第71話 時は流れて。
老人は夢を見ていた。
遠い昔に奇妙な森で暮らした日々の、とても幸せな夢だった。
長い年月が経ち、年老いた頭では覚えていられる事も限られてきていたが、それでもあの頃の事だけは今も鮮明に覚えている。
「ああ、夢だったか……」
老人がぼんやりと目を開けると白い部屋の中にいた。
科学薬品の嫌な匂いがする窮屈なベッドの上だった。
「──気分はどうですか?」
ノックの音がして白衣を着た中年の医師が室内に入って来る。
「ええ、まあ……」
決して良くはない。
自然写真家として各地を転々としてきた老人は、寄る年波もあって酷く体調を崩していた。
知人の勧めで病院を訪ねてみれば、初めは簡単な検査入院だったはずが、いつの間にやらこの場所に一週間近くも閉じ込められている。
「どなたか、連絡のとれる親族の方は……?」
唐突に投げられた医師の質問に老人は苦笑する。
「いえ、誰も。天涯孤独の身でして」
「そうですか……」
医師は静かな口調で老人が余命幾ばくもない事を告げた。
菜食中心の慎ましい暮らしをしてきた老人だが、病とはままならないものである。
薬や病院が苦手でこれまで医者にかかる事がなかったために発見が遅れたらしい。既に病魔は老人の全身を蝕んでいて手の付けられない状態なのだそうだ。
「……では、もう帰っても?」
老人は不思議とどこかほっとしたような表情を浮かべていた。
「随分と長くかかったな……」
古びたアパートに戻った老人は、重い体を休める事なく身の回りの整理を始めていた。
残された時間は限られている。
老人にはいつか帰りたいと願い続けてきた場所がある。
そして、自身の人生を全うする事ができたなら、もう一度その場所を探しに行こうと強く心に決めていた。
体が言う事を聞くうちに少しでも旅を急ぐ必要がある。
老人は最低限の荷物をカバンに詰めると、一歩一歩ゆっくりと、杖を頼りに歩き出す。
永い眠りに着くための旅路は、老人にとってこれが二度目の事である。
一度目の時は愚かにも、自ら命投げ出そうと人の目の届かない場所を目指して歩き続けた。
だが今回はどうしても辿り着きたい場所がある。
人の手の及ばない天女の加護を受けた聖域。永久の森と呼ばれる場所である。
「ミノスケは元気にしているだろうか……」
彼女らにまた会う事ができたなら、あの時伝える事ができなかった言葉を今度こそ伝えよう。
そんな老人の願いも虚しく道のりは困難なものだった。
何せ若い頃とは違い、今は死にかけの老体である。
おまけに向かうべき場所は地図にも載らない人の知りえぬ場所だ。
微かな記憶を頼りに、永久の森を出て最初に流れ着いた川辺を探して歩いてきたが、人の暮らしの広がりは地形すらも大きく変えてしまっていた。
「……」
老人は地べたに座り込み、遠くに見える町の明かりを眺めていた。
既に町を出て三度目の夜を迎えていたが、未だ人の暮らしの明かりが見える範囲にいる。
体力は早くも限界を迎えている。
まるで人の世の暮らしが、老人をどこまでも追いかけてきているかのようだった。
「ここまでか……」
その場に倒れこむよう身を横たえて、次第に体が冷たくなっていくのを感じながら目を閉じる。
一度は投げ出した命。ここが終焉の地だとしても惜しむ程のものではない。
そう考えようとする老人の頬を温い涙が伝っていた。
「……」
どこからか「ギャア、ギャア」と騒がしい鳴き声が聞こえてきていた。
お迎えと呼ぶにはあまりに不吉すぎるその声に、老人は薄目を開けて空を見る。
そこには夜空の一角を覆い隠すほどの黒い鳥の大群がいた。
死肉に群がる鳥の群れと呼ぶにしても数が多すぎる。
周りを見ればいつの間にか空だけではなく、老人をぐるりと取り囲むように鳥たちの目があった。
老人が呆気にとられていると、群れの一羽がバサバサと歩み出てくる。
恐らくその群れのボスだろう。
体長1メートルを悠に超えるやたらと風格のある妖怪じみたカラスだった。
「おお、お前は……」
老人に挨拶でもするように「カア」と鳴く、そのカラスの左目にはネコに引っかかれた傷痕がある。
老人が若い頃に追い払って以来、姿を見せる事がなかったカラスは、今もどこからか老人の様子を見守ってくれていたらしい。
「お前も、随分と長生きしたなぁ……立派なもんだ……」
カラスはどこか誇らしげにまた「カア」と鳴く。
「……最後に懐かしい顔が見れて良かったよ……ミノスケたちに会う事があったら、よろしく伝えておくれ……」
老人が再び静かに目を閉じると、カラスは大きな翼を広げ、強い声で「カア」と鳴いた。
すると、周囲を取り囲む鳥の群れが一斉に老人に飛びかかる。
「──お、おい……! まだ、生きてるから……もう少し待って……!」
群れは老人の静止などお構いなしにもみくちゃにすると、バサバサとそのまま夜空に舞い上がっていく。
「──ちょっ! 高い所は、勘弁して……!」
老人は今際の際にありながら、慌てふためく自身の滑稽さに苦笑する。
そして目を閉じて身を委ねる事にした。
かつての友であるカラスの率いるその群れが、どこに向かおうとしているのか老人にはなんとなく分かっていた。
静かな夜空を老人を連れた鳥の大群が飛んでいく。
ただし老人の耳元では、鳥たちの羽音がバサバサとどこまでも喧しく響いていた。
次回いよいよ最終回です! おじいさんの運命やいかにです!




