第46話 子鹿のユッケと湖の怪物たち。
カナブン丸の話では子鹿と出会った紅葉の巨木の近くにもこの時期鹿たちの集まる場所があるらしい。
落ち葉の降り積もる歩きづらい森の中を進んで行くと、やがて見晴らしの良い平野に出た。
背の高い木々は少なくなり遠くに連なる秋の装いを纏ったカラフルな山々も良く見える。
「この辺は歩きやすいな……」
旅人は足を止めるとすぐ後ろを着いてきている子鹿の落ち葉を取ってやる事にした。
「……?」
道中どこか楽しげに着いてきていた子鹿だが今はまたおどおどと落ち着かない様子だ。
「お仲間さんに会えるので緊張しているのですよ」
旅人はやれやれと首を横に振ると子鹿の落ち葉を残らず取り払ってやる。
だいたいミノスケの予想は外れてばかりだ。
「おおーいィィ! のんびりしてると日が暮れちまうぞォォォ!」
「ああ、すぐ行くよ!」
旅人は考えても仕方ないかと立ち上がると一先ず先を急ぐ事にした。
一見どこまでも続くように見えた平野の一角には巨大なアリ地獄のように丸くくり貫かれた窪地が広がっていた。
薄茶色の芝に覆われたなだらかな斜面を下っていくと中心部には湖が広がり、周囲を取り囲むようにカラフルな木々が繁っている。
静かな水面に色とりどりの葉を浮かべた湖が虹色に輝いているようにも見える。
旅人たちが湖の取り囲む木々の手前まで差し掛かった時の事である。
――ヒヒーン! ブルルッ!
突如、馬の嘶きのような鳴き声が聞こえると木々の隙間から何頭もの四足歩行の生き物たちが続々と姿を表した。
頭の先まで2、3メートルはあるであろうその生き物たちは、競走馬や農耕馬を更に大きくしたような筋肉質な姿をしている。
その顔立ちは面長ではあるが馬のものではない。
中には枝分かれしながら鋭く伸びた角を生やした者までいる。
「おおー、鹿さんだらけなのです」
「やっぱり、鹿なんだ……」
つぶらな瞳と横にピンと張ったひし形の耳は確かに鹿のそれのようだ。
しかしその屈強な四肢は馬のそれより更に太く逞しい。
旅人の後ろをトコトコ着いてくる可愛らしい子鹿と比べるとまるで異形のモンスターのようである。
全部で二十頭近くはいるであろうその鹿たちは木々を背にして横一列に整列すると「ドスン!」「ドスン!」と一斉に蹄を打ち鳴らし始めた。
「……」
大地を揺らすその音は到底鹿のものとは思えなかった。
そして歓迎されている雰囲気にも到底見えなかった。
旅人が僅かに後ずさると子鹿の柔らかな毛が足元に触れた。
子鹿はまたたんぽぽの綿毛のように毛を膨らませて怯えているようだ。
『小さき者よ、何用か! ここは鹿たちの集う地ぞ!』
最後に「ドスッ!」と一際大きな地響きを立てて蹄の音が静まると、旅人の頭の中に威圧的な声が響いた。
旅人は背中に嫌な汗が流れ落ちるのを感じていた。
ミノスケたちの使う言葉と異なるその声は、剛の者たちだけが用いる『剛の声』と呼ばれるものだったからだ。
旅人は以前『剛の者』についてカナブン丸に詳しく聞いた事がある。
――ここ『永久の森』では他者をより良き道へと導いたり、大きな困難に立ち向かったりと様々な形で徳を積んだ者たちが種としてより高位な存在である『神格』へと至り、擬人化する事ができる。
それは本来力なき存在である虫や草食動物たちにとって大変名誉な事なのだが、割といい加減な性格の者が多いこの地ではその事に興味がない者たちも数多く存在する。
そういった者たちは大抵が体は大きく育っても中身は普通の虫や草食動物たちと大差なく、それぞれ気ままに暮らしていくのだが、そんな中にあって己が種族に対する強い誇りと、何者にも従わぬ強靭な精神を宿す者たちがいた。
