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第55話 宿敵。

 これは自分たちの力で乗り越えなければならない戦いだ。

 雪の上に倒れ伏した旅人は、金剛丸に助けを求めようかなどと甘い考えが頭を過ぎるがすぐに打ち消した。


「ぐあァァァーッ!」

 

 斬九朗の大アゴに挟まれたカナブン丸が珍しく悲鳴をあげていた。

 その小さくも頑丈な体がミシミシと嫌な音を立てて軋んでいる。


 力の差は歴然だった。


 旅人が「必殺、旅人だまし」で僅かに隙を作るも、すぐに大アゴの背で大地に叩きつけられ、救出に向かったカナブン丸もいとも容易く捕えられてしまっていた。


「今、助けるぞ……」


 ズキズキと痛む体を抑えて旅人はなんとか立ち上がる。


 斬九朗も旅人の方へと向き直ると、唾でも吐き棄てるようにカナブン丸を投げ捨てた。


 地響きが鳴り、カナブン丸の落ちた場所からもうもうと雪煙が立ち昇る。


『小僧、覚悟は良いか』 


 それは、地の底から響いてくるような恐ろしげな声だった。


 数多の草食動物が自由に暮らす永久の森では細かな取り決めこそないものの、殺生と火気の使用だけは厳しく禁じられている。

 しかし、己が強さを極めんとする剛の者にとっては、それすらも絶対的なものではない。


「……」


 旅人が斬九朗の問いに答える事はなかった。

 その代わり、倒れた拍子にずれていた三度笠を外すとフリスビーのように放り投げた。


 ミノスケから貰った三度笠は風に乗り、澄みきった真冬の青空の下を飛んでいく。


 旅人はそれを見て微かに微笑んだ。


 覚悟を問われれば、そんなものとっくに――町を出た時から既に出来ている。


 しかし、たかがスイカを一個奪った程度で死を覚悟するというのも釈然としないものがある。

 本能に生きる斬九朗の考えなど理解しようもなかったが、旅人にはどうしてもそれほど深い因縁があるようには思えなかった。

 

「理不尽はどこも変わらないか……」


 旅人は全身から殺気を放っている斬九郎を正面から見据えた。


 思えば人生における数多の理不尽から逃げ出して、そしてこの地に辿り着いた。


 そして、たくさんの素敵な想いを受け取った。


 だからもう今の旅人は逃げ出そうとは思わない。



 ――今の旅人くんにはたくさんの仲間がいるものね。



「そうだな、紅蓮の咆哮ファイアストーム……」


 胸の奥から聞こえてきた声に、旅人は自然とその銘を呼んでいた。


 瞬間、旅人の全身を焼けるような痛みが襲う。

 

「――熱ッ! あちッ!」


 見れば着流しの全身に伸びる紅葉の葉脈がドクドクと脈打ち、まるで煮えたぎるマグマのように紅く危険な輝きを放っている。


『なんだ、その力は……?』


 斬九朗はその輝きが警戒すべきものだと本能的に理解した。

 そして僅かに後ずさる。


『教えてやる! かかってこい!』


 全身から涌き上がる力と、そして強烈な熱に耐えながら旅人が叫ぶ。


 カイコたちの紡いでくれた新たな着流しは強大な力を秘めていた。

 しかし、どうやら短期決戦仕様らしい。


 長くは耐えられないと判断した旅人が警戒している斬九朗に自ら突っ込んでいく。


『来ないなら――ッ!』

 

 旅人と斬九朗の間には3メートルほどの距離があったが、旅人が一歩足を踏み出すと、既に斬九朗の大アゴの付け根の辺りに手が届くほどの位置にいた。


『甲殻も持たぬ軟弱者が、何を驕るか!』


 斬九朗は瞬時に反応すると、その大アゴの稼動域に旅人を捉えるべく側面へと周り込んだ。

 巨体に見合わぬ素早い動きに、雪の大地が少し遅れて煙のような粉雪を舞わせた。


「くっ!」


 旅人は咄嗟に大地を蹴って上へと逃げた。

 斬九朗が動いた時よりも、更に大きな雪煙を上げて。


「ここか、ら……ッ!?」  


 旅人はガクガクと身がすくむのを感じた。

 先ほどまでいたはずの雪の大地を、今はなぜか遥か高みから見下ろしていたからだ。


 旅人の位置から30メートルほど下には、旅人が起こしたであろう雪煙が立ち昇っている。


 しかし、その雪煙が真っ二つに切り裂かれた。

 裂け目から羽根を広げた斬九朗が猛然と飛び出してくる。

  

