第38話 戦いの果てに見たもの。
宜しくお願い致します。
昼下がりを過ぎた優しげな日差しが菜の花畑に降り注いでいる。
そののどかな景色を望む川辺ではうって代わって張り詰めた空気が流れていた。
人の世に暮らすものが見ればとても奇妙な光景に見えた事だろう。
その場には三つの存在が対峙していた。
一人はよもぎ色の着流しを身に着けた旅人と呼ばれる青年だ。
その着流しに見える葉っぱの葉脈のような金色の紋様からは淡く輝く光の粒子が脈打つように溢れ出ている。
服装以外は取り立てて目立ったところのないどこにでもいそうな朴訥とした青年だった。
その視線の先、地面から数十センチ浮いた位置にいるのは異形の存在クマさんである。
昆虫をモチーフにした特撮ヒーローのような漆黒の装甲を纏っているが無骨な外見の中にあっても胸元や腰回りのラインから女性である事が推察できる。
背にある黒い羽は猛るように羽音を響かせ、真紅の瞳は旅人を睨みつけていた。
もう一体は柴犬ほどの大きさがある甲虫、カナブン丸だ。
宙をふよふよと舞いながら何故か試合前のムエタイ選手のような奇妙な躍りを踊っている。
「行くぜェ! 緑色彗星大突撃!」
最初に動いたのはカナブン丸だった。
ひらりととんぼ返りをすると、クマさん目がけて特攻していく。
「――ッ!」
それに呼応するように旅人も飛び出した。
旅人が力強く蹴った大地が少し遅れて土埃を巻き上げる。
クマさんは動じた様子もなく左手のひらを広げてカナブン丸に向けると右の拳を弓なり引き絞った。
拳の周囲の空気が熱を帯びたように橙色に輝き陽炎が揺らめく。
「蜂熊炎の鉄拳!」
クマさんはカナブン丸の突撃を避ける事なくその拳で迎撃した。
カナブン丸の頭とクマさんの拳が激突した瞬間、旅人は「ミシリ」と嫌な音が響くのを聞いた。
見ればクマさんの拳の装甲にひびが入るのが見える。
しかし次の瞬間、巻き起こった爆風の中をカナブン丸が弾き飛ばされていくのを旅人は目にする。
硬度ではカナブン丸が勝っていたが技の威力ではクマさんに軍配が上がったようだ。
クマさんの拳が巻き起こした熱を帯びた爆風の中、旅人は臆する事なくその頭上へと飛んだ。
「――必殺、旅人だまし!」
虚を突かれたクマさんが咄嗟に頭部を腕で覆って衝撃に備えると、旅人がその眼前で「ペチン」と手を叩いた。
「へ……?」
クマさんの口から間の抜けた声が漏れる。
旅人はそのままクマさんの頭上で身を翻し高速で震動する背中の羽へと手を伸ばした。
「必殺、旅人返し――」
凶悪な音を立てながら高速で震動するその分厚い羽を素手で掴むなど無謀な行為であったが今の旅人にはそれを為す自信があった。
『――汗を吸って着用者の体に馴染んでいくと身体能力を向上させる補助効果までございます』
旅人は葉っぱの着流しを譲り受けた際にカイコが語っていた言葉を思い出していた。
当時の旅人は眉唾程度にしか考えていなかったが今ならはっきりと分かる。
着流しの全身から伸びる金色の葉脈が、旅人の戦う意思に呼応するかのように光り輝き力を注ぎ込んでくれていたからだ。
「な、何を――」
旅人はクマさんの羽の根元を力いっぱい掴むと全体重を背中に預ける。
対甲虫専用の技だったがそれでも時間稼ぎにはなるはずだと旅人は考えていた。
硬化したクマさんの体重を浴びながら背中から地面に落ちた旅人は苦悶の表情を浮かべるとカナブン丸が弾き飛ばされていった方角を仰ぎ見た。
「チッ! 遠いぜ!」
クマさんの拳を受けたカナブン丸は菜の花畑を悠に越え森の中まで飛んで来るとそこで大きく旋回してやっと態勢を立て直す事ができた。
先ほどまでいたはずの戦場が今は遥か遠くに見える。
カナブン丸はそこでもつれあう旅人とクマさんを視認すると両の羽先に力を込めて再び全力で戦場を目指した。
カナブン丸にとって旅人は不思議な存在だった。
