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亡骸にキス  作者: 一之瀬ゆん
encounter その赤を運命と呼ぶならば
3/17

 星がまたたくきれいな夜。光が踊り、美しい。半月に近いその夜は、満天の空を見上げることがとても楽しかった。

 いつもより強く輝いているように見える星が、まるで手に届きそうで届かないもどかしさを促進する。


 お疲れさまでした、と告げて素早く指定のエプロンを外し、私服に着替えてレストランを後にした。身体全体を襲う気だるさに侵されながらも、なんとか気力で背筋を伸ばす。

 そうしてふと、すっかり暗くなった空を眺めてみれば、幾数もの煌めきが揺らめき、闇に色を与えていた。


 きれい、ね。


 ちはるはゆっくり歩きたい気持ちに駆られながらも、足早に帰路を進んで行く。

 確かに夜空は美しい。心を穏やかにさせ、ずっと見つめていたいと思う。吸い込まれそうな輝きは眩しく、魅惑的な色で誘い出す。

 御伽話に夜の描写が多いのは、ファンタジーな雰囲気を増長させるためだと思った。


 しかし、いまは“夜”。


 暗闇に紛れて行われるのは、言うまでもなく罪深い行い。

 特にちはるの帰路であるこの路地は、街灯の少ない裏道。誰かの血痕がコンクリート固めの道にこびりついているというニュースも絶えぬ場所で、素早く帰らなければ、何が起こるかわからなかった。


 何も起こらない可能性の方が高い。

 けれど、何かが起こる可能性もある。


 ただでさえ、夜道というのはどこか不気味なもの。誰かに追われているのではないのに、誰かに追われているかのような変な感覚が恐怖となって襲ってくるし、またそこから生まれる多大な焦燥感なんていうものは、最早心臓を破裂させる勢いだ。

 おまけに夜は静寂が包みこむため、その心拍音がやけに耳に響き、恐怖感と孤独感に拍車をかける。

 ゆえに、誰かが自分を狙っているような脅迫観念に襲われるのも無理はない。近くを光の点が通っただけでビクリと肩を揺らしてしまうくらいには、自分の警戒心は強くなっている。


 コツン。


「っ!」


 突然、だった。


 靴の音がコツン、と背中から響き渡った瞬間、それが己のものではないとちはるは直感した。

 その直感が正しいか否かは別にして、本能が警鐘音を打ち鳴らす。ちはるは途端に、かつてないほどの訳のわからない戦慄を覚え、かつてないほどの動きで、ミュールを履いた動きにくい足を精一杯速めて地を蹴った。


 全身が震えるような、恐怖だった。


 これでも高校時代は運動部だっただとか、体力診断ではA判定だっただとか、そんなことはどうだって良く。

 後ろの恐怖が何者かだとか、本当に靴の音だったのかということさえも、どうでも良い。

 ただ、ただそうだ――胸を突き刺すこの恐怖のような感情を、早く拭い去りたかった。


 走っても走っても命を掴まれている感覚。

 逃げても逃げても追われている感覚。

 それはまるで夢で見る、終わりのない階段のようで。


「はぁ、はぁっ、いや、っ、いやだ……!」


 どう走れば家に着くかだなんてシミュレーションは、今のちはるにはなかった。今の自分のほとんどを支配しているだろう本能と、そして数年間通った道のりを覚えているであろう体に全てを預けるのみ。

 死を感じたわけではない。

 しかし、訳のわからないこの恐怖は、放っておくには強すぎた。


 後ろは確認していない――できていない。

 だから、本当に“恐怖”が自分に迫ってきていて、自分を“食い殺そうとしている”かなど、わからなかった。

 さっきの段階では実際に恐怖が迫っていて、いまはもう、自分を追いかけていないのかもしれない。

 それでも、そのような「可能性」をいくつも脳内でかき回せるほど、彼女の「脳」は今、正常ではなかった。


 角を曲がり直線を行き、また角を曲がって坂を上がる。景色など全く視界に入っておらず、脳内も真っ白だった。自分がどのようにしてここまで来ているのかも分からない。いつもの道なはずなのに、見慣れぬ景色に思えてしかたがなかった。

 もっと速く、速く、速く――!

