羽化
つくつく、つくつく。さわさわ、でもなくちくちく、でもなく。蟻があたしの手の甲を這う感触はやっぱり「つくつく」だ。
もう月が出ているというのに、脳みそが腐りそうなくらい暑い。……いや、そんな風に感じるのはきっと「男にフラれたばっかりだから」というひどい精神状態のせいかもしれない。あたしはその暑さの中で、樹に背中をもたれさせてまるで死体みたいにだらしなく地面に座っている。土に置いている手は蟻の行列の通り道になっていて、まるで人間が丘を越えていくときのように私の手の甲を超えて巣穴に入っていく。
ああ、だから都心の広い公園って好きだ。死角がちょこちょことあって、こんな状態でいても誰に気兼ねすることもない。このまま、地面に落ちた果物みたいに腐って朽ち果てられたらいいのに。
そんなことを考えている内に、蟻の行列の、最後の一匹があたしの手の甲を降りていった。
その時だった。土に置かれたあたしの右手の、中指と薬指の間。一つまみほどの土をはねあげて、見慣れない虫が顔を出した。
大きさは4センチほど。飴色の体をしていて、前足2本は少し太くて鍵爪のような形をしている。口は、短いストローをくわえたみたいに尖っている。そして、その口の上にまるで黒いビーズを縫いつけたようにつやつやとした目。そうか。これ、羽化前の蝉だ。抜け殻なら毎年沢山見るけど、中身がまだ入ってるのは初めて見た。
蝉は、ひどく緩慢な動作で少しずつ地上に体を引きずり上げる。そして全身が出ると、鉤爪のような前足の内の一本を、そっと、探るような慎重さで私の手の甲に乗せた。その様子が、お母さんの手を探る赤ちゃんのように思えてふと愛しくなる。
前足一本に続いて、もう一本の前足、真ん中の足、と私の手の甲に乗せていく。全身を乗せると今度は私の手の甲の上を進む。重そうな体を引きずってやがて垂直に上に伸びている手首に頭が当たると、蝉は突然ぴたり、と立ち止まった。そしてまるで何かを考え込むかのように、じっと動かない。
……どうしたの?何を見ているの?
問いかけて答えが返ってくるはずもなく、蝉は固まったように動かなかった。どうしたんだろう、地上に這い上がるだけで体力を使いきってしまったか。もう直接木の幹に引っ掛けてあげようか、と自由な左手を蝉の方に伸ばしかけた瞬間、蝉は不意に、鉤爪のような前足を振り上げた。ちくっ。鉤爪が私の手首の皮膚に食いこむ。予想以上の力だった。そして、自分の全身を持ち上げるために食い込ませた鍵爪にさらに力を込める。刺激がそこから全身を駆け巡り思わず体を震わせた。痛みともくすぐったさとも違う、細く鋭い針金のような痺れが。思わず振り払いそうになるのを、こらえる。
一足、一足。緩慢に歩みを進めて、蝉はやっと自分の体を垂直に、あたしの手首にひっかけるとまたもやそこで、一休みするかのように動きを止めた。
そっか。自分の体が重くて、疲れちゃうのね。ちくっとして驚いたけど、大丈夫、見守っててあげる。
心の中でそんなふうに声をかけて、先ほどの予想外の刺激でこわばった体の緊張を解く。すると、その脱力が伝わったのかまたもや突然、鉤爪を振り上げた。
ちくっ。ぐぐぐぐぐっ……。
「うあっ……」
思わず声を上げる。あたしは蝉の黒いビーズのような目を睨みつけた。こちらを見ているのか見ていないのか、躊躇することなく2本目の鉤爪を振り上げ、突き刺す。突き刺した後でさらに力を込める。そして引き抜いて、また少し上の地点に振り上げては突き刺す。振り上げる、突き刺す、力を込める、引き抜く、振り上げる、突き刺す、力を込める、引き抜く。蝉は意を決したのか、相変わらずゆっくりではあるけれど緩慢ではない、正確なリズムでその作業を繰り返す。その決意が、羽化の為の決意ではなく、腐ったあたしに対する刑罰の執行の決意のようにすら思えてくる。
つい何時間か前に、あたしをふった男。その男を、あたしは愛していたつもりだった。大切にしていたつもりだった。だから別れを切り出された瞬間、裏切られた気がした。けど、実際はそうではなかったのだろう。今、なんとなくわかる。
裏切られたわけじゃない。苦しめていたから、逃げられただけなのだ。
まるで感情などないかのように、ただただ正確に繰り返される刺激。そのリズムに反応してあたしのからだもピクッ、ピクッ、と動く。小さな電気ショックを何度も与えられている感じに似た、痺れるような刺激に、あたしの体も正確に反応する。そして、少しずつ、少しずつ、あたしの手首から肩へ向って、蝉が登っていく。手首から少しずつ、上へ、上へ。正確なリズムで同じ刺激。反応して体を震わせても、肝心の右腕だけは、動かせない。この子のために、しっかりとした木の幹のようでいてやらなくてはいけない
……否。あたしのために。あたしも、きっとこの子と共に、羽化をするのだ。
ふと気づくと、空の色が、ほんの少しだけ明るくなっていた。蝉はもう、私の肘の少し上まで登ってきていた。やがて蝉は私の肩口まで登ると動きを止めた。私は次に起こることを予想して、その飴色の体を見守る。
肩口に突き刺さった鉤爪に、また少し力が加わる。次に、鉤爪以外の4本の足にも。やがて、その足から微かな微かな震えが、あたしの皮膚に伝わる。
ピキッ。小さいけれど澄んだ音をさせて、背中が割れる。伝わる震えが少しだけ強くなり、その裂け目から、くしゃくしゃの羽が付いた、優しい、淡い緑色の体が覗く。体を震わせて、美しい色をした蝉がのけぞる。左右に振って、飴色の殻から少しずつ少しずつ、体を抜く。あらかた抜いてしまうと、のけぞった姿勢を元に戻して、またあたしの肩にしがみつく。そして、お尻の部分まですっかり殻から引き抜いた。くしゃくしゃだった羽に、体液が少しずつ送り込まれて、まっすぐになっていく。もう朝陽が見えている。
やがて、羽が完全に伸びきったころには、蝉の体がほんの少しだけ茶色くなり、柔らかくて弱々しげな体に、段々と力強さが宿る。その頃には体の色はもう、しっかりとした、木の幹に近いあの茶色に変わってきている。
ジッ。不意に大きな一声をあげて、蝉はあたしの腕に、バシッと羽を叩きつけて空へ舞い上がった。ぐんぐんぐんぐん、高く空へ向っていく。
あたしは肩にひっかかったままの抜け殻をそっと外すと、立ち上がって朝陽の中を歩き始めた。肩には、あの鉤爪の後がほんのり紅く、残っていた。
【完】