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原点と収束値の相対的位置関係

 ――これは、終わらせる為の物語ではない。

「おーい、おい」

 誰かの声がする。男の声だ。声に聞き覚えはない。相手の顔は見えず、それどころか真っ暗で何も分からない。ここはどこだ?

 私は必死になって、靄がかかったような頭の中で記憶を探る。ダメだ。うまく行かない。男の声を聞くより前のことを思い浮かべようとすると、途端に靄が強まって邪魔をする。

「いい加減に目を開けてくれよ」

 謎の声に言われて、ようやく私は自分が今まで固く目を閉じていたことに気が付いた。緊張を解きながら、ゆっくりと両目を開ける。開ききる一瞬、恐ろしい何かが目の前に広がっているような気がして、躊躇った。

 またしても暗かった。しかし、先程までの遮られた暗闇ではない。単純に光の量が少ない、夜中の暗さだ。そうか、今は夜なのか。目を覚ました私は目玉だけを動かして、ゆっくりと部屋の中を観察する。夜だというのに、何故か窓の外がほんのり明るい。

「しかしなあ、兄ちゃん。まだまだ若いんだからあんまし自棄になるんじゃねえぞ?」

 ようやく声の主が見えた。私が寝かされたベッドの脇の丸椅子に座り、指を組んでこっちを向いている。西洋人だ。青い目に太い眉、鼻は控えめでどちらかと言えば低い。若々しい金髪を後ろに流している。

 そこでまた新しいことに気が付いた。彼は日本語ではなく英語を話し、ごく自然に私もそれを理解している。どうやら私は英語が操れるらしい。そして「ニホンゴ」なる言葉を主に話していた気がする。それがどのような言語だったかはよく覚えていない。

「世知辛い世の中だってのは分かるが、投身自殺なんて物騒な……」

 ……投身自殺? 私は男の言葉に首を傾げた。それを見て男の方も首を傾げる。

「あれ? 違うのか? てっきり、断崖の入り江に人が落ちた、って言うからまた自殺かと思ったんだが」

「……断崖? 入り江?」

 何のことかサッパリ分からない。が、段々状況が見えてきた気がする。どうも私は断崖の入り江とやらに落ちたところを救助されたらしい。ならばここは病院か? それにしてはベッドも椅子も粗末に思える。目の前の男の服装も医師の白衣ではなく、星のマークが付いた黒い制服。

「ここは病院なのか?」

 体を起こす。かけられていた毛布も使い古したカーテンを思わせる薄さで、怪我人の為に病人が用いるとは考え難い。寝かされた時はまだ髪が濡れていたのだろう。枕が少しだけ湿っていた。

 男は私の質問に申し訳無さそうな顔をして頭を掻き、答えた。

「いや、ここは警察署だ。今日は生憎病院のベッドに空きが無くてな」

「と、言うことはあなたも?」

「ケビン・レストレード。警官だ。本来の部署は交通課なんだが、あんたの救助をした」

 ケビンが右手を差し出す。ゴツゴツとした、大きくて力強い手だ。私はパソコン仕事ばかりでやせ細った手で握手に応じた。

 その時、強烈な違和感を感じた。頭の中に降って湧いた「パソコン」という単語。一体パソコンとは何なのだろう? 私の不健康で青白い手を見た瞬間、その原因として思い付いた言葉だ。何か仕事で使うものなのか?

「あんた、名前は?」

 ケビンが笑顔で聞いた台詞がトドメになった。目を覚ました時から頭の中でチラ付いていた可能性。

 ゆっくりと深呼吸をする。冷静に考えるんだ。認めたくは無いが、認めざる負えないだろう。ニホンゴだとかパソコンだとか、そんなどうでも良さそうな単語が分からないならともかく、これは決定的だ。

 私は深くため息をついた。

「分からないんだ」

 困惑した様子のケビン。口を開き、私の意図するところを目で探ろうとしている。

「分からない、って……」

「名前だけじゃない。何もかもみたいだ」

「何もかも?」

「私だって信じたくはないがね――」

 言葉を切り、窓の外の暗い空を見上げた。

「――私は記憶を失っているようだ」

 本当に、信じたく無いのだが。




「記憶……喪失……?」

 ケビンの口から言葉が零れた。どこか恐怖が混じったような目をして、頬を引きつらせている。無理も無い。私だって逆の立場だったらそうするだろう。

「残念ながら、何も思い出せないんだ。もちろん名前も」

「どこから来たかも?」

「ああ」

「まあ、見たところ東洋人みたいに見えるけどな。しかし、それにしちゃ英語が上手いような。それに、髪はその歳で真っ白なのかい? まだ若いんだろ?」

 東洋人、という言葉はなんとなく意味が分かった。詳しい名前は思い出せないが、この世界にはケビンのような西洋人が暮らす他にも、海の向こうや山脈を越えた先に、いくつもの民族が暮らしている、という概念は頭に残っている。