 勢い良くアパートの敷地に向かい、最大速度で鍵を開けた。そうして精一杯の力で、少し重量のあるドアを開閉すれば、また最大速度で鍵を閉める。ハァ、ハァ、と肩で息をしながら部屋に駆け込んで灯りをつければ、ようやく心を落ち着かせることができた。


 そして、自分の部屋を確認する。

 ああ、帰ってきた、と。


 いつも自分が寝ている木製のベッド。掛けられたワインレッドの布団には百合の花が描かれている。

 そっと視線を動かせば小さなローテーブルが目に見え、やはり自分の領域テリトリーに帰ってきたのだと実感した。

 朝に紅茶を飲んだ洗い忘れのティーカップ。脱ぎっぱなしのかわいいチェック柄のパジャマ。テーブルの上に栞を挟んで置かれた読みかけの本。――そこには自分の培ってきた日常がある。


 ふぅ、とため息ひとつ。落ち着いた脳は「日常」を認識する。

 もうあの変な恐怖感は、どこにもなかった。緊張感は未だあるものの、先ほどのように張りつめた感覚はもうない。


「……、はぁ、嫌になるわ」


 何もないことは理解していた。それでも、“突然襲ってきたもの”がただならぬ威力を秘めていたような気がしてならなかった。

 いや、分かっている。そんなことは、夜ならばいつものことだ。今回は少し大げさにやりすぎただけ。自分の持つ恐怖の感情とやらに振り回されてしまっただけなのだ。

 言うなれば、自分が勝手に生み出した感情に食い殺されていただけ、か。


 しかし、――しかし、だ。今日は“いつもとちがった”。

 あえて言い訳をするならば、“今回はいつもとちがう強大な恐怖感だった”。


 あんなに強い恐怖感と焦燥感が体を支配するなど、今までなかったこと。こんなにも全力で見えない何かから脱走劇を繰り広げたのだって、今までありはしなかった。

 馬鹿らしいと思えるほどに、自分は全力だった。意味のわからない“恐怖”の感情に怯えて、意味のわからない存在から逃げていた。


「お、おちつけ、ちはる、おちついて……」


 独り言を繰り返すことで、心臓の高鳴りを抑え込む。まるで、無理やり日常と同化しようとしているようで、自覚した己の脳が、「そうすることこそ非日常の表れだ」と嘲笑った。

 どくん、どくん。聞こえる心臓の音がやかましい。

 先ほどの恐怖を思い出せと叫ぶように、鼓動が鳴り止まないのが耳障りだ。


 たまたまだ。


「そ、う、たまたま……」


 きっとたまたまこんなことを思ったにちがいない。自意識過剰だ、そうだ、疲れているのだ。

 ちはるはそこまで考えて、小さく納得したようにうなずく。昨日読んだこわい物語が影響しているだけだわ――そう言い切れるのは、非日常というものに疎いからなのかもしれない。


「とにかく、お風呂に入ろう」


 まだ、高揚感はある。こうして独り言でもブツブツ呟いていないと、怖かったりもする。

 だが、日常の流れを今ここで絶つことの方がもっともっと恐ろしかった。何も考えずに日常を思っていた方が、恐怖を断つには手っ取り早かったのだ。


 どくん、どくん。鳴り止まぬ鼓動を振り払うようにして、入浴の準備をする。パジャマとバスタオルを持ち出し、洗面所へ向かう。

 ふ、と視界に入り込んだ大きな鏡に、再度心臓が爆発したような感覚を覚えたが、ごくりと唾を飲み込むことで、“勘違いした脳”を呼び覚ますことにした。


*  *  *


 十分浴槽につかり優雅なバスタイムを目一杯楽しんだちはるは、小さく歌を口ずさみながら脱衣所に出た。

 美容液という宣伝文句で店頭に並んでいた入浴剤はとても香りが良く、バスタイムの密かな楽しみになっている。自分の身体から大好きなローズの匂いがするのを感じ、小さく微笑んだ。

