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「ちーちゃん、これ3番テーブルに運んでくれるかな。」
「あ、はい」
「わかるかな、一番奥の窓際の席、三人家族のお客様だよ」
やさしい風が頬を撫で、鳥たちの唄声が聴覚に溶けこむ。広がる蒼穹は雲ひとつなく、木々のざわめきさえ自然の作りだすオーケストラ。
そんな美しい天気の下に、ある木製の建物があった。
丸太の木が積み上げられて出来たその建物。オシャレな外観が人を惹きつけ、お客が後を絶たない。
庭にも色とりどりの花が咲き乱れ、ずいぶんと美しい。立てかけてある黄色いジョウロが、またどこか風情を感じさせる。
テーブル一つひとつに花瓶があるその室内では、数人が忙しく動いていた。食べ物や飲み物を持って、色んなテーブルを早足で行き来している。
冒頭の台詞も、その中の1コマだ。
そう、ここは小さな自営のレストラン。従業員の愛想が良く、アットホームな雰囲気で有名だ。
テーブル上に並べられている料理の数々もまた美味なもので、魅力のひとつとなっている。
「店長。まだお昼前なのに、今日も繁盛してますね」
「とても嬉しいよ。いつもありがとう」
女性従業員のそんな言葉に、店長と呼ばれたその男はふわりと朗らかな笑みをこぼした。ヒマワリのように元気な印象はなく、だからと言ってスズランのような儚さもない。
穏やかなその微笑みに釣られるようにして、女性従業員も口元に笑みを浮かべれば、そこは一瞬にして温かな空間となった。
――高槻湊。
そろそろ三十路に突入しそうな成人男性だが、やわらかな物腰にふんわりとした穏やかな雰囲気、さらに、やさしくきれいに微笑むその姿は、大人の男性ならではの余裕にも思え、非常に魅力的と巷で噂されているのである。
一部の地域では、芸能人を差し押さえて、なぜか結婚したい男性アイドルNo. 1の座に選ばれたとかなんだとか。
そして何よりその容姿。
茶色のサラサラとした髪の毛に、鼻筋の通った端正な顔立ち。
つり目とは程遠いその目元は、成人男性にしてはやや不釣り合いに子どもらしさを感じさせるが、彼の柔らかな印象はこれあってこそと言えるだろう。
この穏やかな視線に見つめられれば、自然と温かくやさしい気持ちになれるのではないかと、苛立ちを隠せない女性客が一致団結して団体予約することもたまにある。
また、オシャレな着こなしやさり気ないアクセサリーも、女性客を虜にするには十分で、外観や料理の味ももちろん、レストランということもあって魅力だが、高槻湊という店長の人柄や存在そのものが、客を惹きつけているのも否めない事実である。
「湊さん、大変です」
そんな彼を慕うのは、何も客ばかりではない。そこで働く従業員も、親しみを抱き彼を頼るのだ。
そして今回もまた一人、彼に助けを求めてその名を呼ぶ者がいた。「大変だ」という割には冷静で落ち着いた女性の声だった。
「ん、なにかあったの」
「大きなことではないのですが、私にとってはとてつもなく大きな事件です」
「と、言うと」
「運ぶたびに水が零れます」
「……ちーちゃん」
湊が困ったように苦笑いを浮かべた。それに釣られるようにして、ちーちゃんと呼ばれたその女性も、静かに、しかし確実に眉を寄せる。
先ほど、湊に3番テーブルに料理を運ぶよう頼まれたのが、この“ちーちゃん”なわけだが、彼女は数日前から人生初の飲食店でアルバイトを始めたばかりの超ド素人であり、まだまだ仕事に慣れていない超新人であった。
だからなのか。トレーの上に液体の入ったものを乗せて歩くのは、彼女にとってはまだ、“ハードな偉業”であるのだ。
椎名ちはる。
ある大学に通う女子学生だ。
大学生らしくメイクされたその顔はいたって普通。特別美人でもなければブスでもない。どちらかといえば「かわいい」よりも「美人」と称されるタイプと、付け加えておこう。
おまけにスタイルだって、特別ダイナマイトボディでもなければ、完全なる寸胴でもない。こちらもあえて言うなれば、女性としてはやや高めの身長160cmで細身なので、ある程度の服は着こなせそう、といったところか。
ゆるりと巻かれた茶色い髪の毛はなかなか長く、胸元まで伸びており大人っぽさを感じさせる。眉間に皺さえ作られていなければ、もう少し“大人の女性”として絵になっていたことだろう。
耳にはピアス、首もとにはネックレスと、女子大生らしいオシャレの仕方が、逆に可もなく不可もなく、といった様子で、特筆すべき容姿の特徴がない、というのが残念なところであるが、同時に、“普通の女子大生”というところが彼女の良さでもあり、こうして大学生活を謳歌しているのである。
トレーの上に、運んでいる水をコップからピチャピチャこぼして歩いている、という特徴は、この際容姿でないのでスルーしたいところであるが。