「何でまた、海を渡っていらっしゃったあんたが、このスワーブの西の入り江で投身自殺なんてしたのかねえ」

「私は自殺など――」

 ケビンの言葉を否定しようとして、言い淀んだ。もしかしたら彼の言う通り、本当に私は自殺しようとしたのかもしれない。何しろ目を覚ますまでの記憶が無いのだ。数時間前の私は何を考え、何をしようとしていたのか、今の私には何も分からない。

 自殺、か。どうにも実感が湧かない。過去でどうだったかはともかく、今現在私にそんなつもりは毛頭無い。

「私が自殺する瞬間を誰かが見ていたのか?」

「いや、見ていた訳では無いな。俺が町の西の方を見回っていたとき、入り江の方で妙な光が見えたんだ。ヤバそうな臭いがしたから、応援を呼んで入り江に向かうと、波打ち際の岸壁にあんたがへばり付いていた」

「それだけで、どうして私が自殺を謀ったと思ったんだ?」

「あそこは昔から自殺の名所でな。高さのある円形の入り江になってて、飛び込むには丁度良いのかもな」

 少しでも良いから何か情報が欲しい。私は思い付くまま、次から次へとケビンに質問をした。

「ふむ……入り江があったら人は飛び込みたくなるものなのか?」

「ほら、雨が上がった後、道の真ん中に丸く水溜まりができるだろ。あれって無性に足を突っ込みたくなるじゃないか。ところがどっこい、道の端の排水路を流れる水をそうは思わない。きっと、これと同じようなものなんだ」

「つまり、君は入り江が水溜まりで、そこらの海が排水路だって言いたいのか?」

「そうそう。どうせ自分の命を投げ入れるなら、同じ水でも丸い方が安心するのさ。人間は丸が好きなんだ」

「なぜ君は円形をそんなに評価するんだ? 何を根拠に?」

 私の問いにケビンはキョトンとし、すぐにどうでも良いとばかりに笑い飛ばした。

「あんた、学者みたいな物言いをするなあ」

 それにしちゃ、なんとも可愛らしいネクタイしてるぜ。と付け足して更に笑う。そして、ある程度笑うと一瞬だけ真面目な顔をした後、目を瞑りながら答えた。

「根拠なんて無いさ。ただ、俺は真ん丸なドーナッツが大好物だ。でも、もしもドーナッツが四角かったら、ただの好きな菓子くらいに格下げになるだろうな、っていう、それだけの話だよ」

 彼の例え話はやはりと言うべきか、私にとっては的外れに思えるものだった。ドーナッツが四角だろうが三角だろうが、投身自殺とは何も関係無いではないか。

 薄々と感じていたが、私とこのケビンという警官はどうにもソリが合わない。このズレは人種だとか記憶の有無だとか、そういう表層的な話で片づくものでは無いだろう。私という人間のベースになる何かと、彼を形成するそれとが、横に並べた時にチグハグな図形を作ってしまう。そんな印象を抱いた。決して、私はこの男が嫌いな訳では無い。話を聞く限り、彼は私の命の恩人だ。信頼できる人物だとも思う。彼に感じた違和感は後になって振り返ってみれば、おそらくは新鮮さだったのではないか、と思う。彼は私の人生の中で、初めて遭遇するタイプの人間だった。

 私としてはその後ももう少し、彼の奇妙な例え話について議論をしたかったのだが、突然聞こえてきた足音に邪魔された。酷く焦った様子で走ってきた足音は、私たちの居る部屋の前で止まり、勢い良くドアが開かれた。ケビンと同じ制服を着た警官だ。

「やっぱり人手が足りない! 来てくれケビン!」

 警官はそれだけ伝えると、ドアを開けたまま走ってどこかへ消えた。私には何のことかサッパリだったが、呼びかけられたケビンは素早く立ち上がり、手に持っていた帽子を頭に乗せた。

「じゃあ、意識も戻ったしあんたは大丈夫だな」

 そう言った彼の目を見て驚いた。一瞬前までの、私と話している間とはまったく違う。好奇心や驚きの輝きは消え失せ、何か鋭い力が宿る。それを見て、初めて私は彼が警官なのだと実感した。

