第31話 プリンセス・アブライ。
第23話から始まったこのエピソードも今回で終了です。ありがとうございました。
旅人は金色の芝の中からもぞもぞと起き上がると辺りを見渡した。
「……」
昨夜熱心に給仕をしてくれていたセミやカゲロウたちが、あちらこちらに転がって寝息を立てている。
太陽の届かないこの場所では時間を計る物はなかったが、充分な休養を取れたであろう体調から日を跨いで今は昼過ぎくらいだろうかと旅人は考える。
昨夜の事だ。旅人がウスバの長話から解放されるとアブライの帰郷とそして旅人たちの来訪を祝う宴が開かれた。
湖の畔には木製のテーブルが置かれ、そこに色とりどりの木の実や葉っぱが並べられた。
黄金色に発光するワインをとても気に入った旅人の周りには酒樽を抱えたセミやカゲロウがふよふよと飛び回り、旅人が一口飲むたびにわんこそばのように止めどなく酌を受ける事になった。
旅人は、遊び相手を見つけて喜ぶ子犬のように嬉しそうに群がっては杯を満たしてくる虫たちの歓待を無下にできず、あっと言う間に酔いつぶれたのだった。
不思議と二日酔いのむかつきはなかったし頭もキリッと冴えている。旅人が酒が良いからだろうかと首を捻っているとどこからともなく微かなうめき声が聞こえてきた。
声のした方を見れば金色の草原の一角が綺麗に刈り取られている。うめき声はそこから聞こえてくるようだ。
「食べ過ぎたのです……」
ミノスケが転がっていた。
「……少し寝てろ」
後でウスバに怒られそうだと思いながら旅人が辺りの芝を千切って布団代わりに掛けてやるとミノスケは「無念なのです……」と静かに目を閉じた。そして寝ながらも旅人が掛けてやった芝をむしゃむしゃと幸せそうに食べていた。
「……」
ミノスケの事は一先ず置いておく事にした旅人が近くに転がっている酒樽を拾い上げると中身がまだ残っていたようでチャプチャプと微かに音がする。
手頃な杯が見当たらなかった旅人は腰に吊るしたひょうたんの水を地面に捨て黄金色の液体を詰め替えて飲む事にした。
「本当に美味いなこれ……」
旅人は一人湖の淵に座るとまたぼんやりと大樹を眺めた。
静かな湖面に佇む大樹は淡く輝きをながら旅人を見下ろしている。
背後では金色に輝く芝が風もないのにさわさわと揺れているのが分かった。
そこはとても静かな完成されたビオトープだった。
昨日は特別だったのだと、旅人はウスバの長話の意味をやっと理解できた気がした。
「何を一人で黄昏とんねん」
旅人が声のした方を見上げると羽を広げたアブライが飛んでいた。
どこかで休んでいたのだろうかと考えている旅人の隣にアブライは軽やかに着地すると言った。
「昨日は賑やかやったねえ……」
そしてアブライも湖を眺めて静かに腰を下ろした。
普段はやはり騒ぎすぎるとウスバに叱られてしまうらしい。
セミの性質を色濃く受け継ぐアブライはどちらかと言えば賑やかな方が好きだったが、静かな暮らしを好むカゲロウの気持ちも分かるため、セミとカゲロウの調停役のような立場にあるそうだ。
この鍾乳洞にいるセミたちは大半がメスで騒音問題はあまり起きなかったが、崖下では時折夕暮れ時を過ぎても鳴き続ける不届きなセミもいるらしい。そんな時はアブライキックで粛清するのだとケラケラと楽しそうに語っていた。
「へぇ。セミはオスしか鳴かないのか……」
「気にすんのそこかい! ま、でもわては鳴けますけどなっ!? こう羽をふるふるーっと、そのうち聴かせたるわ……」
「そうだな……」
旅人はまた大樹を眺める。よく見ると枝にカワセミが洗濯物のようにぶら下がっていた。時折ヒックとしゃっくりして体が小さく跳ねると遅れて手足がぷらんぷらんと揺れていた。
「あの人はあのまま置いて帰るかな……」
「なんで? もう帰るん? も少しゆっくりしとったらええやん……」
「……ミノスケが起きたら帰るよ」
ここはカゲロウたちがひっそりと暮らす場所なのだ旅人は既に理解していた。
放っておいたらミノスケが芝を食べ尽くしてしまいそうだし、と旅人が冗談交じりに告げるとアブライは乾いた笑いを浮かべた。