「え、ちょ、新人ちゃん、俺への水、来るまでになくさないでくれよ〜!」
「全神経を集中させ、最大限の努力をしたいと思います。が、零れます」
「いやいやちーちゃん。俺と代わろうか」
湊のにっこりをいただいてしまったちはるは、渋々彼にトレーを渡し、湊の手に移動したそれを至極恨めしそうに睨んだ。
そんなちはるに気がついた客が「トレー睨んでもお前さんのスキルはどうにもなんねーよ!」と豪快に笑えば、店内にもどっと笑いが沸き起こった。
「湊さんとこに来るバイトちゃんは、いっつも一癖ある奴ばかりだからよ。なんつーか、何やってても大概は許してしまうっていうか」
「だよね。それに新人さん、なんか見てて面白いし」
「ううう情けない……」
「ははっ、歩き方から学ばねーとな! 俺の娘もそろそろ自力で立って歩けそうだぜ!」
「赤ん坊にかえります……」
どの客も皆、非常に寛大だった。そのため、新人として働いている未熟なちはるにとっては、ずいぶんと居心地が良い。
数々の笑顔に囲まれながら、ちはるは「すみませーん」という声を捕らえ、先の客に会釈をした後、急いでオーダーに向かった。
「クリームオムライスとホット。お前は?」
「私は、ほうれん草とベーコンの和風スパゲティと、ジンジャエールで」
「クリームオムライスとホットコーヒー、ほうれん草とベーコンの和風スパゲティとジンジャエールが、それぞれお一つずつでよろしいですか」
「はーい、お願いします」
「かしこまりました」
永久無料の営業スマイルを披露して、今度はオーダーを伝えに厨房に向かう。
後ろから、新人さん転けんなよー、なんて台詞が聞こえ、「私はそんなおっちょこちょいな人間じゃないわ!」と言いたいのを抑え込んで、転けません! と少し大声を出した。
すると「伝票落とすなよー」なんて新たな客から言われる始末。
「だから、おっちょこちょいじゃないって!」と怒鳴りたいのを堪え、ちはるはオーダーを伝えた。
もちろん、「怒鳴る」というのも本気のものではなく、このやりとりを楽しむためのちょっとしたお約束に過ぎないのだが。
「ちはるちゃん、上手くやってる?」
厨房で働いている従業員の一人が、ちはるの様子を見ながらそう尋ねてきた。
中年男性だが、とても優しい目をしている。
ダンディーな雰囲気を醸し出している彼は、実は厨房を取り仕切る料理長で、その腕前は世間的に高く評価されているほど。皆が彼の料理を味わいたくてお店に来るほど、シェフとしては大絶賛の腕前の持ち主なのだ。
ちはるはそんな彼の言葉に、「水を零さずに歩けません」と小さく苦笑いをした。
あの場所では少々ネタになっているようだが、バイト生としてはやはり居心地の悪さを感じざるをえないのだ。
お客様に気を遣わせるようでは、店員として情けない上にサービスとして成り立たない。皆が良い人だから助かっているものの、もしこわいひとが相手だったら――そう思うと、今の状態ではさすがに肝が冷えるというもの。
それを聞いた料理長が、食い付くように意地悪げな笑みを浮かべる。
「お、なんだなんだ。俺に水かさを減らせってか?」
「あ、それもありがたい」
「ははっ、んなことできるか!」
そう言ってクシャリと目元にシワを作り、人好きのする笑顔をみせた料理長に、ちはるも一緒になって苦笑いでない笑みを灯してみせた。
湊はそんな会話を厨房近くにあるレジの場所で聞きながら、小さく笑う。
新人であるちはるが、早くこのレストラン『cherry&berry』に馴染んでくれればと思っていたのだ。
今、こうして彼女の様子を見る限り、ずいぶん打ち解けてきたように思える。
「新人さん、仲良くしていけそうですね、湊さん」
「そうだね。これからもよろしくね」
そう言った客から伝票を受け取り、ほっと息を吐く。
大丈夫かと心配していた湊だったが、ちはるの笑顔に安堵したのだ。周囲の人と上手くやれそうだと思わせる彼女の笑顔に、水をこぼした事件は水に流し、今後も丁寧に指導しようと気持ちを固めた。
なにより、彼女が失敗により嫌な気分にならずに笑顔を見せてくれるのは、元々の従業員も、そして来てくれるお客も、皆が温かく良い人たちだからと実感するほかなかった。
本当に良かった。
もう一度ため息ひとつ。
湊は静かに意識を厨房から外し、会計に来た客に気持ちを切り替える。なんだか、室内がとても明るく見えた。きっと安心して嬉しいからだろう。
そんな明るい景色に目を細め、伝票に記載されているものをレジに打ち込んだ。
「そう言えば、最近吸血鬼のドラマやってますよねー」
「え、ああ、やってるみたいだね」
突然話し掛けられ、湊は少し反応が遅れた。
だが、それにも関わらず優しく微笑めるのは、湊クオリティだろうか。話しかけてきた常連客に向き直り、にこりと笑みを浮かべる。
