第37話 たんぽぽ畑の人狩りクマさん。
読みづらかったので修正です。
ハッチンたちが嬉しそうに飛び回り「クマサンヨー」「オトモダチー」などと言ってはしゃいでいる。
菜の花畑に住むハッチンたちと川向かいのたんぽぽ畑に住むクマさんはお隣同士とても仲良く暮らしていたのだ。
可愛らしいハッチンたちに優しく微笑みかける色黒のなぜか宙に浮いているお姉さん。
菜の花畑を望む川辺の光景は見ようによっては少しシュールでどこか微笑ましいものだっが、旅人にそれを楽しむ余裕はなかった。
先ほどから旅人の中の草食チートが一刻も早くこの場を離れるよう警告してきていたからだ。
そんな旅人の青ざめた表情を見たクマさんは「どこか悪いのですか?」と旅人の目の前に降り立った。
クマさんの表情からは本当に旅人を心配している事が伺える。
クマさんは若干濃い褐色の肌をしていたが鍛えられたしなやかな四肢と相まって健康的な印象を与える美しい女性だった。
しかしクマさんを間近で見た旅人はより一層危機感をつのらせる。
「あ、そ、そう! 具合が悪いので、今日は、これで……」
「ニンゲンサンドコイクノー? ハッチン、オダンゴツクルノヨー」
そそくさとクマさんに背を向けた旅人を引き留めたのは最初に出会ったハッチンだった。
とても健気で可愛らしい申し出ではあったが今の旅人には迷惑極まりないものでもあった。
「人間……?」
背後から聞こえたクマさんの呟きが旅人には嫌にはっきりと聞こえる。
一目散に逃げ出すべきかと思案する旅人をよそに、優しいハッチンたちはクマさんに旅人の事を教えてあげている。
「タビビトサンヨー?」
「ニンゲンサンノー、タビビトサンヨー」
「オトモダチー」
「イッショクソクハツー」
「風林火山なのです!」
明らかにおかしな声が混ざったが旅人にはそれを気にする余裕などなかった。
突如としてクマさんから溢れ出た強烈な殺気を背中に感じたからだ。
「旅人……そう、貴方が噂の……まさか人間だったなんてね……」
旅人が恐る恐る振り返るとクマさんの姿は先ほどまでとはまるで別の生き物のように変貌していた。
整った顔立ちは昆虫のそれに近いものへと変わり巨大で無機質な二つの瞳が旅人を見据えている。
凹凸の少ないその形状はまるで黒いフルフェイスの仮面でも被っているかのようだ。
全身の肌も黒く硬化し隆起した筋肉は身を守る鎧のように変形している。
「な、なんかかっこいい……」
旅人はその姿に微かな憧憬を感じながらもじりじりと後ずさる。
漆黒の昆虫戦士へと変貌を遂げたクマさんは頭部の襟足から延びる黄金色の髪を無造作に自分の首へと巻きつけた。
周囲のハッチンたちも初めて見るクマさんの変貌に「クマサンドシター?」「オコナノヨー」と怯えていたが、クマさんの巨大な瞳には既に旅人の姿しか映ってはいなかった。
かつて人間界で暮らしていたクマさんは身勝手な人間たちが大嫌いだった。
人間たちは森を破壊しそこに住む小さな生命を踏みにじってきた。
ミツバチよりも更に攻撃性の低いクマバチとして生を受けた彼女にはそんな人間たちに抗う術は少なかったが、それでも人の恐怖心を駆り立てるその黒い巨体と羽の音で必死に人間たちを追い回し続けた。
そうして徳を積んだクマさんは永久の森で山神から『人狩りクマさん』の名を授かったのである。
「あの頃の私には貴方たち人間を倒す術はなかった……でも、今は違うっ!」
クマさんがそう言った次の瞬間には、既に旅人の視界からクマさんの姿は消えていた。
全身の毛が逆立つのを感じた旅人はクマさんの姿を探すよりも早く瞬時に左手へと飛び退く。
「――森と大地と蜂熊の憤怒!」
極限状態における凝縮された時間の中、背後から届いた声に旅人が振り向けば両足を揃えた姿勢でクマさんが大地に降り立つのが見えた。
クマさんの周囲の空間は赤く熱を帯びたように輝き始め、足元の大地はミシミシとひび割れていった――そして。
――爆風と共に大地が弾け飛んだ。
空中で踏ん張りの効かなかった旅人は爆発の余波をまともに受けて凄まじい勢いで吹き飛ばされていく。
視界の隅には巻き添えを食らって飛ばされていくハッチンたちの姿も見える。
川の方へと吹き飛ばされた旅人は水面に体をぶつけると、水切り石のように三度水面を飛び跳ねてからやっと沈んだ。
旅人は体の痛みを堪えて川底へと潜った。
水深はそう深くない。すぐに川底に辿り着いた旅人はぬめぬめした川底に両手両足を着くと全身の力を込める。
旅人には一つ考えが合った。
込めた力を解き放ち、今度はトビウオのように水上まで一気に飛び上がる。
水しぶきを撒き散らしながら水上へと飛び上がった旅人は熱風と土煙の舞う大地に佇むクマさんの姿を見た。
「そこねっ! 今度は逃がさないわ!」
クマさんも旅人を見つけると、次の瞬間には猛スピードで迫りくる。
「……」
旅人は水中に逃げるべきだったかと一瞬考えるが、すぐにその弱気な考えを打ち消した。
そして、両の手の平に持てる力の全てを込めて迫り来るクマさんを待ち構える。
――来いっ!
