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心臓がうるさい。しかし、ちはるの頭はやけに冷静だった。
自分が生み出した恐怖感に振り回されていた先ほどの方が、もっとパニックになっていたし、もっと「恐怖」に怯えていた――冷静な彼女の脳がそのようにこの状況を認識する。
どうしたら逃げられるか、どうしたら切り抜けられるか。
じっと見つめてくる男からは一度も目を離すことなく、思い出せる限りの記憶を引きずり出して、家具の位置や家の周辺事情から逃げ道や脱出方法を考える。
それもできるだけ早く脳を回転させて多くのパターンをイメージし、シミュレーションを行っていく。
今のちはるの状態は、脳内真っ白で何も考えることのできなかった先ほどの脱走劇とは正反対だった。
彼は強盗なのか、それとも殺人犯なのか。それによって、いまからかける言葉も変わってくる。
お金が欲しいならばくれてやる。一人暮らしの金なし女子学生の財布でいいならいくらでも。
それでも、命をくれてやるつもりは一切ない。自分にはやりたいことだってまだある。幸いにも、人生に絶望した“死にたがり”ではないのだから。
ドクンドクンと激しく心臓がリズムを刻むが、ちはるの瞳には覚悟が灯っていた。
恐怖はある――いっそ楽に、なんて考えが生まれそうにならないわけでもない。しかし人間というのは大変な時に冷静になれる力もあるようで、いまの彼女はしっかり物事を考えることができていた。
だからこそ、ちはるには覚悟があった。
死なない覚悟。
とは言え、恐らく正確に心から脳が現在の状況を理解していないだけ、だろう。
――いや、ちがう。意味と状況を、言葉というもので間接的かつ理論的に解しているだけであって(言葉を記号として見ているのと同じような感覚だ)、これらを直接的かつ感情的に、心が認識していないからなだけなのだ。
だから、恐怖というものが、脳で構成されている“意味”をすり抜けているだけ。
でなければ、このように果敢に“訳のわからない存在”に、向き合えるはずがない。
それでも、ちはるが今持っている「勇気」にも似た感情は、本物なのだ。
この目の前の男からどう逃げ切るか。彼の発する言葉にどう返せば逆上させずに済むか。できる限りのパターンを再度脳内でぐるぐる回す。
そんなこちらの状態に気がついたのだろうか――それとも全く関係はないのか。それを知ることはできなかったが、目の前の男は口元に小さな笑みを浮かべながら、その整った唇を震わせたのだった。
「おっと、怖がらせるつもりはなかったんだ、お嬢さん」
男が突如として口を開く。ちはるは突然のことに、ただただその少し気の強そうな目を見開くだけだった。
聞こえた声は、低くも甘いテノール。若干芝居がかった口調が、やけに耳に残った。
「まあ、恐怖に怯える姿もなかなかそそられるが、アンタに興味が湧いて来てみただけで、特に用はない。悪かったな、怖がらせちまってよ」
「っ、ストーカー!」
それはもう反射的だったといって良い。気付いたときには思わず、その単語を叫んでしまっていた。
よく見れば非常にきれいな顔をしている彼だが、裸にコート。なんとも卑劣な格好をしていて怪しいこと極まりない。
なるほど確かに変質者だ。変質者であり他人の部屋にまで上がりこんでいるのだから、「ストーカー」は的確だろう。
とは言え、変質者に変質者だと叫ぶのは得策ではないことは百も承知。
いくら相手が飄々として無気力な態度を示しているからと言っても、彼はあくまでその「変質者」。何をされるかわからないのだ。突然、豹変することだってある。
ハッとしたちはるは、途端に顔色を悪くした。大変なことを言ってしまったと思ったのだ。
そんな彼女の心情に気がついたのかもしれない。男は少しだけその隻眼を細めた――しかしそれは一瞬のこと。すぐに心外だとでもいうような顔で、両手を上に挙げてみせるのだった。