 最近着ることにハマっているバスローブの中でも、特にお気に入りの可愛らしいデザインのそれに身を包み、洗面台にてスキンローションをコットンにのせた。そうしてスキンケアを済ませたら、次にドライヤーを取り出してすっかり濡れた髪の毛を乾かしにかかる。


 長い上にウェーブがかった彼女の髪はなかなか乾きにくい。シャンプーとコンディショナーが良いのかとてもサラサラとした髪なのだが、長すぎて時たま絡み合っている。それを傷めないように丁寧に解しながら、念入りにケアをしていく。

 髪の毛に注意を払うのは女性の特徴ではないだろうか。

 お気に入りの歌、少し音量を上げて口ずさむ。最近聞いたばかりで歌詞を覚えきれていないため、時折誤魔化すように鼻歌なのはご愛嬌。ドライヤーの音にかき消され、恐らく近所には聞こえないだろう。

 乾かし終えた髪の毛をヘアーブラシで丁寧に梳いて、ドライヤーをいつもの場所にしまいこんだ。


 目覚まし時計を確認するも、まだまだ寝るには早い時間。先ほどまで自身を支配していた恐怖感や焦燥感は風呂場ですっかり水に流したようで、今からティーでも楽しもうかと心を躍らせているところだ。


「ミルクティーでも飲もうかしら」


 ティーポットにティーパックと多めの砂糖を入れ、やかんでお湯を沸かす。沸騰するまでしばらく待っていれば、完了を告げる鳴き声が響いた。

 お湯をティーポットに少しだけ注いで、次に電子レンジで温めていた牛乳をポット内の大半を占めるまで入れていく。


 ロイヤルミルクティー。

 砂糖が少々普通より多めなのと、お湯ではなく多くを牛乳で味を出すことが特徴だ。それにより一般のものよりまろやかで濃厚、それでいてしつこくない味わいが引き出せるのである。

 ちはるのお気に入りの飲み方で、毎晩欠かせないティータイムには、必ず小説を片手にロイヤルミルクティーを飲むのが彼女の日常である。

 

 嬉しそうにそのミルクティーをカップに注ぎ、ちはるは自分の部屋へと足を進めた。

 1LDKの彼女の部屋は、とは言えどもなかなか広い。

 小さな音を響かせていつものように何の覚悟もせずに扉を開いたちはるは、視界に突然入りこんできた非日常に、言葉を失い停止するしかなかった。


「っひ……!」


 肩に着くか着かないかくらいの艶やかな黒髪。片目は包帯に覆われているものの、反対側から鋭く射抜く隻眼はまるで血のように赤い。

 鼻筋の通った端正なその顔立ちは、きっと見る者を魅了することだろう。

 上半身には白いコートを身にまとっているだけで、小麦色のほどよく鍛え抜かれたたくましい裸体が姿を現している。

 また、赤いベルトをつけた黒い革のパンツを履いて、長い足を見せつけるように窓辺に背中を預けていた。


 半月を背景に、開かれた窓の前で存在するその「男」。

 非常に絵になる。絵になるのだが、そんなことは今注目すべき点ではない。

 もっと重要なことが他にもある。


 そう、この男が何者であり何の目的でここにいるのかということだ。


「だ、だれっ」


 情けない声が出た。

 泣きそうに震えた声はまるで自分のものではないかのようにか細く聞こえたのに、確かに自分から発されていた。


 今度こそ、確かな恐怖だった。

 赤い隻眼がゆらりとちはるを捉える――その瞬間、全身にゾクリと悪寒が走った。

 命を掴まれている感覚。これこそが、恐怖。捕食者のような視線、その先には自分がいて――。

 圧倒的な力の差だった。言い訳のしようもない、明確な不等号が生まれていたのだ。


 カタカタと持っていたトレイが揺れる。しかし、落とすこともなかった。

 まるでそこだけ時が止まったかのように、視線がちはるをその場所にそのままに、縛り付けていたのだ。


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