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第47話 枯れた着流し。

「上等だァァッ!」


 弾けるように飛び出したカナブン丸がギュルギュルと高速で回転しながらカゲチカ目がけて突っ込んでいく。

 その姿はさながら緑色に輝く弾丸のようだ。


 カナブン丸の通った後には遅れて出来た竜巻が周囲の芝を巻き込みながら筒状の軌道を描いている。


緑色彗星・栄光の螺旋(エメマン・ネルドリップ)ッ!」


『ぐぬぅ……』


 カナブン丸の一撃を胸元に受けたカゲチカから呻き声が漏れた。


 助走距離が短いためか、或いは下から突き上げる形になったためか、クマさんを倒した時ほどの威力はなかった。

 それでも巨大なカゲチカを一歩退かせるとその震動で大地が揺れる。


『おのれ、虫ケラめがーッ!』


 カゲチカは怒りの咆哮と共に反撃へと移る。

 頭部から何本も突き出た鋭い角を振り回し周囲の木々を薙ぎ倒しながらカナブン丸を追い回す。


「当たるかってんだよォォ!」


 カゲチカが足を踏み鳴らす度にその震動が旅人の元まで届いていた。


「すごいな……」

 

 全長20メートルはあろうかという化け物相手に柴犬サイズのカナブン丸が真っ向から挑む姿はなかなかに勇壮なものだった。


 旅人同様呆気に取られていた数頭の鹿たちが形勢を不利と見たのかカゲチカの元へと駆け寄っていく。


「今のうちなのです旅人さん!」


 旅人の隣からミノスケがパスを待つバスケットボール選手のようにくいくいと手を差し出してくる。

 旅人は自身の置かれた状況を思い出すとすぐさま胸元で震えているユッケを託す事にした。

 

「頼んだ!」


 ミノスケは頭の上にユッケ乗せると片手でぐっと小さなガッツポーズを作ってみせる。


「お任せなのです旅人さん! 旅人さんは本能の赴くままに突き進むのですよ!」


 ミノスケはそう言うと斜面の上の平野を目指して一目散に駆けていった。


 旅人も横目にそれを見送るとミノスケに言われた通り、本能の赴くままにそそくさと逃げ出す事にした。


 足元を揺らす震動は未だカナブン丸の激闘を伝えてくるが、巨大イガ栗に跳ね飛ばされてもピンピンしているカナブン丸と違い旅人は生身の人間である。


 旅人は後ろめたさを感じながらもミノスケとは別の方向目指して走り出した。 

 力を失いつつある葉っぱの着流しも状況をを察したかのように淡く輝き力を与えてくれている。


 飛ぶように斜面を駆け登る旅人がこの調子なら上手く逃げ切れそうだと、そう考えた時の事だった。


「――カゲノブ殿は見事一騎打ちにて旅人を打ち倒してみせよ。我らは先に逃げた神格とユッケを追うぞ!」


「心得ました! カゲツネ様もご武運を!」


「なっ――!」


 すぐ背後から聞こえてきた会話とその不穏な内容に振り返ろうとする旅人の視界の端を何かが掠めた。


 一陣の風のように走り出たカゲノブが、旅人の正面へと回り込み立ちはだかったのである。


「我が名はカゲノブ! 誇り高きカゲの一党が次期党首なり。音に聞こえた旅人よ、いざ尋常に勝負!」


 カゲノブは高らかに名乗りを上げると刺又の槍のように鋭く尖った角を旅人に向けた。

 そして鹿特有の頭を低く下げた戦闘体勢を整えると前足で土を蹴る。


 しかし、今の旅人にはカゲノブの事など気にしている暇はない。

 見れば風のような速さで遠ざかる鹿たちの後ろ姿が見えた。

 その目指す方向の更に先には頭にユッケを乗せたミノスケの姿がある。


「――ちょっと待て! おいッ!」


 戦意を持たないミノスケと、そして自分たちで追い出したユッケを今更追う必要などないはずだ。

 ふつふつと沸き立つ感情は不安か、或いは怒りなのか、旅人自身にも分からなかった。 


「問答無用! いざ、参る!」


「ふざけるなっ!」


 迫り来るカゲノブ目掛けて旅人もがむしゃらに飛びかかった。

 旅人はその頭を思いきり踏みつけてやるつもりだったのだが、俊足で迫るカゲノブの鼻先に膝小僧をぶつける結果となった。


「痛ぅッ!」


 カゲノブが苦痛に顔を歪める。


 旅人も膝に鈍い痛みを感じたが、宙で体を捻るとその屈強な首筋へとしがみ付く。

 そして、遮二無二背中によじ登り今度はありったけの力を込めてその両耳を掴んだ。


「ぐぉぉぉーッ!」


 カゲノブは悲鳴を上げて大きく仰け反るが、旅人は死んでも離すものかと指先に全身の力を込める。


 その強い意志に呼応するように葉っぱの着流しからは眩いばかりの光の粒子が溢れ出す。


「な、なんだその光は……」


 旅人はカゲノブの質問など知った事かとその両耳を捻りあげると無理矢理ミノスケたちの方へと向けさせた。


 そしてわき腹を力いっぱい蹴った。


「走れっ!」


「ぐうっ! 誰が人間なんぞに……」


 旅人は今度はカゲノブの両耳を引き寄せるとその後頭部に自身の額を思いきり打ち付け、叫んだ。


『――いいから、走れよっ!』


「ヒッ! ヒィィッ!」


 カゲノブの頑強な後頭部よりも旅人の額の方が痛みは大きかったのだが、旅人の気迫に怯えたカゲノブはビクリとその身を震わせると矢のような勢いで走り出した。


 瞬間、旅人の視界がぐにゃりと歪んだ。


 それは普段の旅人であれば一瞬で振り落とされてしまいそうな速度だったが、歯を食いしばり睨むように前方を見据える旅人の視界は次第にミノスケを追う鹿たちの姿を映し始める。

