第34話 剛の者プチ。
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洞の寝床に座った旅人は腕を組んで入り口を見つめるとやはり扉が必要だろうかと考える。
そんな旅人の目の前で床をトントンと叩く者がいる。
先ほどから旅人の目の前では柴犬ほどの大きさの一匹の甲虫が関節をキチキチと鳴らしながら妙な踊りを踊っている。
何かのゼスチャーのようにも見えるが旅人にはさっぱり意味が分からなかった。
その甲虫は旅人がよそ見をしたり、あくびしたりするとこっちを見ろと言わんばかりに床をトントンと叩いてくる。
「……」
この時期わりとどこにでもいそうな甲虫だった。
テカテカした安っぽい金属のようなその甲殻は角度によっては緑色にもオレンジ色にも見える。
がっしりとした体格の割に小さすぎる面長の頭部には黒いつぶらな瞳と、その下にヒゲのような触覚がちょこんと生えている。
そう、カナブンである。
夜明けと共に旅人の寝床を訪れたそのカナブンは寝ている旅人をたたき起こすと、関節をキチキチと鳴らしながら奇妙な踊りを踊り始めた。
初めの内はその様子を興味深く眺めていた旅人だがいい加減飽きてしまっていた。
「うんうん、上手だと思うよ。だけどそろそろ帰ってくれないかな……?」
旅人はカナブンに気を使うのもどうかと思ったが永久の森に住む虫たちには知性があるため、何か伝えたい事があるのかも知れないと遠慮がちにそう切り出した。
「だーッ、もう! 踊ってんじゃねーってんだこのポンコツがァァ!」
「……カナブンが喋った」
喋る虫にもいい加減慣れてきた旅人だったが、それならなぜ最初から喋らないのだろうと首を捻る。
カナブンはそんな旅人の様子に両の前足を上に向けて肩をすくめるようなポーズをとると呆れたように言った。
「チッ! 剛の者の言葉も理解できねーのかよ。まあいいや、オイラはカナブン丸。お前が旅人だろ?」
「まあ、そうかな……」
剛の者と言う言葉に一瞬緊張が走る旅人だったが、目の前のカナブン丸からは金剛丸や斬九朗のような強烈な畏怖は感じなかった。むしろ肩をすくめたポーズにはそこはかとない小物感が漂っている。
「お前の噂は色々聞いてるぜェ……だけどよお。いくらなんでも、金剛丸の兄貴をぶっ倒して手下にしちまったとか、さすがにねぇだろ……」
「うっ……」
旅人は表情を曇らせる。セミの谷でミノスケやアブライたちが楽しげに話していた謎の旅人武勇伝を思い出してしまったからだ。
聞けばその武勇伝の数々は競い合うように唄うセミの吟遊詩人たちによって尾ひれはひれを付けて広まっているらしい。
脆弱な人間の身でありながら危険地域と恐れられる大栗の巨木に平然と住み着き二人の女神を侍らせてのほほんと暮らしているだとか。
カイコの森やセミの谷を支配下に治め、その第一の配下は永久の森最強の戦士と名高きかの金剛丸であるだとか。
最近では山神に匹敵する実力者であるシロナガス提督とも交流が深いらしいとの事だった。
旅人は本人のまかり知らぬところで随分と有名になっていたらしい。
「へ、へぇ……」
旅人は少なくとも二人の女神などという存在には皆目見当がつかないなと現実逃避がちに考えていた。
「ま、とにかくだ。お前みたいなヘナチョコ野郎が金剛丸の兄貴を手下呼ばわりなんざ、ただの噂にしても許せるもんじゃあねぇ。これからちっと兄貴んとこまで付き合ってもらうぞ」
聞けばカナブン丸は金剛丸に憧れて自身の名にも丸を付けているそうだ。親しげに兄貴などと呼んではいるが群れるのを嫌う金剛丸からは別段弟分として認められている訳ではないらしい。
そこが兄貴のシブイとこなんだと恍惚の表情で語るカナブン丸に旅人は金剛丸も大変だなとぼんやり考える。
荒野の一件で世話になった金剛丸がその後どうしているか少し気になっていた旅人はおとなしくカナブン丸と共に金剛丸のいる大クヌギの木を訪ねる事にした。
その道中の事である。
カナブン丸は何故か旅人の頭の周りをブンブンと煽るようにひっきりなしに飛び回っていた。
普通のカナブンでも耳元を飛ばれるとうるさいのに柴犬ほどの微妙な大きさがあるカナブン丸の羽音のやかましさたるや相当なものだった。
そして旅人がうっとしそうに視線を向けるとカナブン丸は「おおっと羽が滑ったァ!」などと言って顔面目がけて突っ込んできたりもする。
「なあ、旅人よォ……噂とは言えよ。金剛丸の兄貴を倒したっつーお前をオイラが倒しちまったら、永久の森最強って誰なんだろうなァ……」
「お前、金剛丸に憧れてたんじゃなかったのか……?」
「いや、そりゃそうだけどよ。漢だったら誰もが一度は目指すだろ? 最強ってヤツをさァ。なあ旅人。悪いがオイラの野望のために消えちゃあくれねぇか……」
カナブン丸はそう言うと旅人の周囲を間合いを計るようにゆっくりと旋回し始めた。
旅人はカナブン丸の黒いつぶらな瞳に微かな狂気を感じ取ると足を止めその動きをじっと目で追った。
争い事が嫌いな旅人だったが、さすがにこの小物感溢れるカナブンには少し懲らしめてやろうという気持ちがふつふつと沸いてきていた。
高速で振動しているカナブン丸の透明な内側の羽にのみを注視すると、動体視力の向上している旅人にはそれがまるでスローモーションのように見えてきた。
――見えるぞ!
