第44話 迷子の子鹿。
舞い散る落ち葉が夕日に照らされその色合いを一層強める頃になっても、子鹿は所在なさげに旅人の足元に寄り添っていた。
「そろそろ帰る準備をするのです旅人さん。狩りとは引き際が肝心なのですよ」
「紅葉狩りな……」
ミノスケは風呂敷のような大きな葉っぱにせっせと落ち葉を詰めている。
寝ている子鹿を楽しげに眺めながらひたすら食べていたのだが、どうやらお土産分まで持ち帰るつもりのようである。
子鹿は顔を上げるとその様子をどこか不安そうに見つめていた。
「この子鹿はどうするんだ……?」
子鹿の様子が気になっていた旅人はミノスケに訊ねた。
旅人には迷子のようにも見えたが、永久の森の事はミノスケの方が詳しいからだ。
「暗くなったら帰るのです」
ミノスケが事もなげにそう言うと、旅人もこの森には外敵がいないため子鹿が一匹でいてもあまり心配する必要はないだろうと考えて帰る準備を始める事にした。
旅人が立ち上がると子鹿もビクリと身を震わせて立ち上がり旅人の足元の匂いを嗅いでいた。
どこか寂しげな子鹿との別れに旅人は名残惜しさを感じていたが、ミノスケを真似て周囲の落ち葉を拾い集めると小さく畳んで着流しの懐に仕舞い込んだ。
懐の落ち葉はじんわりと暖かい。
寝床に敷けば暖房代わりになるだろうと旅人は考えていた。
「元気でな……」
「お達者に暮らすのですよ」
旅人が子鹿の頭を優しくぽんぽんと叩くと隣でミノスケも別れを告げた。
子鹿はぴんと耳を立て、帰路に着く旅人たちをじっと見つめていた。
「精進あるのみなのです」
「くっ……」
ぴょんぴょんと軽やかに先を行くミノスケを、旅人はわさわさと落ち葉の山を踏み散らしながら必死に追いかけていた。
ミノスケは自身の身の丈よりも大きな風呂敷包みを背負っいたが来る時と変わらない軽快な動きを見せている。
一方の旅人も相変わらず落ち葉の上は苦手なようで、底なし沼に足を取られた人のようにおたおたと走っていた。
紅葉と子鹿にすっかり癒されていた旅人だが次第に憂鬱な気持ちになってくる。
少し昼寝できたのは良かったが、帰り着いた先では今夜もまた眠れない夜を過ごす事になるのだろう。
そんな事を考えていた旅人が未練がましく元来た道を振り返ると、少し後ろをトコトコ着いて来る子鹿の姿が目に入った。
「……」
子鹿は旅人と目が合うと、誤魔化すように頭を下げてすんすんと地面の匂いを嗅ぎ始めた。
まるで親に悪さを見つかった子供のようだと旅人はぼんやり考える。
「ミノスケ、あの子鹿着いてきてるけど……」
「お見送りなのです。ミノスケには分かるのですよ」
ミノスケはぴょんぴょん飛び跳ねながら一人うんうんと宙で頷いている。
旅人にはとてもそんな風には見えなかったがミノスケがあまりに自信満々だったため、まあそうなんだろうと考え直して先を急ぐ事にした。
秋の夕日は沈むのが早い。
旅人たちが栗の枝が上空を覆う領域まで帰り着いた時にはすっかり辺りは暗くなっていた。
ヒカリゴケの薄明かりが照らす大地には禍々しい巨大イガ栗の残骸が幾つも転がっているのが見える。
旅人は世界の終焉の景色もきっとこんな感じなのだろうとぼんやり考えていた。
「帰りもミノスケにお任せなのです!」
ミノスケは力強く宣言すると、辟易とした様子でイガ栗を見ている旅人の手首を掴んだ。
「それはいいけど……」
振り返る旅人の視線の先には、結局ここまで着いて来てしまった子鹿が身を縮こめてぷるぷる震えているのが見える。
「――今なのです!」
ミノスケが駆け出すと旅人も引きずられるように後に続いた。
旅人が去り際にちらりと子鹿を振り返ると、子鹿も怯えた瞳で旅人を見つめていた。どうやら足がすくんで動けないようである。
後ろ髪引かれる思いはあったが、旅人は無数のトゲが突き出すクレーターの大地へと駆け出していく。
のんびりしていられる状況ではない。
頭上から降るイガ栗にいつ串刺しされてもおかしくない状況だ。
――しかし、旅人は思い留まると、先を行くミノスケの手を振り払った。
その視線の先にはびくびくと震えながらも懸命に着いて来ようとしている子鹿の姿があった。
「お家に無事に辿り着くまでが紅葉狩りなのですよ」
洞の寝床に倒れ込むよう転がった旅人は、ミノスケにしては珍しく的を射た言葉だなあとぼんやり考えていた。
「それに小さな子を勝手に連れ帰ってはいけないのです」
旅人のすぐ側には寝床にぺたんと座り込み、怯えきった様子で震えている子鹿の姿があった。
よほど恐かったのかふわふわした全身の毛が爆発したように逆立っている。
旅人はその姿を見てたんぽぽの綿毛みたいで可愛らしいなと不謹慎にも思ってしまう。
結局あの場に子鹿を残していく事ができなかった旅人は、ミノスケの助けもあってなんとか洞まで無事に子鹿を連れ帰る事ができたのである。
「あのまま置いてはいけないだろ……」
旅人は身を起こすと逆立った子鹿の毛並みを整えるように撫でた。
「お家の方が心配するのです」
「迷子なんじゃないか……?」
ミノスケは旅人の言葉にきょとんとした表情を浮かべると顎に手を当て何やら考え始めた。
どうやら出会ってからの子鹿の動向を思い起こしているようだ。
「ムっ! ミノスケも薄々この子鹿さんが迷子さんではないかと思っていたのです!」
「……」
子鹿は旅人に毛並みを整えられて少し落ち着いたのか、旅人の足元におずおずと身を寄せると小さな寝息をたて始めた。
「明日にでもこの子の仲間に探しに行ってやろう」
「おおー、さすがは旅人さんです! とてもお優しいのです! それではミノスケもさっそくお泊りの準備に取り掛かるのですよ!」
ミノスケは落ち葉を包んだ風呂敷を隅に置くとせっせと寝床の藁を慣らし始めた。
旅人にはミノスケまで泊まっていく必要性が全く理解できなかったが、まあいいかと寝転ぶと子鹿の頭をそっと撫でる。
栗の降る洞での夜は憂鬱だが、旅人にとってその夜はそう嫌なものでもなかったのである。




