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亡骸にキス  作者: 一之瀬ゆん
prologue
1/17

 ぴちゃん、ぴちゃん。

 水の上を静かに歩く影。その水は闇夜には不釣り合いな、鮮やかで真っ赤な色だった。

 この色を我々のよく知る存在として形容するならば、そう、血のような。いや、“血のような”などと直喩を使う必要などない。だってそれはまさに――。


 近くには一人の人間が横たわっており、水上を歩く影に向き合う、別の真っ黒なそれがいる。

 闇夜にはひときわ目立つ真っ白いコートと、射抜くような隻眼せきがんの紅が、血の色と相まって奇妙に浮かんで見えた。


 真っ白な包帯が右目を覆い、真っ赤な瞳が世界を映す。

 黒い革のパンツに、黒く艶やかな髪の毛。時折、鋭く伸びた牙が口元からうかがえ、そいつの闇夜を切り裂く鋭利な様子が、この場の奇妙さを強調していた。

 黒い手袋で覆われている指先がポケットに入った瞬間、いくらか消えた暗澹あんたんの気。歩くたびに水が音を立てて存在を主張するも、それ以外すべてが息を止めてしまったかのような静けさが、やはり「不気味」と思わせてくる。


 ──月が、きれいだ。

 影の目元も弧を描いて月を見せる。

 鋭い赤眼がきらり、闇夜を照らすその様こそ、ああ、「月がきれい」と表現できるだろうか。


 コートの下からのぞく、ほどよく引き締まった男の上半身を見ると、この存在自体がまるで精巧に作られた「お人形」のよう。一種の不気味さを引き連れて、すべてが官能的だと思わせる。

 まるで魔力のような引力を持ち合わせている「それ」の空気は、闇と同化しながらも闇を背景に従えており、己こそが主役と主張しながら己の存在を隠しているような、やはり奇妙で不自然で、だからこその甘美な色を携えていた。


 また、まるで女性のように美しく端正な顔立ちは、それでいてとても男としての魅力を備えているように思えた。

 それこそ媚薬びやくのような香りを匂わせていると感じるほど、気を抜けばそのあやしさに引きずられていく。


 嗅覚を刺激する確かな匂いは、例えば性欲を刺激する薔薇ばらいろどりで。

 例えば夜に効力を発揮する月下香げっかこういろどりで。

 確かな色をもって、迫ってくる。


「さて、おままごとのキャスティング中かな、えらく素敵なヒロインの誕生じゃねぇか」


 からかうような口調、意地悪く上げられた口角。パンツのポケットに両手を突っ込んで、煉瓦れんが作りの壁に、もたれかかるようにして背を預けている。

 その壁は教会のもので、厳かな雰囲気を出しているが、すべてを受け入れる救世主のようなやさしさを掲げている割には、何にも寄せ付けないほど鋭く獰猛どうもうな牙を出して、威嚇いかくしているようにも見えた。


