最終話 永久の森の旅人。
こんなに長く文章を書き続けるのは初めてでした。
読みづらい所も多々あったと思いますが、最後までお付き合い下さって本当にありがとう!
しばらく夜空を飛び続けた鳥の群れは、森の中へと降り立つと老人を残して去っていった。
木の根元に力なく座り込んだ老人の前には片目のカラスだけが静かに佇んでいる。
「……ありがとう……」
夏の始まりを告げる虫たちの儚げな鳴き声が夜風に乗って微かに聞こえる。
老人の目はほとんどもう見えなくなってしまっていたが、どこに連れて来られたのか分かっていた。
もしも老人にまだ動く体力が残っていたならば、近くの草むらに祠がないかと探した事だろう。
「……お前は……どうするんだ……?」
じっと老人の様子を見守っていたカラスが、小さな声で「カア」と鳴く。
とても寂しげな鳴き声だ。
「……そうか……帰る場所が、あるんだね……」
老人は、きっとこれが今生の別れになるのだろうと感じていた。
カラスも同じ事を感じていたのだろうか。
老人の様子を、片方しかない瞳にしっかりと焼き付けるよう見つめた後、音もなく去っていった。
「……カラス……?」
カラスの気配がいなくなってしまうと、老人はぼんやりと空を見上げた。
視界が真っ暗だったのは、夜だからというだけではない。
老人の目は既に光を映していなかった。
「……行ってしまったか……」
老人は、重い瞼を静かに閉じる。
枯れ木のような細い腕が、だらりと力なく地面に垂れた。
どれくらいそうしていたのか、老人にはもう知る術もない。
時間という概念を既に失くしてしまっていたからだ。
天と地を繋ぐ、肉体という枷から解き放たれた魂が、光の中を楽しげに舞う。
安らかな眠りの時がようやく老人にも訪れたのである。
──もう、苦しむ事もないんだ。
それは老人にとってこの上ないハッピーエンドだった。
苦しみや悲しみ、全ての欲求から解放されて穏やかな充足感に満ちている。
長い旅を終えた魂は、次に生命を育むまでの永久にも等しい時間をただ安らかに眠り続けるのである。
「じぃぃぃぃーーーっ……」
しかし、それをどこからか邪魔するものがいる。
それは声、或いは視線だろうか。
悪意こそなかったが、それが老人の眠りを妨げる。
──おい、雪ん子。
どういう訳か、そんな言葉がついて出た。
「──ひッ!」
すると声が届いたのか、視線の主は慌てて隠れ、そして震える声で言った。
「ゆ、雪ん子さんじゃ、ないです……」
老人はおかしな奴だと呆れてしまう。
──知ってるよ。ミノスケだろ?
言葉にしてから奇妙に感じる。
記憶からも解放されたはずの老人は、なぜかその名を知っている。
「──旅人さんッ!? 旅人さんなのですね!」
──旅人……?
背中がむず痒くなるような、それでいてとても心地の良い響きの言葉だった。
老人の中のどこかとても深い場所から、じんわりと暖かいものがこみ上げてきていた。
──ああ、そうか。そうだった。
「……わたしの名前は旅人だ」
老人が目を見開くと、圧倒的な緑が視界に飛び込んできた。
天高くそびえ立つ塔のように巨大な木々。
大地を埋め尽くす育ちすぎた芝の草原。
眩い生命の輝きが、そこかしこにと溢れている。
そして、老人──旅人の目の前には、その輝きにも劣らぬほどに、黒い瞳をキラキラと輝かせている少女がいた。
もう初夏だというのに藁で出来た蓑を頭からすっぽり被った奇妙な、それでいてとても可憐な少女だ。
「ありがとう……ミノスケ……」
老人は、永久の森を去る時に伝える事ができなかった言葉をようやく口にする事ができた。
「はいです! お帰りなさいですよ、旅人さん!」
ミノスケは大きく頷くと、「わーい、わーい!」と跳ね回る。
つまずいた拍子にごろごろと芝の上を転がって、全身で喜びを表していた。
「ああ、ただいま……」
旅人は微笑みながらミノスケを見つめていた。
「もう、どこにも行かないよ……」
永久の森の生命を輝きを浴びたからだろうか、体は幾分楽になってきている。
それでもそう長くはないだろうと、旅人はなんとなく気付いていた。
残された時を大切に生きよう。
そう決心する旅人を、祝福するよう木漏れ日が照らす。
巨大な草木は、まるでミノスケと一緒になってはしゃぐように楽しげに風に揺れていた。
「ハッ! ミノスケとした事が、嬉しさのあまりついうっかりしたですよ!」
はしゃいでいたミノスケが、慌てた様子で旅人の元に駆け寄り何か差し出す。
「ミノスケでも見間違えてしまうほどに、やつれてしまっているのですよ旅人さん。さあ、これをどうぞです!」
ミノスケの手には、油粘土で作ったボウリングの球のような緑色の塊があった。
転げまわっていたせいか、所々に藁やら芝やら泥やらが付着している。
「ぐっ……」
永久の森に来て間もない頃に一度それを口にした事のある旅人だが、人間社会で長く過ごしてきた事もあり、とてもじゃないが食べて良い物には見えなかった。
「遠慮はご無用なのですよ? ミノスケはいつ旅人さんがお戻りになっても良いように、毎日ご用意してきていたです!」
「そ、そうか……」
