第49話 カブト虫が飛んだ日。
カゲチカがその頭部から無数に伸びる角先を旅人へと向けた。
大小様々な鋭く尖った角が絡まり合って生える様は実に気色が悪いものだった。
「……」
その足元には未だ無傷の10頭の鹿が横一列に整列している。
「やるしかないか……」
「お前、大丈夫なのかよォ……?」
着流しの力が失われている事に気付いた様子のカナブン丸が心配そうに旅人を見る。
大丈夫とは言い難い状況だが、だからといって逃げ延びる事も難しそうだ。
「ああ……」
『――殲滅せよ!』
旅人がカナブン丸に搾り出すよう返事をした時、カゲチカの号令が響いた。
横一列に並んだ鹿たちが「応!」と一斉に雄叫びをあげると土埃を巻き散らし迫ってくる。
やや遅れてその後ろからカゲチカの巨体も地響きを立て近付いてきている。
「――緑色彗星・大突撃!」
先頭を走る鹿目がけてカナブン丸が突撃した。
同時に駆け出す旅人の視界の先で、仰向けの姿勢で3メートルほどの高さまで跳ね飛ばされる鹿の姿が見える。
「あいつ強くなってるな……」
夏の終わりに出会った頃、旅人にも何度か向けられたその技は以前よりずっと威力を増していた。
カナブン丸の成長に僅かに頼もしさを感じながら旅人も鹿たち目がけて飛び上がる。
「必殺、旅人――」
――瞬間、前方から雷鳴のような爆発音が響いた。
いつの間にか尻餅を付いていた旅人は事態を把握しようと慌てて周囲を見渡した。
白みがかった視界の先に嫌でも入り込んでくるカゲチカの巨体がなぜか大きく仰け反っている。
苦悶の表情を浮かべるその頭上には先ほどまであったはずのものがない。
一本残らず砕け散った角の破片がパラパラと乾いた音を立てながら周囲に降ってきている。
『俺の縄張りで何騒いでんだ……?』
カゲチカの正面には一匹のカブト虫がいた。
自身の20倍はあろうかという巨体を前に二本の前足で腕を組み悠然と宙に佇んでいる。
鋼鉄のように頑強な黒一色の全身に茶色く変色した幾つもの傷跡が見える。
「金剛丸……」
旅人はその頼もしい後姿を見て安堵のため息を吐いた。
『ん? なんだ旅人か。そうか、さっきの声はお前だな。なかなか大したものだったぜ』
金剛丸は旅人の方に向き直ると一方の前足を「よう」とばかりに上げてみせる。
「よ、よう……」
そんな事をしている状況ではなかったが旅人もつられて片手を上げた。
「お前ェ! 何しに来やがったァァ!」
元は兄貴分であり現在は生涯のライバルと勝手に決めている相手の登場にカナブン丸が早速元気に噛み付いた。
その不遜な態度に金剛丸まで敵に回しはしないかと肝を冷やす旅人だがどうやら無用な心配らしい。
『よお! お前もしばらく見ないうちに随分と良い面構えになったじゃねぇかカメムシ丸!』
「え、マ、マジっすか!? いや、そんなァ……って、オイラはカナブンだァァァッ!」
「うるさっ……」
先ほどまで漂っていた悲壮感は一変していた。
一匹のカブト虫の登場により戦局が大きく変動している。
しかし、それを良しとしない者がいた。
『――金剛丸ッ! 貴様ッ!』
仰け反っていたカゲチカは首を振り戻すとその勢いを利用して金剛丸の背中に噛み付きにかかる。
全長1メートル弱の金剛丸を丸飲みできそうな巨大な口が凄まじい重量と共に襲いかかった。
『――ギャッ!』
が、しかし金剛丸が面倒そうにゆらりとトンボを切るとその角がカゲチカの鼻先に突き刺さる。
カゲチカは悲鳴をあげて再び大きく仰け反る事となった。
体格差すら全く意味をなさない金剛丸の戦闘力を誰もが呆然と見ていた。
『じゃあ、こいつは俺が片付けるからお前らはその辺にいる連中と遊んでろよ』
旅人が我に帰って周囲を見れば、旅人同様呆然としていた鹿たちと視線が合う。
「おのれ! 愚弄しおって!」
「貴様から血祭りにあげてくれようぞ!」
「虫ケラどもは後回しだ!」
周囲にいた数頭の鹿がこぞって旅人へと殺到した。
「――必殺、旅人返し!」
旅人は先ほど使えなかった自身の必殺技をすかさず敢行する。
着流しの力がないため大した威力は引き出せないがそれでも最も使い慣れた技である。
鹿たちの目の前で両手を叩くとその動きを一瞬止める事に成功した。
――いくぞ!