 ああきっと「ヒロイン」も“ここにいたとき”には、祈りを捧げて何になるのかと、唾を吐きたい気持ちになったことだろう。

 教会はそこに佇むだけで、救世主にはならないのだから。


 耳元に光る白いピアスに、胸元を彩るシルバーネックレス。発された声は青年らしい幼さを残した、どこかエロティックなテノールだ。

 自信満々に浮かぶ紅は、挑発的にきらめいている。

 そんな紅をもってして、青年は厳格な顔つきの男をしっかり見ていた。

 清らかな聖域とも言える場所に寄り添うこの存在の異端さと汚らわしさが、教会を飲み込むほど強大な力であることに気づける者は、どれほどいることか。


「貴様、半端物のくせにたいそうな口を利くことだ」


 青年に視線を投げつけた男は、いささか気分を害されたとでもいうように、その眉間にシワを寄せた。


「低下した知能では、“喧嘩を売る相手”を見定めることもままならぬか」

「おっと、そんなに怒んなよ。それ以上余計なシワが増えたら、困るだろ?」


 途端に、鋭く伸びた爪が青年を襲う。オールバックに仕立て上げられた金色こんじきの髪の毛が少し崩れ、男の顔に垂れた。青年を睨む彼の紅が、憎悪に煌めいている。

 隻眼の彼はそんな男の攻撃に、「うげ」と一言もらしたが、ついでに軽口を叩く余裕はあるようで、「男の更年期障害かよ」とこぼし、軽やかなステップで避けてみせた。

 本当に余裕なのだろう。たわむれるようにかわす姿に、焦りのひとつも見当たらない。


「オジサンに追いかけられて喜ぶ趣味は持ち合わせていなくてね。悪いがアンタとの“鬼ごっこ”はどうにも気分が乗らねぇ。どうせならさっさとそのヒロイン叩き起こして、俺に“鬼ごっこ”を教えてくれよ。半端者ゆえ、“鬼ごっこ”のやり方がわからなくてね、女に手取り足取り腰取り教えていただきたいってわけ」

「シン……私を馬鹿にしてくれおって」

「おー、苦虫潰したような悔しそうな顔も、女ならそそられるんだけどな。……残念ながら、おっさんだ」


 心底嫌そうな顔をした青年──シンは、たいそう大げさにため息を吐いてみせた。

 生意気を──男から放たれた台詞に、シンは表情を一転。愉しそうな色を浮かべる。


「オジサンもさ、血が吸えなくなったら、オネエサンかママのおっぱいでも吸ってりゃ満たされるんじゃねーの」

「私を貴様と一緒にするなよ」


 心外だとでもいうように、表情と声色の両方に怒りを込めた男のセリフに、シンは「ちょーっと、待てよ」と言って男を止めた。

 片方の手のひらが男に向かって見せられ、ひらひらと誘うように揺れている。他人を煽る行動は彼の十八番おはこらしい。


「俺もオジサンと同じなんざ嫌だぜ。鼻の下伸ばして、ちゅっぱちゅっぱ乳を舐めまくってる姿と一緒にされちゃあ、俺の名がすたるってもんだ」

「貴様の低脳な補正がかった視力では、まともな表現は難しいらしい」

「でも、“おいしかった”んだろ。じゃあ表現としちゃ間違ってねぇよな」

「お前の表現に私の描写が振り回されてたまるか」

「オジサンがオネエサンのおっぱい吸ってる姿って、絵にならなくて滑稽こっけいだよなってことが言いたいだけなんだけどな」


 くく、と喉の奥で笑ったシンに、チッと舌打ちを一つ送りつけた男は、「貴様と遊ぶ時間はない」と低い声で威嚇した。


「まーてまてまて、なんで怒るんだよ。いまここで女捕まえて強姦。むさぼるように犯して血を吸ってたのって、どちらサマ? さぞかし甘くて旨かったんだろーね。ごちそーさま」


 愉快、という感情を乗せて送られたセリフに、男が歯ぎしりをする。ざわ、と風が吹き、周囲に危険を知らせたようだった。


「なぁ、俺と遊ぶ時間がなくなるほど、じっくりたっぷり遊べただろ、“坊や”」


 そんなシンの台詞が、引き金だった。


 男が爪で切り裂くようにシンに向かって2、3度、勢い良く手を振り下ろせば、シンはそれに合わせて後ろに体を逸らし、一歩下がった。

 そして、次の男の一振りでバック転を決め、すぐさま手を地につけ、長い足を回して男の足を払う。

 ハッとして避けた男に、ヒューッとからかうようにシンが口笛を吹けば、男は彼を思いっきり睨みつけた。


「ハッ、気の強そうな表情、女なら最高だったのにな!」

「我等の恥曝はじさらしめ!」


 目にも留まらぬ速さで地を蹴った男は、素早い動きで右、左、右と引っ掻くように攻撃する。シンはそれに笑みを浮かべながら、頭を下におろして避けた。

 瞬間、左から襲い掛かってきた爪に、ヒューッとまた口笛を吹き、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》とした態度で男の頭上を背中から飛んだシンは、バック宙で地面に降りた。