「待ってくれ! どこへ行くんだ?」

 ドアへと向かうケビンの背中に私は呼びかけた。

「言っただろう? 今日は病院が満員なのさ」

 ケビンが窓を指差した。ドアとは反対側の壁にある、小さい窓。カーテンで半分隠れていて、その外がほんのりと明るい。駆け寄り、光源を確かめる--炎だ。

 火元が見えた訳では無い。窓から見えているのは揺らめく光だけ。遠くの方で赤い光が揺らめき、建物のシルエットを浮かび上がらせている。

「火事?」

 ケビンから返事は無かった。振り向くと、既にそこに彼の姿は無い。あるのは開いたままのドアだけ。少しの間、迷った。ドアと窓を交互に見比べ、最後に私の貧弱な腕を見る。

 私は警察署の中を一直線に走り抜け、揺らめく光を頼りにケビンの後を追うことにした。




「遅いぞ!」

 現場に着くと同時に、課長に怒鳴られた。例の記憶喪失者の世話を俺に任せたのは自分の癖に。

「レストレード! お前の仕事は水運びだ。いつまでもそこに突っ立ってないで、さっさと手を動かせ!」

 課長は禿げ上がった頭から湯気を立ち上せながら、もう一度怒鳴った。それは遅々として進まない鎮火作業に対する苛立ちのせいなのか、それとも周囲に渦巻く熱気のせいなのか。

 近くで見ると、俺の想像以上に状況は悪い。暴れ続ける炎は既に、教会を完全に包み込んでいた。そして今も広がり続けている。深紅の腕を八方に伸ばし、通りを挟んだ向こう側に進んでいこうとしている。

「まったく、消防は何をしてるんだ」

 課長が今度は消防隊に詰め寄ろうとしたので、俺は肩に手を乗せて引き留めた。

「落ち着いて下さい」

「落ち着いていられるか! 放っておいたらこの教会だけじゃない。海風に乗って町中焼け野原になるぞ!」

「いや、なら消防の邪魔をしないで下さいよ」

 少し離れたところで、次の消火作戦を立てている消防隊に食ってかかろうとする課長を羽交い締めにして、なだめる。そんなに火を消したいなら、自分でバケツでも持って走れば良いだろう、と思うが、部下を持つ立場というのはあまり自分勝手に動いてはならないらしい。うちの課長は昇進後も、現場で動いていた頃の性分が抜けきらず、何かトラブルが起こると、自分が真っ先に飛び出して行ってしまう。そのせいでよく上から叱られる、と前にぼやいていた。本来なら今も、現場の指揮は消防に任せて、署で待機していなくてはならないはずだ。徹底現場主義の姿勢は見習わないでもないが、指示一つ出すだけでも一々怒鳴る癖は治してほしい。

 ようやく課長が落ち着いたので、俺は指示通りに水汲みに向かった。スワーブは山脈から流れる川の河口にある港町だ。教会は川から少し離れた位置にある。バケツを掴んで川へ走り、水を汲んで消防隊に渡す。こんなペースでは火の勢いは弱まらないと分かっているけれど、それでもやり続けるしかない。

 俺の他にも大勢の警官が水の運搬を手伝っていた。いろんな部署の人間が居るが、夜警隊だけは町の警備を続けている。混乱に乗じた火事場泥棒を防ぐ為だ。最近沿岸警備の為に配属された海兵隊も駆り出されたようだ。

「ああ、教会が……」

「なんということだ……」

 離れたところには人々が壁を作るようにして集まっていた。誰もが教会の方を凝視して、固まっている。固まったまま涙を流す人も居た。

 足を止めずに、炎に包まれた教会を見上げる。ちょうど風がこちらに向いて吹き熱風が目を襲った。煙でむせる。漁業くらいしか取り柄のない町の、たった一つのシンボルが今、燃え落ちようとしていた。自分の無力さにバケツを持つ両手が震える。

 その時だ。また課長の怒鳴り声が聞こえた。

「もう一遍言ってみろ!」

 見ると、今度の相手は海兵だった。課長に胸ぐらを掴まれて、つま先立ちになっている。

「で、ですから、火薬があるんですよ」

「どこに?」

「そ、そこの倉庫に」

 辺りは炎に照らされて明るいはずなのに、一瞬目の前が暗くなった気がした。海兵が指差したのはまさに今、炎が風を受けてその真っ赤な腕を伸ばそうとしている先にある小屋だった。普段は教会が行事の時だけ使う祭具などを保管している倉庫だ。