旅人は知っていた。
濡れた手で打つ拍手はより大きな音を生み出す事を。
「必殺、旅人だま――」
猛烈な勢いで迫ってきたクマさんが拳を弓なりに引いた時、その拳が飛んでくるよりも早く、旅人はクマさんの眼前で濡れた両手を激しく打ち合わせた。
――その瞬間。旅人の世界から全ての音が消えた。
目の前には意識を失いゆっくりと足元の川へと落下していくクマさんの姿があった。
旅人も雷に打たれたかと錯覚するほどの全身の痺れと、三半規管の不調に歪む視界の中で再び川に落ちていった。
旅人はなんとか意識を保ちながら川岸まで辿り着くと今度は森を目指して駆け出そうとした。
「ハッチン……」
しかし、旅人の足はすぐに止まる事になった。
戦いの巻き添えとなった哀れなハッチンたちが地面に転がっていたからだ。
ハッチンたちは皆一様にぐるぐると目を回し苦しそうにしている。
「……」
旅人はこの無害で可愛らしい生き物たちを巻き込んでしまった事に罪悪感を感じて何もできずにただその場に立ち尽くしていた。
「絶ッ対に許さないっっ!」
いつの間にか聴力が回復していた旅人が最初に耳にしたのはそんな言葉だった。
旅人が声のした方を振り返ると背中から大小二対の漆黒の羽を生やしたクマさんが上空から旅人を見下ろしていた。
怒りに満ちた巨大な瞳を炎のように赤く染めている。
それは昆虫戦士クマさんの第二形態であった。
「貴方たち人間はどうしてこんな酷い事ができるのっ!? どうして可愛いハッチンたちが巻き添えに……」
それを言うなら最初にハッチンたちを巻き添えにしたのはクマさんなのだが旅人には反論する事はできなかった。
自身が招いた事態である事に違いはなかったし、そもそも口下手だったからだ。
「覚悟なさい……」
クマさんは怒りを押し殺すようにそう言うとゆっくりと旅人の目の前まで降りてきた。
身も心も疲れ果てた旅人はふらふらと後ずさると地べたにだらしなく座り込んでしまう。
もはや立ち上がる気力すらない旅人は近付いてくるクマさんをただ呆然と見ている事しかできなかった。
――その時だった。
森の方から空気を震わすような、クマさんのそれとは質の異なる重厚な羽音が響いてきた。
甲虫だけが持つその巨体を支えるための重厚でそして何よりも頼もしき羽ばたきの轟音。
旅人にはその羽音がまだ遠くに感じられたが、それでも振り返らずにはいられなかった。
「待たせたなァァァ! 旅人ォォォ!」
旅人の頭のすぐ後ろをカナブン丸が飛んでいた。
「カ、カナブン丸……」
「ヘッ! ずいぶん派手にやられたみてーだなァ旅人ォ! 虫の知らせを感じて駆けつけてきて正解だったぜェ!」
完全に戦意を喪失している旅人の顔を見てカナブン丸はそう言った。
金剛丸に空の彼方まで吹き飛ばされたカナブン丸だったがこちらは相変わらずの威勢だった。
「カナブンさん、まさか昆虫である貴方が人間に味方する気ではないでしょうね!? そこに転がっているハッチンたちの哀れな姿を見なさい!」
「うるせェッ! 人間とかハッチンとかカブト虫とか知るかァ! オイラは生まれも育ちもカナブンだァァ!」
「……そう。貴方は昆虫の身でありながら樹液よりも悪の甘い汁を吸うと言うのね! いいわ、それなら全力で滅ぼすのみです!」
「神格ごときが調子に乗るんじゃねェ! オイラは真の最強を目指すカナブンの中のカナブン、緑色彗星のカナブン丸様だァァ! こっからカナブン伝説の幕開けだぜェェ!」
「……」
旅人はその全く噛み合っていない会話をぼんやりと眺めていた。
カナブン丸はそんな旅人を庇うように前に出ると背中越しに言った。
「旅人、ここはオイラに任せて先に行きな」
旅人を守るようにホバリングするカナブン丸が臆する事なく真正面からクマさんを睨みつけている。
圧倒的な強者のオーラをその身に纏うクマさんと、チンピラ程度のオーラすらない柴犬サイズのカナブン丸とではその力の差は歴然だった。
しかし、その小さな背中には微塵の恐れも感じられない。実に堂々たるものだった。
旅人はボロボロのはずの体に不思議と力が湧いてくるのを感じて立ち上がると、自分の頭ほどの位置でクマさんを煽るようにホバリングしていたカナブン丸の横に並んだ。
「いや、二人でやろう……」
旅人は思ったのだ。
最強を目指すバカなカナブンがいる世界も素敵ではないかと、そしてそのなかなか始まらないカナブン伝説とやらを見てみたいと、そう思ったのだ。
漢なら誰もが一度は口にしたい台詞ベスト5に入るであろう決め台詞を台無しにされたカナブン丸は白けた表情で旅人の横顔を見た。
「……ヘッ! まあ、それも悪くねぇかァ! オイラの足引っ張んじゃねーぞォ旅人ォォォ!」
「……」
再びクマさんを睨み付けて吠えるカナブン丸に旅人は何も答えなかったが、その瞳には先ほどまではなかったはずの強い意志が確かに漲っていたのである。
風林火山なのです!