 音の全くしなかったその着地は、状況がこうでなければ美しく映ったかもしれない。


 そんなシンが、男の方に視線を投げる。

 二人のそれが交わりあって、静かに冷たい空気を漂わせた――その時、シンの口元に凄絶せいぜつな笑みが灯されたのを見た男は、背中に何か冷たいものが駆け巡るのを感じざるをえなかった。

 だから野放しにはできないのだ、と改めて強く思うほどに。


「恥さらし、ね。くくっ、俺が半端モンだからか? まぁ、そうだろうね。アンタが今さっき女鳴かせて楽しんでた狩りじゃないけどよ。俺はどちらにせよ、狩りの側らしい。楽しいぜ、こういう“遊び”も。坊やと一曲踊ろうかな」

「減らず口を……」

「ははっ、セックスしたがる姿は何ら人間と変わらねぇ! そうしてガキが生まれて、存在を保つ姿もなっ」


 たいそう馬鹿にしたように笑うシンに、男はこめかみに青筋を浮かばせていたが、話しても無駄だと悟ったのか、それともここで殺り合うのは得策ではないと踏んだのか、シンを一睨みしただけで、どこかに素早く消えて行った。


「あーらら、つまんないねぇ」

 殺そうと襲い掛かってきた割には、早い退散だこと。


 残念そうに紡がれた言葉は、まだ戦っていたい気持ちがありありと表れていた。男と違って青年――シンの遊びは、命のやり取りなのだから。


 浮かぶ月、建物の隙間から見える星。闇夜を照らすその二種は、どこか妖艶な雰囲気を漂わせている。

 そんな金色に目を細めたシンは、顔に飛び散った誰かの血を、軽く舌を出して一舐めした。もちろん誰の血かと言えば、先ほどの男に強姦され、抵抗した時に爪で体を裂かれた、あの女のものだろうが。

 思っていたよりその血が美味なことに満足しながら、軽く口を開く。


「災難だったな、アンタ」


 無残な状態でしかばねと化した女の裸体を、軽く一瞥いちべつ

 白い肌、長いまつげ。すらりとしたくびれのある体に、豊満な胸。

 血まみれでなければさぞかし美しく、さぞかしイイ女であったのだろうが、今はもう、その面影は薄い。


「さーて、と」


 ニヤリといやな笑みを浮かべたシンは、屍はそのままで、靴の音を鳴らして夜道を歩いていく。路地裏ということもあってか街灯が少なく、薄気味悪い空気が流れている。

 ここの街並みは非常にゴシック的で、昼間の景色は最高だ。高くそびえ立つ建物が街を形成し、所々からのぞく青々とした湖や噴水が美しい。だが、赤煉瓦を基調としたその街並みは、夜になればひとたび怪しい空気を醸し出す。


 ――どうせ、あの女は“生き返る”。

 人間ではなく別の生を授かって、そのままの姿に少しの細工を強制的にもたらされ。

 そして、女を犯したあの男を、悲しくも愚かしくも「絶対的主」として崇めるようになって。


 コツン、コツンと靴の音。ザー、ザーと噴水が。ホー、ホーとフクロウが鳴き、どこかで誰かの悲鳴が動く。

 そんな世界。そんな世界を、シンは静かに味わいながら、そんな世界、そんな世界を、シンは静かに闊歩かっほする。


「おっと。アイツ無防備だなぁ。頼むから男は止めてくれよ」


 開きっ放しの窓、香る人間の紅の色。心の奥底から、抗えぬ本能が叫び出す。


晩餐会パーティータイムと行こうぜ」


 影が、舞った。


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