どうにか断れないかと思案する旅人だったが、年齢を経た今も変わらず口下手だ。
諦めて受け取ると、表面をそっと手で払ってから恐る恐る口へと運ぶ。
「──ぐふっ……あ、あれ? 意外と美味しいぞ……」
微かに混じる雑味を除けば意外と食べられない事もない。
それどころか一口食べる毎に、細胞の隅々にまで栄養が行き渡っていくような気さえする。
旅人が夢中で食べていると、微かによだれを啜る音が聞こえた。
「……半分、食べるか?」
「い、いえ。お疲れの旅人さんが、全部食べるですよ……とても、美味しそうなのです……じゅるり……」
口ではそう言うミノスケだったが、旅人が二つに割って差し出すと結局半分以上を食べてしまった。
「──食いしん坊さんの旅人さんが、あの程度の量で満足するはずもないのです! ミノスケはお見通しなのですよ」
「ああ、そう……」
ミノスケは旅人の手を引き、森の奥へと進んでいく。
半ば引きずられるように着いていく旅人だが、ミノスケはしばらく手を離してくれそうにない。
以前置き去りにされた事が未だに堪えているのだろう。
「カナブン丸も元気にしてるのか?」
旅人はミノスケに訊ねた。
確かこの先には大クヌギの木があるはずだ。
「カナブン丸さんは今や緑の荒野のヌシさんなのです。永久の森でたった一人の第三勢力なのですよ」
「へぇ……じゃあ、カワセミさんたちは?」
旅人は第三勢力という言葉に微かに嫌なものを感じたが聞き流す事にした。
森の景色は以前と何ら変わりないが、長い時の流れの中で、住民たちには色々と変化もあるのだろう。
「カワセミさんは道を踏み外してしまったのです。今はララヴィさんとご一緒に、暗黒の大軍団で幹部さんをしているですよ」
「え……?」
旅人は一瞬耳を疑う。
予想外というよりは、もはや意味不明な展開である。
しかし、ミノスケは珍しく神妙な顔で続ける。
「──それに対抗しているのが、クマたんさんと斬九朗さん率いるレジスタンスさんたちなのです」
「……」
かなりおかしな事になっているようだが、ミノスケは嘘を言うような子ではない。
旅人はミノスケから詳しい話を聞く事にした。
「全てはアブライさんが、二代目山神様になった事から始まるのです……」
しばらく永久の森を漫遊していた山神は、新たな森を作ろうと思い立ち、別の土地へと移ったそうだ。
その際、アブライを二代目の山神に指名したのだが、これがいけなかったらしい。
権力を手にしたアブライは、あろう事かアブライ帝国なる訳の分からないものを建国し、今も霊峰で好き勝手やっているそうだ。
これに反旗を翻したのが静かな暮らしを尊ぶ水辺の生き物たちである。
永久の森に膨大な版図を有する水辺では、シロナガス提督を中心に川神連合なるものが結成され、アブライ帝国の野望を打ち砕くべく、文字通り水面下の戦いを繰り広げているのです! とミノスケが熱っぽく語る。
「……」
旅人は、もはやカナブン丸は第三勢力どころじゃないだろうと呆れながらも、一番気になっていた名を出してみる。
「それで、金剛丸は……?」
「そうなのです! その金剛丸さんこそが暗黒の大軍団のボスさんなのです! 真のラスボスさんだったのですよ、旅人さん!」
ミノスケ曰く、混迷する情勢の中で発足した暗黒の大軍団は、森のどんぐりを独り占めしたり、気に入らない相手の頭上から松ぼっくりを落としたりと、とにかく悪逆非道の限りを尽くしているらしい。
「……」
ひとしきり語り終えたミノスケは、再び旅人の手を取ると森の奥へと歩き出した。
「時はまさに群雄割拠さんです。今こそ新たなる旅人さん伝説の始まりなのです!」
「こんな年寄りに何をさせる気だ……」
ミノスケが小首を傾げて旅人を振り返る。
「ムッ! 白髪もとてもお似合いなのですよ!」
「いや、そこじゃない……っ!?」
旅人はふと、自身の手を見て絶句した。
年老いてほとんど骨と皮だけのようになっていた腕が、いつの間にか若い頃の張りを取り戻している。
試しに拳を握ってみれば、ぎゅっと筋肉が凝縮して力がこもる。
長く患っていた腰痛や節々の痛みも消え、大地を踏みしめる足にも力がみなぎる。
まるで生まれ代わったようにも感じたが、白いままの髪の毛が長い年月を生きてきた事を証明していた。
「これは……!?」
「めでたし、めでたしなのです」
旅人は、そういえばこの森はそういう訳の分からない事が普通に起きる場所だったなと、今更ながらに思い出す。
「いや、めでたいのか……?」
「エコロジスタなのです!」
「ハハッ……! やめてくれ……」
この地に残ると決めた事を早くも後悔し始める旅人の手を引き、ミノスケが楽しげに森の奥へと進んでいく。
思えばこの小さな手に引かれ、いくつものおかしな出来事に巻き込まれてきたものだ。
呆れたようにため息を吐く旅人の胸の内を初夏の爽やかな風が吹き抜けていった。
安らかな眠りを探して迷い込んだはずの旅人が、安息の時を迎えるのはどうやらまだまだ先の事になりそうである。
~fin~
旅人さんのお話はこれにておしまいです。
読者さんたちにもささやかな幸せが訪れる事をお祈りするのです!