「どうしてこんなところに火薬があるんだ!」

「町長と教会の許可は取ってありました! 海軍本部へ運ぶ途中、一週間だけこの町で預かることに」

「ふざけるな! どうして俺たち警察に連絡が無い?」

「こんなことになるとは、思わなかったんだよ!」

 次第に海兵の声も大きくなり、最後には課長と二人で怒鳴り合いになっていた。まずい、と思って止めに行こうとしたが、遅かった。

「火薬だ! 爆発するぞ!」

 誰かが叫び、市民の群れが静まり返った。火が弾ける音だけが聞こえる。しかし、それも一瞬。ざわめきが段々と広場を満たし、人々が動き出す。

「逃げろ!」

「爆発する!」

 怒号、悲鳴。そして混乱。

 俺の手の震えが強くなった。ついに足が止まる。震えは止まらない。体の力が抜けていく。

 無力だ。炎を見上げ、知る。これは消せない。この町にはろくな消火設備が無い。海風もますます強くなっている。あと数分で付近の建物に延焼するだろう。もちろん火薬のある倉庫にも。

 地面に膝がついた。続いて両手も。火薬はどれくらいの量なのだろう? 少なくとも、この教会がある広場は無事では済まないはずだ。俺の不安が伝わったかのように、警官や消防隊員が逃げ始めた。海兵たちの姿はとっくに無い。

「待て! 逃げるな! 今すぐ火薬を遠くへ運ぶんだ!」

 課長だけは怒鳴りながら倉庫のドアへ走った。鍵がかかっているようで、押したり引っ張ったりしている。俺もすぐに手伝おうとした。が、足が動かない。どんなに力を込めても、立ち上がる事が出来ない。なぜだ? 早くしないと大爆発だというのに、どうして俺の足は動かない?

「レストレード!」

 課長に呼ばれた。それは分かっているんだ。行かなきゃいけないことも分かる。でも……でも……。

 もう、無理だ。

 炎の明かりで揺らめく広場の土に両手をつきながら、俺は確信した。諦めなんだ。足が動かないのも、声が出ないのも、全部諦めているからだ。市民を守る警官の癖に、火薬の話を聞いた瞬間に心が折れてしまったんだ。いや、もしかしたら、ずっと前からそうだったのかもしれない。火事の現場を目にした瞬間から、俺は半ば諦めていたんじゃないのか。だからバケツ運びなんてこの状況で無意味なことを黙ってやってたんだ。

 自分の頭の中も含めての状況を把握してみると、少しだけ冷静になれた。一刻も早く、ここから逃げ出すんだ。ひざまずいた体勢から、足の裏を地面に付けてゆっくり押す。力が入る。立ち上がれる。

 さあ、走り出すぞ!

「さあ、消すぞ」

 背後で声がした。聞いた瞬間足が止まる。ここに居るはずのない男の声だ。

「お前……!」

 記憶喪失の男だった。燃え盛る教会を背に立った男はどこか神々しく、その迫力に俺の足はまた動かなくなった。

「どうして……どうやってここへ?」

「なんとなく、だよ。なんとなくベッドを抜け出して、なんとなく明るい方へ走った。そうしたら、なんとなくここに着いたんだ」

 そう言って男はニカッと笑った。その笑い方は先程までの理屈っぽい態度とは大きく違い、数年ぶりに故郷の町に戻って来た出稼ぎ労働者が見せるような、そんな笑顔だった。童心に帰ったような、という奴だろうか。

 いつの間にか、俺は逃げ出すことを考えるのをやめていた。

「今、なんて言ったんだ?」

「消す、と言った」

「何を?」

「だから、火を」

 ちょっと向こうの角までタバコを買いに行くよ、とでも言うような口調だった。俺が信じられない答えにポカンとしていると、むしろこっちの方がおかしい、と言いたげな顔を男がしてくる。

「無理だ。今更水で消せるような規模じゃ……」

「当たり前じゃないか。水なんて使わんよ」

「じゃあ、何を?」

 川の水の他に、この町に消火に使えるような物は何一つ無い。

 名前も何も分からないはずの男は、親指を立ててある建物を指した。ちょうど、禿げた頭の男がどこからか斧を持ち出してきて、そのドアを壊したところだった。

「さっき大声で聞こえたよ。あの小屋の中にあるんだろう?」

 ある、ってまさか……。




「今からこの火薬を使って火を消す」

 火薬の詰まった木箱を両脇に抱えた男が言った。俺と課長も同じ状態だ。かなり重い。

 課長にこの男の言うことを信用させるのに、数分かかった。もっとも、数分かけても結局信用してはもらえなかったのだけれど。それでもブツブツ文句を言いながら、男の指示に従ってくれるようにはなった。