「ははっ……せやね……」
そのアブライらしくない寂しげな表情に旅人も微かに名残惜しさを感じた。
滝の濃霧は入るときより出る時の方がずっと楽だった。
久しぶりに太陽の下に出て伸びをする旅人の視界には向かいの崖の上でぼんやりと佇む夕日が映った。
既にセミたちは静まりかえり、代わりにカゲロウたちがふよふよと川辺で遊び始めている。
帰りはその川を永久の森で最もポピュラーな水運手段である巨大笹舟で下っていく事になった。
「さあ、帰ろうじゃないか! いざ、我らの森へ!」
例によって船頭を勤めるカワセミが元気に声を張り上げるとミノスケも「おおー!」と腕を振り上げた。
旅人はそんな二人を眺めて、酷い姿で寝ていたわりには元気だなあと苦笑する。
川岸を見ればアブライ親子とセミやカゲロウたちが名残惜しそうに見送ってくれていた。
しかし流れが急なため笹舟が進み出すとあっと言う間にその姿は小さくなりすぐに見えなくなってしまった。
「さよならなのです! またいつかなのです!」
ミノスケは笹舟から身を乗り出して最後まで大きく手を振っていた。
旅人は来る時は四人だった旅路が帰りは三人になってしまった事に寂しさを覚える。
多少うざい奴ではあったがアブライとの短い旅路は旅人にとってそう悪いものでもなかったようだ。
一行を乗せた笹舟が川をぐんぐん下っていくと次第に川幅が広がり、流れが緩やかになっていった。
船頭を勤めるカワセミは操舵に余裕が出てくると旅人に言った。
「……ところで旅人君。私を置いてきぼりにしようとは随分いい度胸じゃないか」
「ぐっ……」
まずい事になったと旅人は冷や汗を流す。斬九朗と対峙した時以上のプレッシャーを背中に感じる。
「いや、カワセミさんは水辺が好きだし、お酒も好きだし、青色が好きだから……」
慌てて旅人がそう弁明すると、カワセミは何故か嬉しそうににっこりと微笑んだ。
白い歯がキラリと光るのを見て旅人はこの人は女性だけど美人というよりイケメンだなあと少し羨ましく思う。
「旅人君は私の好きなものを良く知ってくれているようだねっ! でも、今の私にはもっと好きなものがあるんだよ、フフッ!」
旅人は先ほどとは違う意味で背筋が寒くなるのを感じた――その時だった。
『カナカナカナカナ……』
セミが鳴いてはいけない時間帯の崖下に、どこからかひぐらしの鳴き声が響いてくる。
崖に反響して聴こえてくるその音色はどこまでも透き通るように美しく、そして儚いものだった。
「あそこなのです!」
ミノスケはそう言うと川沿いにある一本の木の枝を指し示した。
見ればそこにはアブライが立っていた。
ふるふると一心に羽を震わせて儚げな音色を奏でている。
「アブライさんなのです……」
「ああ、綺麗な音色だね……」
ミノスケはアブライをじっと見つめ、カワセミは目を閉じてその音色に聴き入った。
旅人もどこか物悲しいその鳴き声が胸の奥に響くのを感じていた。
夏の日の少年がどこかに忘れてきてしまった二度と取り戻せない大切な何かを思い起こさせてくれているような、そんな美しくも儚い音色だった。
『カナカナカナカナカナ……』
胸の奥にまで染み入るその澄んだよく通る音色はアブライの姿が小さくなり、やがて見えなくなってしまっても旅人たちの元に届いていた。
ミノスケはぽつりと呟く。
「離れてもずっとお友達なのですよ……」
ミノスケの大きな黒い瞳はうっすらと涙で滲んでいた。
「本当は一緒に来たかったのかも知れないね……」
そう言ってカワセミはぐすっと鼻を啜る。
旅人もなんだか感傷的な気分になってはいたが、それにしてもと改めて思う。
「アブライ、ひぐらしだったのか……」
その鳴き声はとても物悲しく儚げではあったが、瞳を閉じるともう見えなくなってしまったアブライのケラケラと笑っている顔が瞼に浮かんでくるようで旅人はふっと微笑んだ。
『カナカナカナカナ……』
アブライの奏でる儚くもどこか笑っているようにも聴こえるその鳴き声は、夕暮れの崖下にいつまでもいつまでも響き続けていた。