「おいおいお嬢さん、いくらなんでもそりゃねぇよ。確かにアンタを追ってここまで来ちまったことに関しては、少なからず悪いとは思ってるけどさ。だが、俺は外道と一緒じゃないんでね」
何やら弁解を始めた変質者に、ちはるは眉を寄せる。
ハァハァと荒い息をした油ギッシュなオヤジにストーカーされるよりかは、確かにこの男の方が百倍良いだろう。
確かに、目の前の彼は「これぞまさに美男子」と言って良いような容姿。
王子、と呼ぶのは雰囲気的にちがうが、キレのある端正な顔立ちは、そう呼んでも違和感はないとも思う。スタイルも良く、素直に「カッコいい」と思えるような男だ。
そういう意味では、この容姿端麗な男の、一般的なストーカーに対する「外道」呼ばわりも、なかなかにしてうなずける、気が、す、る、かもしれない。しれないだけだが。というかもちろん、ストーカーは何もエロ親父だけではないのだが。
しかし、しかしだ。肝心なことはそこではない。だからと言って、男の不法侵入を許す理由にはならない、という点である。
人様の家に勝手に入り込んできたことには変わりがないのだから、彼が不審者変質者ストーカー、それらに当てはまらない存在とは決して言えないし、むしろそうだと言い切れるほどの罪を犯しているのだ。
「ど、どうして私を追ってきたの」
それでも、彼の芝居がかったピエロのような口調は、どこかちはるから恐怖心や警戒心を失わせた。
思わずいつも通りの口調で彼に尋ねてしまう。そこらのナンパ男とはまたちがう、確かな自信と余裕を持った態度や振舞いが、彼女から負の印象を取り除いたのかもしれない。
「アンタが俺の気配に、無意識とは言え、気がついたからだぜ」
「え、?」
「やっぱな」
男はニヤリと口元を歪めた。そんな彼の様子に、ちはるは思わず顔を歪める。
なんだか自分だけ納得したような態度が、気に食わなかったのだ。説明をくれはしたが、その意味が理解できないのでは“説明”として意味がない。ゆえに、彼の説明は説明とは言えないし、問いに対する答えに適切、とも言えないのだ。
そんな不満な様子に気がついたのか――いや、恐らく意図的に「ちはるが理解できないような言い方」をしたのだろう。男は明らかに愉しんでいるような色を瞳に映し、くつくつと喉を鳴らして笑った。
それがまた、ちはるの不満感に火をつけていくのだが、男はそれが目的とでもいうように、笑いを続けた。
しかし、男が説明した内容は実際に「事実」だった。
男にとって自分の気配をただの「人間」に悟られてしまったことは、非常に驚くべきことだったのだから。
そう、ただの――ただの「人間」に、だ。
これまでにも彼の気配に気づいた「人間」は何人もいた。気付いたといっても無意識的に“何か”を恐れる程度のことであるが、確かに気配に気づけた者はいたのだ。
しかし、問題視すべきは、“気配に気づけること”ではない。
目の前のこの女ほどあからさまな態度で気配に気づき、あまつさえ、それから逃げようとした者はいなかったのだ。
だから、男は興味が湧いた。
訳がわからないながらも全速力で、彼の持つ特殊な気配から遠ざかるように必死に逃げて行ったこの女に――恐怖を振り切ろうと闇雲に走り、なんとかして“非日常”を遠ざけようとしたこの女に。
今まで見てきた人間ならば、恐怖感は感じてもそこまで必死には逃げなかったし、気のせいかと安心する人間も多かった。ついでに言えば、やはり気のせいと思えども恐怖感は完璧に拭えないからか、少し歩を速めた者もいた。
だが、それだけ。
それに比べて、ちはるの態度はなんと興味深いものだっただろう。
「あ、あなたの気配だなんて、そんなもの知らない。だって、何かの気配を感じるなんてマンガみたいな能力、私は持っていないもの」
ちはるは戸惑いと不安を隠しきれない様子で、瞳を揺らしながらそう告げた。
「気配を感じる」という言葉は小説や漫画ではよく耳にするものの、現実ではそうない。全く感じないことは無いし、ふとした瞬間に視線を感じるという経験はある。
が、明確に気配を察知できるというのは、どうにも想像に難かった。ましてや五体満足の人間なのだから余計に。