『我に空で勝負を挑むか!』


 音速で迫る斬九朗の大アゴが、空中で身動きのとれない旅人を捉える。


 ――ガキンッ!


 金属を打ち合わせるような硬質な音が辺りに響く。

 しかし、斬九朗の大アゴは完全に閉じられてはいなかった。


「ぐぎぎっ……」


 旅人がそのノコギリのように鋭い大アゴを内側から素手で押さえていたからだ。


『痴れ者めが! 我が牙に耐えられるとでも思うてか!』


 斬九朗が大アゴに更に力を込める。

 なんとか耐え凌ごうとする旅人だが、紅葉の着流しの力をもってしても斬九朗の大アゴの膂力には敵いそうにない。

 

「あれは……?」


 その時、旅人は斬九朗の巨大な頭の下にある摂食器官とそこから伸びるオレンジ色の舌を見つけた。


「――必殺、旅人キック!」


 旅人がすぐさま蹴り上げる。


 着流しの力を借りて尚、必殺技と呼ぶにはおこがましい威力しかなかったが、摂食器官は全身を硬い甲殻で守られたクワガタにとって内臓へと続く数少ない急所の一つである。


 それは人間に例えるなら金的攻撃のようなものであろう。


『ぐううおぉぉーっ!』


 悶絶する斬九朗の大アゴの力が弱まると、旅人はするりと抜け出した。


 そして、その外羽根へと飛び付いた。


『――必殺、旅人返し!』


 旅人が全身で体当たりするようにして斬九朗の巨大な外羽根を閉じさせる。

 それはまるで鋼鉄製の重い扉を無理やり閉じるような感覚だった。


 空中で突然羽根を閉じられた斬九朗が、仰向けにひっくり返り墜落していく。


『姑息な真似を!』


 斬九郎は咄嗟に前足を伸ばすとツメの先で旅人の襟首を掴んだ。

 そのまま旅人を引き寄せると、腹の上に六本足で抱え込む。


「くっ!」


 斬九郎が頭部を下に向け、再び羽根を開こうとしている。


 どうやら体勢を整えて旅人だけを大地に叩きつけるつもりのようだ。


『――そっちこそ!』


 凄まじい風圧の中、旅人は全身に力を込めると斬九郎の腹に片膝を突き立てた。

 そして両手で前足の付け根を押さえつけ再び斬九郎が背中から落ちるよう誘導する。


『ぐぬぅぅ』


 旅人の着る着流しからはいつからかメラメラと紅蓮の炎が吹き出していた。

 それを嫌った斬九朗が呻き声を漏らす。


『落ちろっ!』


 大地に激突する瞬間、旅人は斬九朗の腹を力いっぱい蹴った。


 ――次の瞬間。


 旅人の全身を凄まじい衝撃と震動が襲った。


 目の前は真っ白に染まり、一切の音が消えていた。


「ぐっ……」


 霞みそうな意識の中、旅人がよろよろと身を起こす。

 白い煙が薄れていくと、旅人は斬九朗の腹の上に立っていた。


 周囲の雪はすり鉢上に吹き飛ばされ、斬九朗の下敷きとなった大地では赤みを帯びた荒野の土がむき出しになっている。


『いつまで我を踏んでおるかッ!』


 意識を取り戻した斬九郎が前足で旅人の着流しを掴んだ。

 自分の方へと引き寄せて下から大アゴで挟もうとしている。


 旅人は身を屈めると再び斬九朗の前足の付け根を押さえ込んだ。


『もう、止めにしないか……?』


 旅人の頭の上では斬九朗の大アゴが「ガギン」「ガギン」とどこか虚しい音を響かせていた。


 既に紅葉の着流しの決戦仕様は解かれている。

 紅い光は失われ、湧き上がる力も熱も今の旅人は感じてはいなかった。


 しかし斬九朗もかなり弱っていた。四本の後ろ足がピクピクと痙攣しながら宙を泳いでいる。


 日常仕様の着流しでも今は充分に押さえつける事が可能だった。