「木箱を私の指示した位置に、指示した数だけ置いて欲しい。多過ぎても少な過ぎてもダメだ。箱の中の火薬の量まで調整してあるポイントは、私がやる。二人は数と位置に細心の注意を払ってくれ」

 頷く俺と課長。

「では、行くぞ!」

 押し返そうとする熱気に耐えながら、男を先頭に三人で駆け出した。全員の額に汗が浮かぶ。それでも足は止めない。目指すは広場中央、教会の外周。

「ケビン、二歩右に二箱。そこから箱五つ分右に一箱」

 轟々と燃え上がる火の音にもかき消されることなく、男の声はよく聞こえた。

「課長、そこじゃない。箱半分だけの幅で前へずらしてくれ。違う、だから前だ」

「うるさい! 遠くて聞こえ辛いんだよ!」

 課長は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、どう考えてもしっかり聞こえている。

「数があってない! そこは四箱だ」

「そう! そこだ! その位置に三箱重ねて設置」

 俺たちに指示を出しながら、男も倉庫から箱をせっせと運び出して、配置している。力仕事に慣れていないようで、倉庫の中に一つだけあった台車を使っている。作業する姿を見て、俺は素直に感心した。知識や理屈ばかりの学者気取り、という俺の中の第一印象が書き換えられていく。

 そもそも、この男はなぜこんなに必死になってくれているのだろう? もし自分だったら、たまたま訪れただけの町をここまで一生懸命に守ろうとするだろうか?

 突然現れた上に、記憶も失っている。本来なら警察がこんな男の指示で動いて良いはずが無い。はずが無いのだけれども、俺は木箱を置き続ける。不思議な確信があった。この男を手伝えば町を火事から救える、と。

「これで言われた分は最後だ」

 指示に従い、炎の近くに木箱を設置した課長が、小屋の前に帰ってきた。いくつかの箱は今にも引火しそうな位置にある。

 男は指で一つ一つ置かれた火薬をチェックした後、ゆっくりと頷いた。そして倉庫に最後に残った木箱を持ち上げ、台車に乗せる。

「今から、この台車を教会の中に突入させる」

 課長が驚きの声を上げた。

「そんなことしたら爆発するだろ!」

「ああ、それで良いんだよ。あの教会は諦めるしかない」

「お前……他人事だと思いやがって!」

「なら延焼して、町が火の海になっても良いのか?」

「…………」

 どんなに課長が怒鳴っても、男の口調はあくまで淡々と論理的だった。黙ってしまった課長の後を俺が引き継いで、質問する。

「でも、爆発なんて起きたらそれこそ町は火の海じゃないのか?」

 妥当な疑問のはずだ。まさか爆発で火が消えるわけでは無いだろう。

 男はまたあの子供のような笑みを見せた。

「私を信じろ」

 火事の日のことを思い出す度、俺はいつもこの瞬間のことを一番不思議に感じる。男の言葉は俺の胸の中に確かな

重みを伴って飛び込んできて、それに気付いたときには既に俺は彼のことを信頼しきっていた。直感、という奴だろうか。呼び方は何であれ、この時男が原理をタラタラと説明したりしていたならば、俺は彼に町の全てを委ねるようなことはしなかっただろう。

 信じろ、という言葉は理屈よりずっと強かった。

「……ああ」

 俺の返事を聞くと、すぐに男は行動に移った。力一杯台車を押し、彼の手を離れたそれは真っ直ぐに燃え盛る教会の中心に向かって走り出した。

「走れ! 逃げるぞ!」

 男が叫び、俺たち三人は教会に背中を向けて駆けだした。ゴロゴロと台車が地面を進む音が聞こえる。段々とそれが遠くなって、少しずつ炎の音に紛れて消えていく。それが完全に聞こえなくなった時、台車が火の中に入るのだろうか。何が起きるというのか。

 それは意外に早くやって来た。

 最初に感じたのは強烈な光だった。俺たちの背中の方から追い立てるようにして光が迫ってくる。しかし、それも一瞬、爆音と煙に周囲は包まれた。思わず耳を塞いで地面に伏せる。熱風が全身の表面撫でるようにして通り過ぎていった。