旅人がそう思った。まさにその瞬間だった――勢いをつけたカナブン丸が凄まじい速度で旅人目がけて突進してきたのだ。
「悪いな旅人ォォォ! こっからオイラの、カナブン伝説の始まりだぜェェッ!」
それは今までの脅しとは違う本気の突撃だった。
怪しく輝く鈍色の残像を残しながら鋼鉄を思わせる緑色の塊が猛スピードで旅人へと迫ってくる。
――が、それでもと旅人は思う。金剛丸や斬九朗の理不尽なまでの速さと比べれば見る影もなかった。
旅人は落ち着いて地面に身を伏せると両手を着き全身に力を込めながら頭を下げた。
――直後、その頭上を強烈な風圧と羽音が通り過ぎていった。
「な、何ィッ!? オイラの緑色彗星大突撃を見切っただとォォッ!?」
風圧に髪をかき乱される中旅人はカナブン丸の驚愕の声を聞いた。ただ突っ込んできただけじゃないかと呆れつつもその声を目印に振り向く事なく四つの手足に力を込め――跳躍した。
ふわりと地面を離れる嫌な感覚に一瞬体がすくむ旅人だったが、今は高所を気にしている時ではない。
すぐに体を捻ってカナブン丸の位置を確認すると、目の前にその背中があった。
旅人は素早く、だが正確に両手を伸ばす。
そして、高速で振動している内側の透明な羽を避けながら、甲殻に固定されている外側の羽だけを全力で掴んだ。
「なにしやが、痛ッ――!」
カナブン丸は再び叫ぶが「ガキャン!」という鈍い音が響くとその顔を苦痛に歪めながら空中で羽を閉じて仰向けになった。
高速で前進していたカナブン丸は内側の羽を収納するための外羽を掴まれてしまった事により、強制的に両の羽を閉じさせられてしまい、そのまま反動でくるりとひっくり返ってしまったのである。
カナブン丸のその鉄塊のような体重を旅人の腕力で支える事はできなかったが、その時既に旅人は勝利を確信していた。
旅人は宙を舞いながらカナブン丸の背中にそっと手を回した。
そしてその体を優しく寝かしつけるように地面へと落下させる。
――ドシン!