 葉っぱの着流しから全身に流れ込む力がそれを可能にしていた。


 しかし、残された最後の力を旅人に流し込むよもぎ色した葉っぱの着流しは、裾の辺りから枯葉のような茶色へと変色し始めている。


「今まで、本当にありがとう……」


 今日まで自分を支え続けてくれた着流しとの別れが近い事を理解した旅人はカイコたちと、そして着流し自身に心からの感謝の告げた。

 

 ――楽しかったよ旅人くん。ぼくたち最後まで頑張るからね。


「ッ!?」


 旅人はいよいよ着流しまで喋りだしたかと一瞬取り乱しそうになるが、すぐに頭を切り替えると再び前方を見据えた。

 心の内側に確かに響いたその声は最後まで付き合ってくれると言っていた。

 ならば今為すべき事をするだけである。


 旅人を乗せたカゲノブは前方を走る鹿たちにぐんぐんと迫っていった。


 僅かに余力を残した走りを見るに、どうやら前方の鹿たちは斜面を越えた先の平野で勝負を仕掛けるつもりのようだ。

 森の中を逃げ回るならいざ知らず、身を隠す場所のない平野での機動力は圧倒的に鹿たちに軍配が上がるだろう。


 しかし、そうはさせじと旅人はカゲノブに命じた。


「このまま突っ込め!」


「い、嫌だッ!」


 旅人はカナブン丸のように他者の事情に首を突っ込むほど野暮ではなかったが、それでもこの排他的で傲慢な鹿たちの事を好きか否かと問われれば、少なくとも好きとは答えないだろう。 

 それにこうなってしまってはもはや遠慮する余地などない。

 

 だから旅人は再びカゲノブに命じる。


 今度は強い意志を込めて。


『死ぬ気で突っ込め!』


「ヒィィッ!」


 旅人が無意識に使った剛の声は前方の鹿たちの一部にも届いたようで慌しく首を廻らす者がいた。

 そこに怯えきったカゲノブが勢いよく突っ込んでいくと、互いにぶつかり合いながら三頭ほどを巻き添えに斜面を転げ落ちていった。


 まだ何頭か残っていたが、彼らもまた突然の事態に足を止めていた。


 激突の瞬間、カゲノブの背を蹴って飛び上がった旅人は鹿たちの前方へと着地していた。

 視線の先にミノスケの姿がある。


 ミノスケも旅人を見ていた。

 頭の上で風に揺れるたんぽぽの綿毛のようなユッケも一緒である。


 ほっと胸を撫で下ろす旅人だが、同時に早く逃げろよとも思った。


 しかしミノスケは気にした様子もなく頭の上からユッケを下ろすと胸元でこねくり回している。


「……?」


「さあ、どうぞなのです旅人さん! 目にもの見せてあげるのですよ!」


 ミノスケは両肘でユッケの耳を挟むように抱えると手のひらで自身の両耳を押さえた。


「よしっ!」


 旅人は珍しく察しが良いなと苦笑する。

 ミノスケの顎の下辺りでぷらんぷらんしているユッケの雑な扱いと、その上にある満面のどや顔に僅かな苛立ち覚えたが、その苛立ちごと未だ事態を把握しきれずにいる背後の鹿たちにぶつける事にした。


「――必殺、旅人だまし!」


 旅人は鹿たち目がけて跳躍するとその頭上で激しく両手を打ち合わせる。

 葉っぱの着流しは既に胸元辺りまで茶色く枯れてしまっていたが草食動物たちは耳が良い。


 旅人が全身の痺れと激しい耳鳴りを感じた時には既に周囲の鹿たちが白目を剥いて斜面を転げ落ちていた。


 旅人も全身の力が抜け落ちるのを感じると後を追うように斜面をゴロゴロと転がっていった。

 目まぐるしく回転する世界の中ミノスケの姿を探せば、斜面を登りきった辺りで元気に手を振る姿が見える。

 旅人は今ではすっかり枯葉となってしまった着流しに感謝とそして別れを告げた。


 そのまま斜面を転げ落ちていき、再び湖を囲む木々の手前の辺りまで旅人が戻ってきた時の事だ。 


 旅人のすぐ横の大地が弾けた。

 

 見れば土煙の立ち込める陥没した大地から、よろよろと這い出てくるカナブン丸の姿があった。


「ち、ちィっと油断しちまったぜェェ……」


 旅人は半ば呆れ気味にため息を吐いた。


「流石にこれで終わりとはいかないよなあ……」

 

 湖を望む美しい景観はすっかり荒れ果ててしまっていた。

 薙ぎ押された木々と一緒に旅人の倒した鹿たちが転がっている。

 そして、その向こうには未だ無傷の数頭の鹿たちと、そして何より怒りに震えるカゲチカの巨体があった。


 既に戦う術を失ってしまった旅人だが、枯葉となった着流しの裾を払うと再び立ち上がるのだった。





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