空を飛ぶ羽も身を守る甲殻も持たない非力な旅人をカナブン丸はなぜか倒せなかった。
無論負けたなどとは微塵も思っていなかったが、戦いは力が全てと考えていたカナブン丸はその事が不思議でならなかった。
しかし不愉快な気分でもなかった。
多少無口で間抜けな所はあったが嫌な奴ではない。
それに自分も上手くやれば金剛丸にも勝てるのではないかとそんな気持ちにさせてくれる不思議な存在だった。
今も旅人は不恰好ながらも本気を出した神格を押さえ込んでいる。
しかしそう長くはもたないだろう。
カナブン丸にはもっと早く飛ぶ必要があった。
「すぐ行くからな旅人ォォォ!」
カナブン丸は渾身の力で羽を震わすがそれでも遅い。
ならばと六本の足で宙を泳ぐように動かしてみると今度はバランスを崩して失速した。
むやみに足を動かすとバランスを崩す事を今更悟ったカナブン丸は六つの足を畳んで体にぴたりと付ける。
空気抵抗が減り飛行速度が少しだけ上がった。
「もっとだ! もっと早くゥゥゥ!」
そのまま必死に体を捻ったりしてみるが、またバランスを崩してぐるんと一回転してしまった。
しかしバランスを崩した割りに速度は変わらなかった。
「これかッ!?」
カナブン丸は強くなるため常に努力を惜しまない漢だったが工夫と言う言葉はその日初めて知ったのである。
「いい加減に離れなさいッ!」
クマさんに振りほどかれ地面をごろごろと転がった旅人だが追撃を警戒してすぐに立ち上がる。
視線の先ではクマさんが二度と同じ手は食わぬとばかりに羽を畳んで旅人を待ち構えていた。
旅人がちらりとクマさんの後方に視線を向ければ何を遊んでいるのかカナブン丸がクルクルと回転しながら右へ行ったり左へ行ったりしながらのんびりこちらに向かってきている。
「……」
あれはあまり期待できそうにないと考えた旅人は次の手段を講じる事にする。
カナブン丸と戦った時にいくつかの技を閃いていた旅人だが今から試すのはその中でも下から数えて二番目に使いたくない技だった。
「そろそろ終わりにさせてもらいます!」
クマさんは旅人の奇妙な戦いぶりに不気味なものを感じていた。
それは人間の危険性を知るクマさんだからこそ感じる恐怖に近い感情だった。
それでもクマさんはその拳に己の信念の全てを込めて構える。
左手のひらを相手に向けて右の拳を弓なりに引く『蜂熊炎の鉄拳』の構えである。
旅人はその陽炎揺らめく拳を見て背筋に冷たいものが走るのを感じたが、視線を反らす事はなかった。
その強い意思に応えるように葉っぱの着流しを流れる金色の葉脈たちが眩いばかりに輝き始める。
――いくぞ!
クマさんでさえ反応が遅れるほどの速度で一気に距離を詰めた旅人は、着流しの腰帯を引き抜くと同時に鞭のように叩きつけた。
「なッ――!」
突きだした左手でその腰帯をあっさりと受け止めたクマさんだったが、右の拳を放とうとしたその瞬間――動きを止めた。
帯紐が外した旅人のはだけた着流しの奥に葉っぱのふんどしを見てしまったからだ。
成熟した乙女であるクマさんだったが長く女流社会に生きてきたため異性への免疫は皆無だったのである。
旅人も恥ずかしかったが今はそれを気にしている時ではない。
両手を上げてばんざいの姿勢を作ると瞬時にしゃがみ込んだ。
主を失った着流しがまるで意思でも持ったかのように輝きながらクマさんに向かって飛んでいく。
「――むぐっ!」
クマさんは必死に着流しを引き剥がそうとしたが、カイコたちが紡ぎ旅人と共に歩み続けた金色に輝く着流しはクマさんの力を持ってしても引き剥がす事はできなかった。
葉っぱのふんどし一枚になった旅人は全身の力が急激に抜けていくのを感じながらふらふらと後退る。
見れば菜の花畑の上からレーザービームのような光の帯がこちらに向かって飛んで来ている。
それは先ほどまでヘンな動きをしていたカナブン丸だった。