それが『剛の者』である。
彼らは充分な徳を積んだ後も『神格』に至る事なく、己と己が種族が最強たらんとする強い信念の元、強者を求めて戦い続ける。
その戦闘力は絶大で『神格』をも遥かに凌駕する者も少なくない。
また、彼らは他種族と言葉を交わす必要がないため『永久の森』で日常的に使われる相互通信の言語『言霊』を使わない。
代わりに用いるのが自身の意思を直接相手の精神に送り込む『剛の声』である。
その声は同種族か或いは自身と拮抗しうる資質を持つ者にしか聞き取る事はできないが、強靭な意思を相手に直接送り込むため戦うに値しない弱者を容易に遠ざける事ができる。
更に『剛の者』の中でも特に強大な力を有した者はその声だけで相手を打ち倒し、支配する事すらできるという――
それは端的に言ってしまえば旅人にとってこの森で最も絡みたくない連中である。
旅人は萎縮する体で目線だけを動かすと声の主を探した。
まさか目の前の鹿たち全てが剛の者という訳ではないはずだ。
「……とても大きな鹿さんなのです」
どうやらミノスケには剛の声を聞き取る事はできないようだ。
旅人は視界の隅でぽかんと口を開けているミノスケの視線の先を目で追った。
「……」
もしここが動物園だったなら、旅人はミノスケにあれは鹿ではなくキリンだよと教えてやった事だろう。
しかし残念な事にここは永久の森で、木々の上からにょきりと覗いている巨大な顔はどうやら鹿のようである。
キリンというよりブロントサウルスの方が近いかも知れないなと旅人はぼんやり考える。
分厚い胸板から伸びる首周りはトラックのゴムタイヤを幾つも積み重ねたように強靭だった。
20、30メートル上空に見える頭の先には天を貫くかのように鋭く尖った角がなぜか無数に生えている。
『我が名はカゲチカ、うぬは何者ぞ!』
「た、旅人……」
怪獣映画からそのまま出てきたようなカゲチカの姿に、旅人は戦慄を覚えながらもなんとか声を絞り出す。
すると、整列していた鹿たちがにわかにざわめき始めた。
「おい、旅人だってよ……」
「確かそんな名の人間が住み着いたと虫たちが噂していたな……」
「とんでもなく危ない奴らしいぞ……」
こそこそと話し始める鹿たちの声に、旅人は全身の毛穴から冷汗が噴き出すのを感じた。
見ればカゲチカの鹿特有のつぶらな瞳が狂気を帯びたように爛々と輝いている。
その口元がぬーっと顎の付け根の辺りまで大きく裂けると血のように真っ赤な歯肉が見えた。
『ほう……これは面白い。では改めて問おう。旅人よ、このカゲチカに何用か!』
カゲチカが一歩身を乗り出すと「ズシン!」と激しく大地が揺れる。
「ま、ちょ、待った! 迷子の子鹿を連れて来たんだ!」
旅人にしては珍しく早口でそう告げると慌ただしく半歩身を横にずらした。
旅人の足元に隠れていた子鹿は身を隠すものがなくなってしまい、たんぽぽの綿毛のように毛を膨らませたままぺたりとその場に座り込んでしまう。
「……」
旅人はその様子を少し哀れにも感じたが、迷子であれば親元に届けるべきだと考える。
『ユッケか……』
その声からは先ほどまでの威圧感は薄れていた。
やはりこの群れの子鹿だったようだ。名前はユッケと言うらしい。
『……』
しかし、カゲチカはそれきり黙ってしまった。
旅人がなんとも居心地の悪い微妙な空気の中そわそわしていると、整列していた鹿の一頭が前に歩み出た。
リーダー格の鹿だろうか。
2、3メートル級の鹿の中では特に立派な恐ろしい角を生やしている。
「カゲチカ様。よろしいでしょうか?」
『うむ……』
カゲチカがすっと目を閉じると、歩み出た鹿は一礼してから旅人の方へと向き直る。
