと自身を罵った。その様子に気がついたのか。男はやはり喉で笑う。
「吸血鬼には“純血種”ってのがいてな。ハナっから吸血鬼として生まれてきた奴らがいるんだ。まぁそれも吸血鬼の間では、伝説があってな。神に逆らった天使が、ある日神の罰を受けて地獄に幽閉され、そこで神を憎みに憎んだ元天使が、神が愛したという“人間”を殺すために吸血鬼っつー化けモンになった、てな。が、生まれは定かじゃねぇから、そこはよく分かんねーんだけど。とにかく吸血鬼の始まりってのはそんな感じで、始祖っつー存在がいることは確かさ」
よくこうも舌が回るものだ。
引いたわけではないが、こうも長々と立て続けに話されてしまうと自分の脳のキャパシティを超えてしまう。理解するのに時間がかかってしまうのだ。
聞き慣れない言葉の数々を脳内でリピート。難しい言葉は適当に咀嚼し、なんとか自分の中で消化していく。
まとめていけば、吸血鬼には始祖というものがおり、混じり気の無い純血のそれが存在しているということだろう。
「その純血種は死ぬの?」
「死ぬよ。一応はな」
「一応は……」
「だがそれと同時に不死でもある」
「どういう、意味」
意味がわからない。
ちはるが不思議そうに眉を寄せて、睨みつけるかのように男を見た。
それもそうだろう。死ぬのに不死だと言われ、相反する言葉を並べ立てられてしまえば、そんな表情になるのも無理はない。
「やっぱりふざけてるの」
「おっと、可愛い顔が台無しだぜ、お嬢さん。ここらへんは複雑なんだ」
吸血鬼が不死であることは確かだが、成長しないわけではないため、自分の好みの年齢まで成長させることが可能だ。
ただし、自分で成長を止めずにいれば、吸血鬼は人間と同じく老いて死ぬ。人間よりかは長く生きるが、不死を手に入れることはできないのだ――ではなぜ不死か。
それは、特殊なものを施すことによって得られる、死してなお生き長らえるという究極の術のようなものであった。
「吸血鬼の究極の秘密ね……」
「背中に、成長を止める刺青を血文字で描くだけだぜ」
その刺青を描いたところで成長は終わり、不死を手に入れるのだ。
「だから、必ずしも不死ってわけじゃねぇってこと」
ちはるは、秘密を知ってしまったという恐怖感と、非現実が近い存在としてここにいることへの高揚感との二つを抱えたまま、シンから目を逸らさずに、ある意味で身を乗り出して話の続きを聞いてしまう。
「大体は不死を手に入れるが、血文字に使用する血は純血種の血でなければならない」
「純血種の血……、やっぱり始祖の血は強いってことね」
「そういうこと。で、純血種の血を吸って――いや、これは必要ないか」
で、だ。男はまた説明を始める。
「人間から吸血鬼になる奴ももちろんいる。だが、生前の行為が影響するわけじゃない」
「えっと……」
「ここで登場すんのが、ある地域の伝承」
生前に吸血鬼に咬まれて死んで、自らも吸血鬼になるというパターン。
これが、後から吸血鬼になる場合の正しい事実だった。
生前人間であり、死んで吸血鬼になった者は“準血種”と呼ばれる。準血種は、人間だった時に自分を噛んだ純血種を主として、吸血鬼となる。
つまり吸血鬼の活動として、その名の通り人間を吸血することは確かなわけだが、吸血された人間だけが吸血鬼になるということであり、生前の行いは何ら関係ないということである。
「目を見たり名前を呼んだりすることで、血や生気を吸い取り人間を殺害するとかってのも言い伝えがあるらしいけど、咬んで肌に穴を空けてそっから吸血すんのが本当」
「でもあなた、普通の人間と同じ歯だわ」
綺麗に並べられた白い歯を眺めて言った。人間となんら変わらない、その長さや形。それでどうやって吸血するのだろうかと疑問に思う。
すると男は笑った。
人間と同じ歯を見せながらその赤い隻眼を細めてみせ、愉しそうな表情で瞳に愉悦の色を浮かべて――男は、笑った。
「これが、へーんしん、てやつだ」
“色々な生き物に変身できる”。この説の何がバツかと言えば、色々な、の部分に語弊があるからだ。そう。
「吸血鬼は、空腹時以外は人間に化けることができるのさ」
「……っ、ひ、!」
男は笑った。しかしさっきとはちがう。
さっきはなかった。人間と同じだった。が、下歯茎にまで伸びた鋭く恐ろしい犬歯が確かに今、見えていた。それはとてもでないが非現実的なもので、そしてそうでありながら、確かに自分の目の前に広がる「現実」だったのだ。
「う、あ」
そこでようやく実感した。目の前の男は、確かに吸血鬼なのだと。
先ほどまではなかった牙が、今では口元から勢いよく窺える。目をそらそうとしても入り込んでくる牙。それは人間にはありえないもので、それは普通ならばないもので――だが、吸血鬼という生き物にはあると“されている”もので。
「ほらほら、アンタを食う気はないって言ってんだろ。怖がんなって」
背筋が凍った。確かな死を感じた。
飄々と笑う彼が、とても恐ろしい存在だったのだ。
「興味が沸いたからアンタは食わねぇよ。その代わり、今後もアンタには会いにくる。だから、俺が来たらちゃーんと窓開けて、可愛い笑顔で出迎えてくれよな」
黒い影が、窓から消え去った。赤い瞳が、ようやく体を解放した。
だが、拭い去れない恐怖感と、思い出す警鐘音。
去り際に聞こえた彼のセリフを反芻しながら、まだ混乱しているらしい自分を野放しにしたまま、ちはるは力が抜けたように座り込む。その際に、トレイから落ちたカップから、結局誰にも口にされなかったミルクティーが零れ落ちた。
広がる波紋、割れたガラス。これがきっと――終わりを告げる始まりだった。