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第57話 閉ざされた箱庭。

 雪の荒野を抜けた旅人一行は、セミの谷を臨む崖の上へと辿り着いていた。

 大地の裂け目のような崖の底には雪に埋もれたセミの谷があるはずだ。


 しかし、今回旅人たちが目指すべき場所はそこではない。 

 まるで空から架かる巨大なカーテンのような、深い霧に包まれた向かいの崖が目的地である。


 崖と崖との間はかなりの距離が離れており、霧もあるためその全容は見えないが、蜘蛛の糸で紡いだような白い固まりがあちらこちらから突き出しているのが見える。


 それらの大半は崖の狭間で途切れているのだが、その内の何ヵ所か吊り橋のように二つの崖を繋げていた。


「……」


 自身の立つ位置からもそれほど離れていないその場所を、旅人は絶望的な表情で見ていた。


 高所の苦手な旅人にとっては考えたくない事ではあるが、冬の間だけ架かる橋と言うのは恐らくそれで間違いないだろう。


「旅人さんは以前、ここからぴょんっと飛び降りたのですよ」


「えっ! 旅人くんって人間でしょ!? 空が飛べるの?」


「……」


 楽しげな様子でカラスと話しているミノスケを、旅人はただ恨めしげに見つめるのだった。




 遠目に見れば巨大蜘蛛が吐いた糸のようにも見えた吊り橋は、雪と氷で出来ていた。

 道路の片道車線ほどの幅があり、表面は意外にも平坦で足場もしっかりとしている。

 しかし、万が一足を滑らせようものなら奈落の底へと真っ逆さまなのは言うまでもない。


 旅人はたんぽぽの綿毛のように膨らんだユッケを着流しの懐に入れると片手で抱え、もう一方の手をミノスケに託す。

 そして、半ば引きずられるようにして凍った吊り橋の上を渡っていった。


「見るですよ旅人さん。絶景なのです」


「うっ……」

 

 吊り橋の中央付近で足を止めたミノスケが旅人の方を振り返る。

 見晴らしは確かに良いのだろうが、旅人にとっては地獄絵図である。


 目眩どころか吐き気すら覚えながら懐を見れば、ぷっくりと毛を膨らませたユッケが周囲の様子をぷるぷると震えて見ている。


 最近はすっかり落ち着いてきたユッケだが、出会った頃はいつも今のように怯えていた事を思い出して、旅人はその頭を優しく撫でた。

 

「ミノスケ、早く行こう」


「はいです! もう一息なのですよ!」


 ミノスケは再び前を向くと旅人の手を引いて歩き出した。

 

 向かいの崖に近付くほど、上空からは煙のように深い霧が、みぞれ混じりの吹雪と共に吹き付けてくる。


「この風があるから、空を飛んで渡る事も出来ないんだよ!」


 後ろを歩くカワセミが旅人にそう教えてくれた。

 いつもはふよふよと宙に浮いているカナブン丸も、今ばかりは六本の足でガシガシと橋の上を歩いている。


「……」


 氷の吊り橋には旅人たち以外にもいくつかの足跡が残っていた。

 旅人にはこんなに苦労をしてまで山神の元へと向かう理由が全く理解できなかった。


「山神様は永久の森全体の守り神様なのです。皆さんご挨拶に行くですよ」


 人間である旅人がその声を聞く事はなかったが、永久の森へと辿り着いた生き物たちは皆、初めに山神の声を聞くという。


 それは名付けと呼ばれ、その者が歩み、積み重ねてきた徳に応じて、ミノスケたちのように神格を得て擬人化したり、この森に適した姿へと変態するのだそうだ。

 

「うおォォォ! スゲーな山神ィィィ!」


「……」


 旅人のすぐ足下では、カナブン丸が全身に雪を被りながらも興奮している。

 この森で生まれ育ったカナブン丸は未だに山神との面識がなく、今回の旅を密かに楽しみにしていた。


 しかし、今の旅人にはいつまでも山神の事を気にしていられる余裕などない。


 いよいよ向かいの崖に差し迫ると、頭上からは一寸先も見通せない真っ白な濃霧と、嵐のような暴風雪が降り注ぐ。


 旅人は紅葉の着流しのお陰で風雪には耐える事ができたが、目隠しで凍った吊り橋を渡る状況に、文字通り身も凍る思いだった。


 白い霧の中、姿の見えないミノスケの手が旅人を霧の深い方へ、風の強い方へと導いていく。

 ごうごうと吹き付ける風雪は既に旅人の視覚だけでなく聴覚までをも奪っている。


 旅人は、ただミノスケの小さな手から伝わってくる温もりだけを信じて進んだ。


 ――この手にどれだけ救われただろう。


 旅人がそんな事を考えていると、いつの間にか風は止んでいた。


 視界を覆っていた霧も消え、目の前には夜の闇に青白く輝く氷の大地と、そこに立つミノスケの笑顔だけが映っていた。


「ついに到着なのですよ!」


 ミノスケの声に旅人は周囲の様子をぼんやりと眺めた。


 幻想的な場所だった。


 木も草も岩も、全てが青く凍り付いた世界が、どこまでも続いている。


 凍った表皮を持つ草木は一見すると氷の彫刻のようにしか見えないのだが、その内側に以前旅人の着ていた葉っぱの着流しの葉脈のような、淡く輝く光の筋が透けて見える。


「……」

 

 空はやたらと立体的な、分厚い銀色の雲で覆われている。


 呆然としていた旅人は、懐でもぞもぞしているユッケの存在に我に返ると、慌てて背後を振り向いた。


「ああ、この場所はいつも美しいね……」


「ここに、山神様が……」


 旅人の背後には白い壁のような濃霧があり、ちょうどそこからカワセミとカラスが出てくるところだった。

 

 青色が大好きなカワセミは景色に見とれ、カラスも興味津々といった様子で周囲を見ている。


「なんかヘンな場所だなァァ……」


「ああ……それに、いつ夜になったんだ……?」


 足元から聞こえたカナブン丸の声に旅人は疑問を返した。

 景色も確かに不思議だが、なにより吊り橋を渡っていた時はまだ明るかったはずだ。


「まだお日様が出ているのです。そろそろおやつの時間なのですよ」


 ミノスケの指し示す分厚い銀色の雲の向こうには星か、或いは月のような、ぼんやりとした光の固まりがあった。


「あれが、太陽なのか……」


 旅人は誰にともなく呟いた。

 

 太陽の光さえ届かないこの場所は幻想的で美しくすらあった。

 しかし、旅人にはそれがどこか闇に封じられた牢獄のようにも感じられるのだった。



 



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