「旅人よ。我が名はカゲノブ。ユッケは私の双子の妹だ」
「へ、へぇ……」
双子なのかと旅人は半ば呆れた目でカゲノブを見た。
カゲノブの話によると、この群れは党首カゲチカと共に日夜最強の草食動物を目指して永久の森各地を周り過酷な鍛錬の日々を送っているらしい。
永久の森では種の存族本能が薄いため出生率は極めて低いのだがそれでも数十年か、或いは数百年に幾度かは子供が生まれてくる。
この群れでもそれは例外ではなく、この秋生まれたのがカゲノブとそしてユッケだった。
久しぶりの子孫の誕生に群れは大いに喜んだが、最強を目指すべく強い遺伝子を受け継いで生まれたカゲノブと違い、ユッケはあまりに小さかった。
カゲノブは生まれて間もなく序列第二位の鹿を打ち倒し、カゲチカに継ぐ地位を得たのだが、一方のユッケは群れの片隅にうずくまり風に揺れるたんぽぽの綿毛のようにいつも怯えるだけの日々を過ごしていたらしい。
頭もあまり良くないのか言葉を理解できないユッケに声をかける者は少なかった。
そして、最終的にユッケは群れの総意で追い出されてしまったそうだ。
「……」
特に感傷的な様子もなく、淡々と語るカゲノブの話を旅人は黙って聞いていた。
どんな場所にも決まりと言うものはある。
旅人にはユッケは極めて一般的な子鹿に見えるが、さすがにカゲノブと見比べると大人と子供どころではない優劣の差を感じる。
多少身勝手な話にも聞こえたが野生の世界は弱者にとって非情なものだ。
それはかつて旅人が暮らしていた高度に発展した人間社会でさえも似たようなものである。
旅人がふとユッケを見ればやはり話を理解できてはいないようである。
所在なさげに座り込み、おどおどと怯えきった様子で震えている。
生まれて以来ずっとこんな調子でいたのだろうか。
旅人はその胸中を思いやりながら、ユッケの膨らんだ毛並みを優しく撫でて綺麗に整えてやった。
永久の森には危険な捕食者はいない。
まだ小さいユッケだが群れを離れて自由に暮らした方が幸せなのかも知れない。
そう考えた旅人は一人納得すると、縋るような瞳で見上げてくるユッケをそっと抱き上げた。
事情がはっきりした以上こんな場所にはもう用がなかった。
しかし、世の中旅人のように多少の理不尽を黙って飲み込む者ばかりではない。
それはここ永久の森でも同様である。
旅人のすぐ横にこの話に納得いかない者が時限爆弾の如くふよふよと浮いていた。
「オイ、オイ、オイ、オイィッ! さっきから黙って聞いてりゃあよォォ、小せェのはお前らの器の方だろうがこンのウスノロどもがァァァッ!」
鹿たちが再び戦意を見せないうちにそそくさと立ち去ろうとしていた旅人は凍りついた。
「お、おい……」
やめろと呟く旅人の声はすぐにかき消される事になる。
「最強目指すってェのはなァァ! そういうンじゃァねェんだこの三下がァァッ! お前らなんかもはや鹿じゃあねェ! 馬鹿だ、馬鹿! このウスラ馬鹿どもがァァァッ!」
カナブン丸が六本足をわしゃわしゃさせて激昂する様を、旅人はどこか遠い世界の出来事のようにぼんやりと眺めていた。
『貴様ァッ! 我らカゲの一党を愚弄するかァーッ!』
カゲチカがカッと目を見開き、カゲノブらも呼応して狂ったような嘶きをあげる。
――次の瞬間、旅人の頭上を大きな影が横切った。
次いで、後方の斜面から爆発音が響いてきた。
見ればそこには土煙の中、根っこを空に向けて逆さに生えている大木があった。
怒ったカゲチカが蹴り上げた大木が旅人たちの頭上を飛んでいったのだ。
旅人はそのあまりに非現実的な光景を前に、あの木があのまま成長したら面白いなとぼんやり考えるのだった。
このエンカウントは危険なのです!