カナブン丸が地面に落ちた衝撃音が周囲に響くと、旅人も大地をごろごろと転がった。
旅人はすぐに起き上がると着流しの埃を払いながらゆっくりと立ち上がりカナブン丸の元へと向かう。
「ケッ! この程度の攻撃じゃオイラはビクともしないぜェ!」
カナブン丸は仰向けに地面に転がってはいたがダメージはほとんどないようだった。
悪態を吐きながらもわきわきと六本の足を動かして今にも起き上がろうとしている。
「……必殺、旅人返し」
カナブン丸のヘンなテンションに影響を受けたのか思わず口をついて出てしまった自分の言葉に恥ずかしさがこみ上げてきた旅人は明後日の方向を見上げる。
その足元ではカナブン丸が今なお必死にもがいていた。
「あれっ!? オイッ! なんだこれ旅人! 起き上がれねぇぞ、オイッ!」
旅人は知っていたのだ。甲虫たちの致命的な弱点を。
一度仰向けにひっくり返されてしまえば自力で起き上がれる甲虫などそうはいない。
ましてやこの森に住む巨大甲虫たちの体重であれば尚更である。
恐らくこの技を受けて起き上がれる甲虫はコメツキ虫くらいのものだろうと旅人は考える。
「……ああ、そういう事かよ。くそ、意識が薄れてきやがった……父ちゃん、母ちゃん。オイラ……人間なんかに……くそう……くそう……」
自身の置かれている状況を理解し最後を悟ったカナブン丸は誰にともなく力なく呟いた。
その動きは次第に緩慢になっていき、ついにはぴくりとも動かなくなった。
「――ええっ!? ちょ、おいっ!」
旅人が慌ててカナブン丸をひっくり返すと「ゴチン!」と強烈な頭突きが飛んできた。
「ぐううぅ……」
目から星を出しながら額を摩る旅人の周りをカナブン丸はおちょくるようにまたぐるぐると旋回し始めた。
「へっへーん! バーカ、バーカ! オイラがそう簡単にやられるかってんだよォォ!」
「お前なあ……」
悪びれる様子もなく悪態を吐いてくるカナブン丸の小物っぷりにさすがの旅人も本気で腹が立ってきた。
「旅人ォォ……よくもやってくれたなァ。この礼はきっちりさせてもらうぜェェ!」
カナブン丸はそう言って旅人の視線に合わせる位置に留まると怒りに燃える黒いつぶらな瞳を向けてくる。
旅人は答える事なく静かに息を吐き出すと両腕をゆっくりと真横に伸ばした。そして両の手の平を天に向け全身の力を込めてふるふると震わせる。
「お、お前ェ……何しやがる気だ……」
旅人の異様な雰囲気に怯んだカナブン丸は僅かに後ずさった。
――見せてやる。
旅人はその一瞬の隙を見逃さなかった。すっと音もなく跳躍すると次の瞬間には既にカナブン丸より頭一つ高い位置から見下ろしていた。
そして驚愕に慄くカナブン丸のその目の前で、全力を込めた両の手のひらを激しく打ち合わせたのである。
――パッチィィィーーーッン!
森の一角に突如として轟き渡ったその乾いた破裂音に草木はさざめき、遠くで野鳥の群れが「ギャアギャア」と飛び立っていった。
いつの間にか地面に尻餅をついていた旅人はぷるぷると震える自身の両手を見た。
たいして腫れてはいなかったが電気が走ったようにビリビリと痺れている。
両耳の奥ではウォンウォンと先ほどの強烈な破裂音が未だに鼓膜を震わせていた。
旅人が使ったのは猫だましと呼ばれる技である。
本来相手の目の前で手を叩き一瞬怯ませるだけの姑息な技であるはずだったが、現在の旅人の身体能力で全力で行使したため使用者本人をも怯ませてしまうほど凶悪な威力を発揮したのである。
本人すらも怯ませるその技をまともに受けたカナブン丸の方はたまったものではなかった。
失神して地面にごろりと仰向けに転がるとそのままヒクヒクと痙攣していた。
「あっ! おい、カナブン丸!」
旅人はまさかと思い慌ててカナブン丸の元に駆け寄った。
「ハッ!? ここはっ!? あ、お前、旅人ォォォ! オイラに何をしやがったァァ!」
意識を取り戻したカナブン丸がさっそく悪態を吐いてくると旅人は内心でほっと胸を撫で下ろしながらも静かに返答した。
「……必殺、旅人だまし」
旅人は口に出すのは少し恥ずかしかったが、我ながらぴったりのネーミングだと思い一人うんうんと頷いた。
「お前、ネーミングセンスなさすぎだろ……」
「くっ……」
カナブン丸の心ない一言に旅人は今度こそ絶対に起き上がらせてやるものかと強く心にそう決めた。
「なあ、旅人よぉ……こうして見ると空って、でっけぇなぁ……オイラぁ、もう一度あの空を……あの、空を……」
前足を天に伸ばしたカナブン丸は最後にそう言い残すと、ぽとりと前足を垂らして動かなくなった。
「……」
旅人はまたかと呆れながらもカナブン丸の横に座り込み指先で突いた。
カナブン丸は何の反応も示す事なく、その黒い瞳からは少しづつ光が薄れ、そして消えていった。
「――ええっ!? おい、カナブン丸!」
慌ててカナブン丸を起き上がらせた旅人にまたも強烈な頭突きが飛んできた。
カナブン丸はその勢いのまま元気に旅人の周りを飛び回りながら言った。
「アッハッハッハー! バーカバーカ、カーバ! オイラは不死身のカナブン丸様だぜェ! このもやし野郎がァァ! 覚悟できてんだろうなァァァ!」
「ぐうううっ……」
この後、幾度に渡る同様の闘いを繰り広げた一人と一匹の漢たちはすっかり意気投合し、仲良く大クヌギの木を目指す事になるのであった。
宿命のライバルと書いてマブダチと読むのです!




