第33話 大河の主。
ちょっと遅れましたが前回の続きです。
川岸の岩に腰掛け素足を浸した旅人はぼんやりと大河の流れを眺めていた。
視界の端から端を水平線の彼方まで埋め尽くす膨大な水の流れは相変わらず海のようだったが、上流から下流へと緩やかに流れている様子から僅かに川だと認識できる。
浅瀬ではミノスケがばた足でズババババッ! と、おびただしい量の水煙をあげながら水面を微かに移動している。
傍らに立ち全身に水しぶきを浴びながらも熱心に指導しているカワセミの姿も見えた。
「そうそう、その調子だよ! 立派に泳げているじゃないか!」
「おおー、本当なのです! すいすいなのですよ!」
旅人はあれほどの水しぶきをあげながらなぜ微かにしか進まないのかとしばし首を捻るもまた大河を眺めた。
ミノスケのばた足の音を除けば今日の大河はいつになく静かだった。
普段ならすぐにやって来るはずのめだか号も今日は姿を見せていない。
「夏の終わりが近いのかな……」
肌を刺すような強い日差しは相変わらずだったが、流れる雲はまとまりなく薄ぼんやりと広がりながら漂っている。
吹き抜ける風も微かな冷気を纏い始めているように旅人は感じていた。
「よしっ」
旅人は気合いの声を一つあげると大河に飛び込み川の中腹を目指して泳ぎだした。
旅人はこの大河がどのくらい深いのか、川底がどうなっているのか以前から気になっていた。だから今日は思いきって潜ってみようと考えたのだ。
川底まで辿り着ける自信は流石になかったが、ここのところ著しく身体能力は向上し肺活量も上がってきている。
いつか見た滝のような凄まじい水しぶきを跳ね上げているミノスケのばた足の音が聞こえなくなる位まで遠ざかった旅人は大きく息を吸い込んだ。
そしてくるりと体を回転させると頭から水中へと潜っていく。
透明度の高い澄んだ水はかなり深い所まで見通すことができた。旅人はその高さに恐怖心を覚えるが、同時に静かで透明な青一色の世界に心惹かれるのも感じていた。
見れば時折漂っている藻や水草以外には小魚一匹見当たらない。
耳の奥に微かに感じるキーンという音以外には、自身が水をかく音と衣服から漏れ出る気泡が水面へと昇っていく音くらいしか聞こえてこなかった。
水中にはまるで時が止まってしまったかのような、本当に静かな世界が広がっていた。
旅人は微かな不安を抱きながらも重力とそして物音から解放された喜びのままに更に深くを目指す。
ゆっくりと両手両足で水をかくと自分でも驚くほどすんなりと旅人の体は川底へと向かい進んでいった。
光射す水面から遠ざかっていくと次第に辺りは暗くなりそして闇に包まれた。
「……!」
調子に乗って深く潜りすぎた事に気付いた旅人は慌てて水面を探すが、光の届かない闇の中ではどちらが上かも既に分からなくなってしまっていた。
呼吸はまだもちそうだったがこのままではまずいと旅人が焦りを感じた――その時だった。
足下の暗闇がぬらりと大きく揺らめいたような気がした。
見れば旅人の足下に無限に広がる暗闇の中から巨大な影が迫ってきている。
その影は静寂が支配する世界の中に不気味な雄たけびを響かせた。
『パオォォォーーン……』
間延びしたサイレンのような音だった。
旅人は最初それを潜水艦だと思った。
なんでそんなものが存在するのかなんて分からなかったが、自分の方に向かって真っ直ぐに浮上してきている事だけは理解できてしまった。
「あぶゅびゃっ……」
潜水艦は必死に逃げようともがく旅人にあっさり追突するとそのまま猛スピードで水面へと浮上していった。
轢かれたカエルのような哀れな姿で潜水艦にへばり付く旅人が圧しかかる水圧に成す術なくただぷるぷると震えている。
――と、重い水の幕を突き破る強烈な圧力と共に旅人の世界に轟音と、そして眩い光が戻ってきた。
「ぶはっ!」
圧力から解放された旅人は一瞬ふわりと宙を舞い甲板の上に転がり落ちる。そこに一拍遅れで豪雨のような水しぶきが降ってきた。
緊急事態の連続に既に精も根も尽き果てた旅人は水しぶきに流されるまま再び大河へと滑り落ちていった。
『ずいぶんとのんびりした子ねぇ……』
どこからか優しげな声が響いてくると旅人の体を巨大な白い何かがそっと受け止めてくれた。
旅人がこれが高性能潜水艦の技術力なのだろうかなどとぼんやり考えていると巨大な黒い瞳と目が合った。
濃紺色の見上げるほどの巨体の中からじっと旅人を見つめる穏やかな黒く澄んだ瞳。その目尻には幾重にも深い皺が重なり優しく微笑んでいるようにも見える。
なんと潜水艦には目があったのだ。否、違うこれは。
「クジラだ……」
旅人は呆然と呟いた。
見れば旅人を受け止めてくれていたのはそのクジラの胸ビレだった。
真っ白く分厚いゴムで出来た手のひらのような巨大な胸ビレだ。
クジラは僅かに目を細めると言った。
『人間の子、あまり深く潜っては危ないですよ……』
頭の中に直接囁きかけてくるその声を旅人は一瞬幻聴のようにも感じたが、既に海ほど深く反省していた旅人は素直に謝罪する。
「あ、はい……すいませんでした……」
クジラは巨大な瞳を三日月のように細めてみせる。どうやら微笑んでいるようだった。
『お友達が心配していますよ。一人で戻れますか……?』
旅人がぼんやりと川岸の方を振り返ると長針と短針のような二つの人影が手を振っていた。
長身のカワセミとちびすけのミノスケだ。
「ああ、はい……ありがとう、ございました……」
旅人はおずおずと礼を述べると大河にそろりと入り川岸を目指した。
平泳ぎで川岸に向かう旅人は時折クジラの方を振り返る。
山のように巨大なクジラはその目を細めて優しく見守ってくれていた。
「今日はやけに水辺が静かだと思っていたんだけれど、どうやら川の主が来ていたようだね」
旅人が川岸に辿り着くと岩場の上から手を差し伸べてカワセミはそう言った。
「川の主って……」
「シロナガス提督さんなのですよ。修羅の道行く旅人さんでもあの方に戦いを挑むべきではないのです」
旅人が岩場に上がるとミノスケがなぜか諭すような口調でまた意味の分からない事を言っていた。
旅人はそんな物騒な道を行く気など毛頭なかったが、否定するのも忘れてもう一度シロナガス提督を見つめた。
「……」
旅人が川岸まで辿り着くのを見届けたシロナガス提督は山のようなその巨体を旋回させると上流に向かいゆっくりと泳ぎだした。
「パォォォォーーン……」
背中から逆流する滝のような膨大な量の潮を吹き上げながらシロナガス提督は悠々と去っていく。
旅人は川の水を吹き出しても潮を吹くと言うのだろうかとどうでもいい事を考えながら、大河を泳ぐシロナガス提督を呆然と見送るのだった。
そして旅人さんは深い水辺も苦手になったのです!




