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第70話 旅を終えた青年。

 気付けば青年は、ぬめぬめとした藻の茂る見知らぬ小川の浅瀬に倒れていた。


 酷く汚ない川だった。 

 少なくともその時の青年にはそう感じられた。


「……」


 黄色味を帯びた乾いた日差しをぼんやり見上げ、いつの間にか朝を迎えていたのだと悟る。


 体は鉛のように重く、吐き気と頭痛を感じたが、それより更に酷いのは胸にぽっかりと穴が空いてしまったような喪失感だった。


 近くの木立でカラスが「カア」と鳴いている。

 左目に猫にでも引っかかれたような傷のある片目のカラスだ。


 青年は自身が何かを握りしめている事に気付いて手を広げる。

 そこには潰れた小さなツクシがあった。


「……目覚めろ、天を突く剣テンツクソード


 青年は一人呟くと、涙をこぼした。


 ひとしきり泣いた後でよろよろと立ち上がり、町を目指して歩き出す。

 その足取りは決して軽いものではなかったが、それでも背筋を伸ばして前へと進む。


 長い旅を終えた名も無き青年は、そうして町に戻っていったのである。



 不思議な事に青年が町を離れてからそれほど時が経ってはいなかった。


 天涯孤独の身の上だった青年は、行政の助けを借りて寮付きの鉄工所に住み込みで働く事になる。


 薄給激務の三交代制のライン作業で休みは週に一度だけ。

 夏は茹であがる程に暑く、冬場は底冷えのする過酷な環境だった。


 それでも青年は音をあげる事なく、ひた向きに働いた。


 そんな青年の様子をいつもどこからか見ている存在があった。


 片目のカラスだ。

 

 ある日の事。

 鉄工所の敷地内のベンチで青年が昼食を食べていると、すぐ側のフェンスの上でいつものカラスがじっと見ている。


 腹でも空かせているのだろうと考えた青年は、少し分けてやろうかと思い立つが──止めた。


「……」


 青年はおもむろに腕を振ってカラスを追い払う。

 カラスはさして怯んだ様子もなく、羽ばたいて距離をとると、首を傾げてまた青年を見ていた。

 

 そんなカラスに青年は声を張り上げて叫んだ。


「──カラス! お前は充分に強いぞっ! だからもう、何者にも縛られずに生きていくんだ!」

 

 カラスはしばらく青年を見つめていたが、「カア」と寂しそうに一声鳴くと、何処かに飛び去っていった。



 元来口下手な青年は、そんな奇行も手伝ってか、鉄工所でも浮いた存在となっていった。


 仕事場と自室を往復するだけの彩りのない孤独な日々。


 そんな青年に転機が訪れたのは、ある夕暮れ時の帰り道での出来事だった。


 早朝から働きずくめでくたびれ果てた青年は、寮へと続く川沿いの道を一人ぼんやりと歩いていた。


 見るとはなしに川の方へと視線を向ければ、ちょうどそこに飛び込む野鳥の姿が目に映る。


 きらびやかなその青い鳥は、夕陽を浴びて小さな流れ星のように川の上を忙しなく飛び回っている。


「カワセミだ……」


 青年はかつての旅で出会った友人の姿を思い起こす。


「結局、お礼も言えなかったな……」


 青年は川と道との境にあるフェンスに頬杖をつくと、しばらく様子を眺めていた。


「ん……!?」


 すると、小魚を捕まえたカワセミがふいに青年の方へと飛んで来た。

 フェンスの上に留まり、ピチピチと小魚を口元で跳ねさせながら横目に青年を見ている。


 手を伸ばせば届くほどの距離だった。


 警戒心の強い野鳥が人の側に寄ってくるなど珍しい事なのだが、そのカワセミはまるで、青年に捕まえた獲物を自慢しているかのようだった。


「……」


 青年はおずおずと携帯電話を取り出すと、その姿を写真に納める事にする。

 シャッター音がカシャリと鳴ると、カワセミはようやく小魚を飲み込んで、どこか誇らしげに去っていった。


「ハハッ……」


 今しがた撮ったばかりの写真を見て、青年は久しぶりに笑った。

 

 それから青年は写真を撮るのが趣味となった。


 少ない給与で購入したデジタルカメラを携えて、休日には早朝から自然豊かな場所を巡る。

 青年が出かけていくと、決まって野生の生き物たちが姿を見せる。


 親しげに近寄ってくる彼らに青年がカメラを向けると、いつもとっておきの決め顔を見せてくれた。


 植物たちも同様だった。

 ある立派な木を見つけた青年が、一枚撮ろうとカメラを向けると、途端に周囲を美しい落ち葉が舞った。

 

 青年はとっくに草食能力チートを失くしてしまっていたし、彼らの声を聞く事もできなくなっていたのだが、草食動物や植物たちは、それでも青年を友人として認識してくれていたのである。



 警戒心の強い野生の生き物や、物言わぬ植物たちの見せるどこか親しげな表情は、青年にしか撮る事のできないものだった


 ある自然写真誌にたまたま投稿した一枚の写真がきっかけで、青年はフリーのカメラマンとしての職を得る事になる。


 日本各地の風光明媚な場所に行き、たくさん写真を撮った。


 それなりの評価を得て、何度か海外に足を運ぶ事もあった。


 その度に各地の生き物や植物たちは微笑みかけるように美しい瞬間を見せてくれた。


 時には幻とされるような生き物が写ってしまう事もあったのだが、そういった写真は人目につく前に全て処分してある。


 人知れぬ存在は、人知れずあるべきなのだと青年は思う。



 青年は最後まで家族を持つ事こそなかったが、そうしてそれなりに幸せに歳をとっていったのである。








残り二話です。

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