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ミノムシの少女と森の旅人(旧題:眠れない夜の書)  作者: fin
虫たちのさざめく季節。
29/72

第29話 白い霧を抜けて。

「この滝なーっ! 山神様の住む永久凍土から流れてんやでーっ!」

 

 すぐ間近にあるであろう巨大な滝が打ち鳴らす轟音の中、ブルブルと震える旅人の冷え切った耳に前を歩くアブライの叫び声が届いた。

 どうりで寒いはずだと旅人は思う。今の旅人にはアブライの表情を確認する手段はなかったが、しっかりと繋いだ手の温もりから自慢げな表情が容易に想像できた。


 アブライを先頭に数珠繋ぎに手を繋ぎ足元を確かめるようにゆっくりと進む旅人たちは今、巨大な滝の裏側にあるという鍾乳洞に向かっている。そこにアブライの両親はいるらしい。

 旅の最終地点はもう目の前だったが、足場が非常に悪い上に滝の生み出す白煙のような濃霧と冷気によって目の前数センチすらまともに見えない極限状態の中にいた。


 旅人は呼吸する度に湿った冷気を吸い込んで真夏だというのに自身の体温がどんどん失われていくのを感じていた。

 きっと吐く息はさぞ白いのだろうと思ったがそれすらも見えない白い闇の中にいる。

 

 凍えるほどの濃霧に視界を。止め処なく鳴り響く滝の轟音に聴覚を。最も重要な二つの認識機能を断たれた旅人はもはや自分がどこで何をしているのかさえ分からなくなりそうだった。昨日までの愉快な日々が夢か幻のように思えてくる。

 しかし、この極限状態にあってもカイコたちの作ってくれた葉っぱの着流しは旅人の体温を取り戻そうと暖めてくれていたし、ミノスケの編んでくれた草履は旅人のつま先の感覚を冷気に奪わせる事はしなかった。

 そして前方を歩くアブライとすぐ後ろにいるミノスケと繋いだ両手の感触が自分の居場所を明確に示してくれていた。


「……」


 旅人は孤独な冷たい濃霧の中で目を閉じる。そしてかじかむ指先に力を入れると二人の手を強く握った。

 不確かな自身の感覚を頼るよりも仲間を信じて進む事にしたのだ。アブライとミノスケもそれに応えるように旅人の手を強く握り返してくれていた。

 

 何も見えず轟音だけが轟く世界を歩いていると時が止まったように長い時間に感じられる。

 ふと、旅人は永久の森へと辿り着くまでの旅路を思い出したが、今はもうあの頃のように孤独ではなかった。

 

 旅人がそんな事を考えていると、いつの間にか巨大な滝の轟音は遠ざかっていた。凍える体にも僅かに暖かさが戻ってきている。

 旅人が目を開けるとすでに濃霧はなく、薄闇の中に浮かぶアブライの顔が見えた。振り返ればミノスケとその後ろではなぜか不機嫌そうな顔をしているカワセミもいる。更に向こうには真っ白い霧を吐き出し続ける滝つぼが見えた。


「あん滝なあ、山神様の住む永久凍土から流れてんやで」


「いや、さっき聞いたよ……」


 旅人は自慢げな顔でいるアブライに呆れた視線を送ると、未だ手を繋いでいた事が急に気恥ずかしくなり慌てて手を離した。

 アブライは旅人の顔を不思議そうに見ていたが旅人は視線を無視して辺りの様子を確かめる。そこは青白く微かに発光する硬い岩盤に覆われた鍾乳洞の中だった。かなり奥の方からは何かの明かりがもれ出ているのが見えた。


「さすが旅人はんは目ざといわぁ。おとーん! おかーん! 帰ったでー!」


 アブライは嬉しそうに叫ぶや否や明かりの方へと駆け出していった。狭い鍾乳洞の中を「おとーん、おかーん」と言う間の抜けた叫び声が木霊している。


「ム、旅人さんこうしてはいられないのです! 何やら奥から美味しそうな匂いがするのです!」


 ミノスケもアブライを追って旅人をずるずると引きずりながら走り出した。ミノスケとはまだ手を繋ないでいた事に気付いた旅人が慌てて離そうとするがミノスケはそう簡単には離してくれなかった。


「今は急ぐ時なのですよ旅人さん! ふざけている場合ではないのです!」


「いいから、離せ――」


 旅人がふざけているのはお前だろうとその手を離そうともがいていると、もう一方の手を何者かに強く握られた。


「……旅人君、まさかとは思うが霧の中で私の存在を忘れていたなんて事はないだろうね?」

 

 旅人の手を握ってきたのはカワセミだった。にっこりと微笑んでいるが、こめかみの辺りが微かにヒクついている。


「いや、全然……」


 その細い指先からは想像できないほどの握力に戦慄を覚えた旅人が答えにならない返事を返すと、カワセミは「そうかい」ともう一度微笑んで飛ぶように駆け出した。ミノスケもそれに合わせて崖の上で見せた猛ダッシュで走り出す。

 

 二人に手を引かれた旅人は強風に晒された洗濯物のように情けない姿で鍾乳洞の奥へともの凄いスピードで連れ去られていく。剛の者もかくやという速度で走る二人が先行するアブライをあっさりと追い抜くと旅人は眩い光に包まれた。


 ミノスケとカワセミは「おおー」と歓声をあげて立ち止まる。

 眩しさにぎゅっと目を瞑った旅人の後ろで「あっ」という小さな声が聞こえたが、文字通りあっと言う間にその声から遠ざかり気付けば地面をごろごろと転がっていた。

 不思議と地面は柔らかく体を痛めるような事はなかったがかなり広い場所らしく旅人はしばらく転がり続けそしてぼちゃんと水の中に落ちた。


「あぶゅぶゅっ!」


 危うく溺れかけた旅人を救ってくれたのはバタバタと忙しなく聞こえてくるいくつもの羽の音だった。

 眩しさを堪えて薄目に見ればセミたちと柔らかそうな羽を生やしたトンボのような虫たちが一生懸命に運んでくれていた。


「どうも……」


 ふさふさとした柔らかい地面に降ろされた旅人は虫たちに礼を述べる。


「とても楽しそうだったのです」


「旅人君は本当に水浴びが好きなんだね」


「……」


 駆け寄ってきたミノスケとカワセミの無責任な言葉を耳にして旅人はむっとするが、光に慣れてきた目で周囲の見渡すと二人が自分を思わず放り出してしまったのも頷けた。

 そこは旅人の腰ほどの高さの芝に一面を覆われた草原だった。永久の森ではよく見る光景だったが、大きく異なっているのはこの場所が太陽の光の届かない鍾乳洞の中だという事と、芝が緑色ではなく淡い金色の輝きを放っている事だった。


「これは、すごいな……」 


「旅人さんはあそこで泳いだのです」

 

 泳いだつもりなど毛頭ない旅人だったがミノスケが指す方を思い出したように振り返るとそこには幻想的な青白い輝きを放つ湖があった。

 

「綺麗な色だねえ……」


 カワセミは水の色にばかり見とれていたが、旅人はそれよりも湖の中央から伸びる大樹に目を奪われていた。

 水中に根を張ったその大樹は優しく暖かな淡い輝きを放ちながら静かに佇んでいる。


「……」


 見れば先ほど旅人を助けてくれた虫たちが周囲を楽しげに舞っている。どこか神聖な雰囲気のする場所だからか旅人にはその虫たちが妖精のようにも見えるのだった。

 そして鍾乳洞の中とはとても思えないその不思議な光景にただただ魅入られるのだった。






まだ奥があったのです!

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