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ミノムシの少女と森の旅人(旧題:眠れない夜の書)  作者: fin
虫たちのさざめく季節。
22/72

第22話 夏の使徒。

 永久の森にも本格的な夏が訪れた。雲一つない青空からはギラギラとした太陽が連日照りつけている。


 自然がもっとも輝く季節。


 それは神族に連なる者たちが住まう永久の森でも同様だった。

 元より巨大な植物たちは緑の色合いをより一層深め眩いまでに命の輝きを放っている。

 

 以前は姿を見せる事が少なかった巨大な草食動物や昆虫たちも力強く飛び回っている。


 木の洞で暮らす旅人は入り口にドアがないため虫が入ってきやしないか心配していたが、この森では一部の例外を除いて肉食動物は存在しないらしく、蚊やハエやクモ、そしてヘビといった危険な生物と出くわす事はなく杞憂に終わった。


 コンクリートに覆われた町の暮らしと違い森の湿度は低く蒸し暑さはない。それにどこからともなく心地良いそよ風が吹いているため、木陰にさえにいれば汗一つかかずに過ごせそうなとても快適な真夏の訪れだった。


 旅人の住む木の洞の冷房器具はカワセミが青い羽で紡いでくれたどこぞの軍師が持っていそうな扇一つだったが、それでも充分快適に過ごせていた。


 昨夜までは。 


「そりゃ人生どうにもならん事もありますわなあ。ま、もっとも、わての場合は虫生でっけどなっ!?」


「うざ……」 


 何が楽しいのかケラケラと一人で笑うその存在に冷めた視線を送る旅人はこの地に来て久しく忘れていた感情を零した。

 そして着流しの胸元を緩めると扇で扇ぐ。


 室内は蒸していた。笑い声の主が洞の入り口を塞いでいて夜風が入ってこないからだ。


 それはプラスチックのようにてかてかした甲殻を持つ巨大な茶色い虫だった。前足の先にある強靭な爪をガッチリと洞の内側に食い込ませ、大きな頭だけを洞内に突っ込むようにしてこちらを見ている。

 黒いつぶらな瞳に長く伸びたストローのような口先。どうやらセミの幼虫らしい。もっとも幼虫なんて呼べるほど可愛らしいサイズではなかったが。


 アブライと名乗ったそのセミが現れたのは昨夜遅くの事だ。

 すっかり住み慣れた洞の寝床で夏の夜の虫たちの鳴き声を子守唄代わり眠っていた旅人は、入り口の方から聞こえてくる物音と微かな振動に跳ね起きた。

 入り口を確認する旅人の視界に映ったのはヒカリゴケの薄明かりに浮かび上がるアブライの巨大な影だった。

 暗がりに浮かぶ巨大なセミの幼虫。それがごそごそとこちらに這い寄ろうと蠢いている様はこの世のものとは思えないほど恐ろしい光景だった。しかし当のアブライは恐怖で固まっている旅人を気にした様子もなく「あれっ? あれー?」と中に入りきれない事に困惑したように首を傾げていた。

 

 旅人がしばらくその巨体を呆然と見上げていると、アブライは急にピタリと動きを止めて旅人をじっと見つめ返してきた。

 旅人はごくりと唾を飲み込むと声を強張らせながらもそんな所で何をしているのかと訊ねてみる。


「見かけないお人やったから挨拶しよ思いましてん」


 アブライはその巨体に似合わぬ声変わり前の中学生のような甲高い声でそう返事を返してきた。

 とりあえず言葉は通じるようだと旅人はほっと胸を撫で下ろす。しかし、こんな恐ろしげな相手をいつまでも居座らせる訳にもいかず、ああそうですかと旅人は手短に自己紹介を済ませてお引取り願う事にした。


「羽化してますねん」 


「……」


 羽化が始まってしまったため身動きできないとの事だった。

 この上なく迷惑な話に愕然とする旅人だったが、すぐに気をとり直すとそれはどれくらいかかるのかと改めて問う。


「調子が良い時は半日くらい、調子が悪いときは1週間くらい出ない時もありますなあ」


「……何の話だ」


 旅人が呆れたようにそう言うとアブライは何が面白かったのかケラケラと笑う。そしてあれこれ聞いていない事まで話しだした。

 セミは一生に一度だけ羽化するものだと旅人は思っていたが、永久の森の生物は基本的に老いるという事がないらしい。それでも四季は廻るため大半の虫たちは過ごしやすい夏の間だけ羽化して森で遊び回り、冬が近づくとまた分厚い外殻を着こんで土に潜る。そしてまた次の夏までのんびりと寝て過ごすそうだ。


 随分と優雅な暮らしだなと旅人は思う。


「せやから旅人はん! わてらには今この瞬間しかありませんねん! ほんの少し、ほんの少しだけ我慢したってつかぁさいよ!」


「来年の夏もあるんだろ……」


「し、しもうた! いらん情報与えてもうた!」


 そう言ってまたケラケラ笑っているアブライは永久の森に来て今年で13回目の夏を迎えるらしい。そんな本当にどうでも良い情報まで旅人は与えられていた。


「中学生くらいか……」


 旅人は寝不足で重い瞼を擦りながら改めてアブライの巨体を見る。

 随分といかつい外見をしているが箸が転んでも可笑しい年頃なのだろうかなどと、どうでも良い事をぼんやりと考える。

 結局朝まで付き合わされてしまったらしくアブライの頭の隙間から薄明かりが差し込んでいるのが見えた。


「……んッ? キタ! きましたで旅人はん! わて、頑張りますさかい!」


 アブライはそう言うと小刻みに体を震わせて「うーん、うーん」と気張りだした。


 旅人があくび交じりにその様子を眺めていると、アブライの頭部がパカッと割れてそこから緑がかった透明の濡れた羽がすくっと伸びてふるふると揺れた。


「おおっ……」


 旅人はそういえばセミの脱皮を間近で見るのはこれが初めてだなとアブライの様子を見守る事にする。


 アブライの巨体からすると小さすぎる羽だったし、動画で見たセミの脱皮とは若干趣が異なる気もするが一生懸命ふるふると羽ばたこうとするその羽に旅人は心の中で頑張れ頑張れと応援する。


 アブライの頭から伸びる小さな羽はそれに応えるように懸命に羽ばたくと少しづつ重力に逆らいながら空中へと浮かび上がる。

 その付け根の部分には白い滑らかな背中が見えた。


「へ……?」


 戸惑う旅人の目の前でアブライの上半身が脱皮した。淡い緑色の髪を振り乱しながら。


 旅人は思わず息を飲んだ。


 緑色の髪の下には美しく整った人の顔があったからだ。

 透けるように白く滑らかな肌の中で一際目を引くのは黄金色に輝く物憂げな瞳。

 細い首筋から下へと辿れば華奢ながらも女性特有の優美な曲線を描いている。

 それは、透明な羽を生やした女性。否、妖精だった。


 これが本当にあのうざいアブライの本体なのだろうか、或いは別の何かだろうかと言葉を失くした旅人はただただ呆然としていた。


 アブライは旅人の視線に気付くと恥ずかしそうに胸元を両手で隠した。

 そして、端正な口許に微笑を浮かべて言った。


「セミヌードですやん」


「うっざ……」


 どっと疲れが出た旅人はそう言うとその場で寝転んだ。

 脱皮を済ませて幾分縮んだアブライの抜け殻の向こうには強い日射しにくっきりと陰影を写しだす森の木々が見える。


 今日もまた暑くなりそうだと考えながら旅人は重い瞼を閉じる。

 ひとまず不貞寝、いや二度寝する事に決めたのだ。






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