『笑わせるな小僧ッ! 牙も角も持たぬ貴様がどうやって我を倒すつもりか! この麻痺が解けた時が貴様の最後だと思え!』

  

「そうか……」


 確かに旅人は、それ以上の攻撃手段を持ち合わせてはいなかった。

 しかし、今の旅人はそんなものは必要ないと確信していた。


『待たせたな! カナブン丸!』


 叫ぶと同時に旅人は斬九郎の腹を蹴って飛んだ。



 旅人の後方では宙に垂直に浮いた姿勢でギュルギュルと回転しているメタルグリーンの塊があった。


 それは、カナブン丸の必殺技、緑色彗星・栄光の螺旋(エメマン・ネルドリップ)――


 中途半端な攻撃では通用しないと判断したカナブン丸はひたすらにそれを練り上げていた。


 回転速度が上がるほどに際限なく威力を増していくその技は、自信の宿命を超越した者だけが持つ強大な力を秘めている。

 しかし、同時に回転速度が上がるほど使用者の視界と意識を奪っていくという危険な技でもある。


 それを極限まで練り上げる。


 カナブン丸もまた信じていた。


 最大の宿敵にして、初めてできたたった一人の対等の友人――旅人が、いつものように少し小狡くも見える奇妙な技で、斬九郎の動きを止める事を、そしてその時、自身の名を呼ぶ事を。


 例え意識が薄れてもその声と姿だけは忘れようはずもない。


 だからカナブン丸は即座に反応すると、極限まで高めたその力を解き放った。


『食らえェェェ! 旅人ォォォオ!』


 小さな体に最強の意思を秘めたカナブン丸が飛び出すと、超高速で回転するその体から魂の輝きが溢れ出す。


 光輝く残像を引き連れ、音速すらも超えて飛ぶその姿は、まるで緑色のレーザー光線のようだった。


 カナブン丸は旅人の足下を一瞬で掠めて斬九朗へと突っ込んでいった。


『なにィィィッ!』 


「……」


 光の筋となった頼もしき相棒を感慨深く見ていた旅人だが、その声に眉をしかめる。


 ――次の瞬間。


 斬九郎とカナブン丸が接触した。


 周囲の大地を巻き込みながら、半球体の光の渦が膨れ上がっていく。


「ぐっ……」


 旅人もすぐに光の渦に包まれた。


 爆風と爆煙が周辺の大地を震わせる。

 大地を覆っていた雪が津波のように波打ちながら、その場から逃げ出すように大きく広がっていく。


 旅人は暴れ狂う光の奔流の中、カナブン丸とそして斬九郎が吹き飛んいくのを微かに目にしたような気がした。



「……」


 それは一瞬の出来事だったようにも、長い時間が経ったようにも感じられた。

 気付けば旅人は、地面がむき出しになった荒野に一人立っていた。


 すぐ側には、まるで墓標のように半ばから折れた斬九郎の片アゴが突き刺さっている。


 旅人がぼんやり空を見上げれば、真っ青な空からカナブン丸が落ちてきた。


 ――ドスン。


「た、旅人ォォ……あれを、避けるとは、さすがだぜェェ……」


 旅人は呆れたようにため息を吐くと、仰向けに転がっているカナブン丸を蹴り起こした。


「も、もっと優しく起こせやァ……」


 旅人はもう一度ため息を吐いて空を見上げるが、斬九郎まで落ちてきたりはしなかった。


 旅人は勝利の栄光などというものは微塵も微塵も感じていなかったが、一先ず強大な相手に立ち向かい、そして今日という日を生き抜いたのである。

 

 




長きに渡る戦いだったのです!

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