旅人は最も体格の良い一頭に狙いを定めると、その首筋目がけてラグビーのタックルのような体勢で飛びかかる。
そして、必死に抵抗するその首筋にしがみ付き大地を蹴って背に跨った。
「――必殺、鹿ロデオ!」
鹿の両耳を掴んだ旅人が叫ぶ。
必殺、旅人シリーズ第三弾。その完成の瞬間であった。
鍛えようのない部位の一つである耳は全ての動物に共通する弱点の一つである。
更に四足歩行を主とする動物ともなれば背中に跨る事でその攻撃手段を封じる事すらできるのだ。
カゲノブとの戦いで偶然編み出した攻防一体のこの技は、正しく必殺技と呼ぶに相応しい。旅人はそう考えていた。
「おのれ、ちょこざいな!」
しかし、鹿は耳の痛みなどおかまいなしに旅人を跳ね除けようと暴れ回る。
「ぐぬっ……」
旅人も振り落とされては堪るかと、一般的な鹿たちよりも大きく頑丈なその両耳を拳にぐるりと巻きつけるようにして更に強く握り締めた。
「おい、さすがにそれは止めろッ! ち、千切れるぅぅッ!」
必死に暴れる鹿のダメージは全て自身の両耳へと向かう。
周囲の鹿たちが助けに入ろうと試みるが、その暴れっぷりに近付く事すらできずにいた。
旅人はこの新たな必殺技が対草食動物戦において有効である事を改めて実感する。
その絶大な効果は鹿が可愛そうなほどである。
「――緑色彗星・大突撃!」
旅人の揺れる視界の中、猛スピードで突っ込んできたカナブン丸が周囲の鹿を跳ね飛ばす。
見ればカナブン丸の飛んで来た方向には何頭もの鹿たちが倒れ伏している。
「……」
旅人はカナブン丸は本当に強くなっている事を改めて実感した。
出会った頃はただの小物にしか見えなかったカナブン丸に微かな感慨を覚える。
旅人がそんな事を考えている間にもカナブン丸は最後の鹿を弾き飛ばした。
「ンで、旅人よォ。お前はさっきから何やってんだァ?」
旅人は自身が乗っている鹿へと視線を移した。
「……新しい、必殺技だ」
その鹿はこれまで人を背に乗せた事などなかったのだろう。
過度のストレスと疲労で今にも倒れそうである。
「もう……許してくれ……」
鹿は最後にそう言うと地面にそのまま倒れ込んでしまった。
「よくわからねェけど、なかなか恐ろしい技みてェだなァ……」
息を荒げて倒れている鹿を見てカナブン丸が哀れむように言った。
「……?」
旅人は自己嫌悪を覚えて視線を反らすとそこで周囲を巨大な影に覆っている事に気が付いた。
「お、おおォォ……」
カナブンのくせにやたらと口達者なカナブン丸も事態の異常さに気付いたのか、空を見上げて珍しく言葉にならない声をあげている。
「あ、ああ……」
旅人もその視線の先にカゲチカの巨体がある事にすぐに気付いた。
首を伸ばして立ち上がったその全長は悠に50メートルを超えているだろう。
ブロントサウルスのような分厚い筋肉に覆われたその重量は計り知れないものがある。
それが宙に浮いていたのだ。
カゲチカの巨体が、ふわふわとまるでアドバルーンのようにゆっくりと天に昇っていこうとしている。
さして信心深くもない旅人もその光景を前にカゲチカは天に召されてしまうのだろうかとぼんやり考えていた。
『ぐぅ……や、やめろ……』
カゲチカの口元が恐怖に微かに歪んでいる。
見れば分厚い首筋の向こう側には西日を反射させる金剛丸の薄羽が見え隠れしていた。
『お前、ちょっと頭冷やしてこいよ』
金剛丸の声が響くや否や、カゲチカの巨体が天高くからゆっくりと湖へと落ちていく。
体重を考えれば実際かなりの速度のはずだが旅人には全てがスローモーションに見えていた。
着水の瞬間、大地が轟く。
イガ栗の落下とか、カゲチカが足を踏み鳴らすとかそんな生易しいものではない。
事実、旅人の体はその震動で地面から1メートルほど飛び上がった。
見下ろす旅人の足元付近から宙を飛んでいたため難を逃れたカナブン丸が不思議そうに見上げてくる。
次に目にしたのは、巨大な壁のように頭上高く競り上がってくる水柱だ。
大地を震わすような爆音はその後遅れてやって来た。
「……」
頭上から滝のように降り注ぐ水しぶきの中、旅人は呆然としていた。
カナブン丸が咄嗟に襟首を掴んで持ち上げてくれたお陰で難を逃れているが、足元の大地を湖から溢れ出た水が洗い流している。
斜面を覆っていた芝は剥がれ、チョコレートを塗りつけたようなぬかるんだ大地が広がっている。
その中心にある湖には流れ込んだ木々や落ち葉と一緒に鹿たちがぷかぷかと浮いていた。
湖畔に頭だけを横たえてぐったりしているカゲチカの姿も見える。
「なァ……旅人ォ……」
「ん……?」
旅人は頭上のカナブン丸を見上げる。
カナブン丸は旅人を吊るしたままぼんやりと湖を見ていた。
「オイラたち、もっと強くならなきゃなァ……」
「お前はそれより忍耐力をつけろよ……」
何度か助けられもしたが、元を正せばカナブン丸が不用意にカゲチカに喧嘩を仕掛けた事が始まりである。
「確かに、そうかもなァ……」
「え……っ!?」
旅人はカナブン丸を二度見した。
まさかそんな殊勝な返事が返ってくるとは思わなかった。
「忍耐かァ……」
湖を見つめるカナブン丸はどうやら冗談で返事をした訳でもないらしい。
もしかしたら今回自分たちを巻き込んでしまった事を多少なりとも後悔しているのかも知れない。
旅人はそう考えるとカナブン丸のその心の内も確実に成長しているよう感じられた。
「……」
自分はどうだろうかと改めて思う。
カナブン丸の求めるものとその性質は異なるが、確かに自分も強くならなければいけない気がした。
「まあ、焦らずやるよ……」
「……そうだなァ」
旅人が自身に向けて放った言葉にカナブン丸が返事をした。
見るも無惨な姿となったチョコレート色の湖には夕陽が差し始めている。
『お前ら風邪ひかないうちに帰れよ!』
上空を戦闘機のような音と勢いで金剛丸が飛び去っていく。
旅人はその後に残った飛行機雲をただぼんやりと眺めるのだった。