恐らくどの人間も、訓練を積んだ者や特殊な者でない限りは、気配を読み取るなんて不可能なことだろう。本能的に危険を察知することは「生き物」としての能力。あるにちがいない。
しかし、その危険意識が持続するかと言えば、人間には難しいところなのだ――男はそう思っている。
なぜなら、人間には野性的本能というのが薄い。そのため瞬間的に危険を察知しても、危険の対象が何なのかが明確に分からないかぎり、それを“危険”と認識しないからだ。
特に、「命」の危険を認識すること自体、基本的にはありえないと考えても良いだろう。人間の世界とはそのようなものだと男は知っている。
しかし、この女、そう、“ちはる”はどうだ。
形はどうであれ、確かに危険意識を持続させ、さらには行動に移すまでしたではないか。
野生の生き物とは程遠い、社会的秩序の中で生きる人間。そんな彼女の見せた、確かな危機察知能力。
興味が湧かないはずがない。
「当たり前だろ。アンタがそんな能力持ってたら、それはそれで驚きだ」
ははっ、と声を上げて笑ってみせた男の、なんとも嫌味な態度だろうか。きっと彼はいつも誰かを挑発しているのだろうと、ちはるは妙に確信的に思った。あながち外れではないのだが。
「なぁ、飲まないならそれくれよ」
「え?」
最初、一体自分が何を言われているのか全くわからなかった。思わずとぼけたような声が出てしまう。あまりに脈絡がなさすぎるそのセリフが何を意味しているのかわかったのは、男の視線が自分の手元にいっていたからだった。
その視線を辿って、ようやく理解できたのだ。
そして、ちはるは自分がミルクティーを手にしていたことを思いだした。そうしてガッカリする。冷めてしまった、と。
しかし今はそんなことを思っている場合ではない。ミルクティーを図々しくも要求してきた男の意図を推測する方が先だ。
ちはるは不審な色を浮かべて、彼に視線をやる。
それに気づいた男は、「あー」なんて今ひとつ煮え切らないセリフ。何か思うところがあるらしい。バツが悪そうな――とは少し違うが、似たような表情で口を開いた。
「まあ、アレだな。不審者に近付くなんざ怖いよな」
当たり前だ。
そろそろまともな思考に戻ってきたのか、警戒心も生まれてきた。何の意図があってミルクティーを欲すのか、ちはるは思考を巡らせる。
そんなことを考えている間に、彼はふと、その長い足を動かした。ちはるはその様子を警戒心丸出しで見守るも、どうしたらいいのかわからないのも事実だった。「ま、来れねーなら俺から行くんだけどさ」
ハッとして逃げようとしたが、どうにもこうにも身体が言うことをきかない。どうしようと困惑している間にも、ニィと笑う姿、どこか異質な空気――その気配が、どんどんちはるを見つめたまま距離を縮めてくる。
恐ろしい――かつてないほどの恐怖に囚われる。
それなのに、逃げだせなかった。
男が目の前にきた。ビクビクしながらも、ちはるは赤から1ミリたりとも視線をそらさない。交わりあう、赤と黒。沈黙の空気が二色の媒介だ。そうこうしていると、男が黒い革の手袋をしたその手を、突っ込んでいたポケットから抜き出した。その行為に、一瞬肩が揺れる。
男はその長い指でちはるの頬に触れ、ゆっくりと撫で下ろした。ゾクリ、と何かが背中を伝う。それは帰り道に感じた悪寒とは違う、どこか厭らしく、甘美な、誘惑の感覚だった。今まで感じたことのないその刺激には、恐ろしささえ感じてしまう。
「あな、た……何、よ」
声が震える。そんなちはるの様子に、満足そうに細められた紅。警鐘音が、再び鳴り響いた。
これ以上、近付いてはいけないと。これ以上、関わり合ってはいけないと。本能が告げる。本能が叫ぶ――彼は、危険だと。
それでも、どこか安心した。まるで、こうなることが決められていたかのように。まるで、こうであることが当たり前のように。ただただ、彼の赤に囚われていた。
「俺は吸血鬼だ。かわいらしいお嬢さん」
甘美なテノールが響いた。