ギュルギュルと回転しながら恐ろしい速度で飛行するカナブン丸は、その光沢のある緑色の背中と腹側の茶色が混ざりあって気持ち悪い色の軌道を描いている。
カナブン丸の通った後には筒状の竜巻が残り、周囲の芝や花びらを巻き込み遥か遠くまで連なっていた。
高速で回転し続けたカナブン丸の意識と視界は既に虚ろなものだったが自身が目指すものだけは見失わなかった。
それは頑なに誓い続けた最強への道。
いずれこの新たな必殺技で金剛丸をも倒して見せると夢見心地で光の軌道を描き続けていた。
高速で周り続ける視界の先に光り輝くよもぎ色の着流しを見た時、カナブン丸の意識は覚醒した。
倒すべき宿敵の姿を思い出したのだ。
「食らえ旅人ォ! 緑色彗星・栄光の螺旋!」
旅人の目の前でレーザービームと化したカナブン丸がクマさんの後頭部を直撃して。
――旅人は眩い光に包まれた。
いつの間にか座り込んでいた旅人は遅れて届いた轟音と爆風の中で目を見開いた
旅人の眼前には土煙舞う荒野が広がっていた。
「旅人ォォ……まさか、あれを食らって無傷とは、な……今回は、オイラの完敗、みてェ、だ……」
「……」
傍らから聞こえてきた声に旅人が目を向けると力尽きたように仰向けに転がっているカナブン丸と目が合った。
旅人はこの緑色の危険な生き物をいっそ土に埋めてしまおうかと思ったが今は放っておく事にした。
それより先ほどから葉っぱのふんどし一枚の姿でいる事があまりにも心もとなかったからだ。
クマさんもすぐに見つかった。
荒野ににょっきりと二本の黒くしなやかな足が生えている。
着流しを回収したい旅人だったが膝上数十センチまで埋まっているクマさんをどうやって掘り出そうかと途方にくれる。
――その時だった。
クマさんの体が引き抜かれたサツマイモのようにボコッと地面から飛び出した。
クマさんはまだ敗れてはいなかったのだ。
「まだ、負ける訳には……」
クマさんは震える足取りで顔を覆っていた着流しを打ち捨てると驚愕に慄く旅人の方へ手を伸ばした。
「――ッ!」
次の瞬間、旅人は言葉を失った。
旅人の目の前でクマさんの全身を覆っていた硬質な漆黒の装甲がその役目を終えたかのように砕け散ったのだ。
「そんな……私の、鎧が……」
生まれたままの姿で呆然と佇むクマさんを旅人もまた呆然と見ていた。
濃い褐色の肌に戻ったクマさんのその体の中心部が恐ろしく白く滑らかな肌をしていたからだ。
まるで競泳水着の日焼け後のようなその美しさにさすがの旅人も言葉を失い見惚れてしまっていた。
しかし、事態はそれだけでは収まらなかった。
力を使い果たしたクマさんが「ぷしゅうー」と頭から煙を吹き出してみるみる縮んでいったのだ。
「ひぐっ……わたちの、わたちのよよいがぁーっ……」
褐色幼女になってしまったクマさんは既にクマさんではなかった。
――そう、第三形態である。
クマたんは地面にぺたりと座り込んでびーびーと泣きじゃくる。
「……」
せっかく着流しを取り戻せた旅人だったが、さすがに裸で泣きじゃくる幼女をそのままにもできず、拾い上げた着流しを頭から被せてやった。
見れば意識を取り戻したハッチンたちも集まってきている。
その元気そうな姿に安堵する旅人をよそにハッチンたちは何が楽しいのか「フンドシヨー」「ハレンチヨー」などと言ってはしゃいでいた。
見るべき場所はそこではないだろうと呆れながら旅人はぼんやり菜の花畑を眺めた。
幸い菜の花畑は被害を受けなかったようですっかり暮れるのが早くなってきた夕日に照らされ楽しげに揺れている。
荒野に転がるカナブン丸と着流しを頭から被ってびーびー泣き喚く幼女。
そして状況を気にした様子もなく旅人の周囲に群がりはしゃぐハッチンたち。
旅人はふんどし一枚ではさすがに寒い季節だなとぼんやり考えながら、今度こそ本当に途方に暮れて立ち尽くすのであった。
最後まで立っていた者こそが勝者なのです!