「確か、bloody knight だっけ」
「そうそう! 血の夜っていう吸血鬼らしい意味と、血の騎士っていう吸血鬼がヒロインを守るストーリー的意味とを、かけ合わせてるらしいよ」
「えー、そうなんだぁ」
目の前の女性2人が話す様を、湊は口元に笑みを携えたまま聞く。
女性は吸血鬼の設定にも憧れを抱くものなのかなぁ。
ありえないものを求める姿に、静かに苦笑した。
「吸血鬼って、ノスフェラトゥって言うよね」
「ノスフェラトゥ?」
湊の呟きに、キョトンとした表情をみせる2人。湊は嫌な顔1つせずに、また笑顔で意味を伝えた。
「生ける死者。つまりは死者の霊だよ。元々に吸血鬼っていう種族がいたのか、死者が何かで力を得て吸血鬼になったのが始まりなのかは、詳しくない俺には分からないんだけどさ」
「へぇ。でも、始祖っていうのかな。そういう吸血鬼の起源にあたるヴァンパイアって、今はもう少なそうだよねー。血を吸われた人も死んでまた吸血鬼になるんだから、元は人間な吸血鬼の方が多くなっちゃってそう」
「え、けど吸血鬼って不死説あるから、そんな簡単には始祖もいなくならないっしょ」
「うわ、なにソレ、複雑」
吸血鬼など所詮、伝説でしかない存在なのだから、知識に正しい正しくないはあまりないだろう。
だが、知識を総動員させて、何らかの説に意味を持たせようとしているその姿を見ると、吸血鬼という存在が非常に彼女たちの興味をそそっているのだとハッキリ分かった。
すると、すでに厨房から料理を取り終え、客に渡し終えたちはるがレジの近くにやって来た。今度は上手く運べたのか、少し顔が明るい気がする。
湊は、客との顔合わせも含め、せっかくならちはるにも吸血鬼について聞いてみようと思い立ち、ちはるを自分たちの方に呼んだ。
ちょいちょい、と手で招いてみせると、なんだろう、と首をかしげながら小走りで向かってくる。
そして、話を把握したちはるは毒をはいた。
「吸血鬼? 夜に墓場から奇跡の復活を遂げ、睡眠中の人間を襲うにんにく嫌いの生き物ですっけ」
「なんか、ちーちゃんが言うと皮肉にパンチが効いてる」
湊が苦笑する。
「ああ、そう言えば。ヴァンパイアのヴァンプの部分には、男を誘惑するだとか妖婦って意味があるから、ヴァンパイアは本来女なんじゃないかって説がありますよ」
「うわー、女が吸血鬼だったら一気にポイント下がるわぁ」
「でも男は燃えるんじゃない?」
男は燃える。その見解を出した女性陣から、一気に視線が集まったことにキョトンとした湊は、曖昧な笑みにその答えを隠した。それでも何も気にしていない彼女たちの様子から、回答を無理強いする気はないよう。
物知りなちはるに感心する湊の一方で、当の本人はさほど興味のなさそうな様子でレジの管理に回る。
ちょっと苦笑して、彼女たちの会話に耳を傾けた。
「誘惑かぁ。ドラマでもヴァンパイアはずいぶん美形だよね」
「まぁ、ドラマとかは美形じゃなきゃ商売になんないって」
「吸血鬼役の人、めっちゃカッコいいよねぇ」
「うんっ、だからヴァンパイアは男性もいるって信じる……むしろイケメン吸血鬼しか信じない」
ヴァンパイアのどこが魅力的なのかしら。ちはるは疑問を脳内に巡らせていた。
それは彼女たちの意見に反して、というよりも、“吸血鬼”という存在の魅力について、文学的側面から考察する、という疑問に近い問いかけ方だった。
恐らく彼女たちが吸血鬼に惹かれるのは、ドラマの吸血鬼役が格好いいからだとか、血を吸うという行為に官能を覚えるからなのだろう。
漫画や小説でも吸血鬼ものはもちろんあるが、多くはイケメン吸血鬼で女性を虜にする設定となっている。もちろん、男性向けのものでは可愛い幼女の吸血鬼や、妖艶なお姉さん吸血鬼も多く見られるが、いずれにせよ“吸血鬼”というワードを聞いて連想するのは、端正な顔立ちのイケメン・美女設定のそれである。
彼女らが夢を抱くのも無理はない、と理解できる。ちはる自身もそれに関しては否定できない。
しかし、実際に吸血されれば死んでしまい、太陽の光を浴びられなくなる窮屈な存在になってしまうというのが一般説。人間として普通に長生きしたいちはるには、吸血鬼になってまで生きることは理解できなかった。
だからこそ、吸血鬼に多大な憧れは抱けなかったし、入り込むほどの魅力も感じない。
いや、小説の物語として楽しむぶんには非常に良く、自身も愛読しているそれがあったりもするのだが。
憧れだなんて。そんな、非現実的なものに。
「じゃあ、湊さん。それと……ちはるちゃん? また来ます!」
「美味しかった! ありがとう」
「あ、ありがとうございましたー」
「またお越しください」
2人組の背を見送りながら、ちはると湊は頭を下げる。そうしてまた、忙しく動き始めた。