 大爆発だ。町を包む熱気とは裏腹に、俺の背筋は冷たくなる。

「クソ! 何が信じろだ!」

 隣で課長が毒づいた。失敗という言葉が俺の頭をよぎる。

 男がゆっくりと立ち上がった。俺と課長はまだ伏せたままだ。彼は立ち上がるのと同じように、ゆっくりと体を回転させ、教会の広場を振り返った。

「ケビン、課長。見てみるといい」

 振り返るのがもの凄く怖かった。それでも男がやったようにゆっくりと立ち上がると、いつの間にか町を照らしていた赤い光が無いことに気付く。そこから先は躊躇わず、俺は課長より先に振り向いた。

 何も無い。視線の先、広場は見事に更地になっていた。かつて教会や小屋であったのであろう木片が炭になって散らばり、戦場のようだ。

 そして何より重要なこと――炎が消えている。

「おお……」

「……信じられん」

 木片の中にはまだ少しくすぶっているものもあるが、さっきまでの大火事が嘘のように火の気は無くなっていた。

「物が燃えるには酸素が必要だ」

 当然の結果、といった面持ちで男が言った。

「ならば、酸素を無くしてやればいい。火薬の量や位置を計算して、瞬間的に教会の周辺全てを爆発で包んでやれば、その一瞬爆発によって消費され、周囲から酸素が消える。火が消えるのは当然の帰結だ」

 もっとも、爆発はしてるから広場の中は木っ端微塵だがね、と男は付け足した。




 教会は瓦礫の山になってしまった。町のシンボルは消えてしまったのだ。しかし、そのおかげで町は炎から守られた。

 ポツリ、ポツリと逃げていた市民が戻ってきた。遠くからでも火事の明かりが消えたことが分かったのだろう。広場を見た彼らが言う。

「教会が……無い」

「でも、火も消えておる」

 課長が人々に大雑把な事情を説明する。記憶喪失の男の指示によって広場を爆破したこと。倉庫の火薬を利用して、大惨事を防ぎつつ火を消したこと。その代償として教会を失ったこと。

 市民の反応は様々だった。素直に鎮火を喜ぶ者も居れば、男の方を睨む者も居る。不穏な空気を感じ取った俺が口を開きかけたが、課長の方が早かった。

「なお、今回の消火作戦は彼の指揮のもと、我ら警察が責任を持って実行いたしました。教会の焼失は爆破を行っていなかったとしても避けられない事態であり、その全責任は迅速な消火をできなかった我々警察と消防にあります」

 集団から少し離れた位置で、瓦礫の上に腰掛けていた男が顔を上げた。

「皆さんの中にはもしかすると、今回の作戦の立役者である彼を批難する気持ちがあるかもしれません。しかし、考えてみてください。倉庫に火薬があると分かったとき、情けないことに多くの消防士と警官が逃げ出しました」

 戻ってきた人々の中、制服を着た何人かがバツの悪そうに顔を伏せた。

「彼らを責めるつもりはありません。普通なら町を見捨てて全員逃げるべき状況でした。しかし、そこに居る彼は普通ではない技術を持っていた上に、逃げ出さない勇気も持っていた。警察は彼に最大限の感謝の気持ちを表明します」

 そして課長は一人、座った男の方を向いて手を叩き始めた。

「ありがとう」

 何も無くなった広場に、心地の良い音が響いた。一つだけだったその音に俺の拍手が加わり、誰かの拍手も加わり、気が付くと町中の人々が男に向けて手を叩いていた。

 止むことのない音の中、俺はそっと課長に近付いた。

「良いんですか? 上の許可も取らずに警察を代表したようなことを言って」

「お叱りを受けるのが俺の仕事だ。下っ端はそんなこと気にするんじゃねえよ」

 喉まで言葉が出かかったけれど、俺は黙って一歩下がり、拍手を続ける課長に向けて手を叩いた。普段は口にできない尊敬の気持ちを込めて。

 一方、記憶喪失の男の方は町の若者数人に囲まれていた。

「名前は?」

「覚えていない」

「お前すげえな! 火で火を消すなんて魔術みてえだ」

「魔術ではない。科学だ」

「じゃあお前さんは学者さん?」

「それも覚えていない」

「いや、学者先生にしては可愛いもんを付けてるべ」

 若者の一人が男の首のネクタイを指して笑った。確かに言われてみれば、水玉模様のそれは彼の持つ知的な雰囲気とはミスマッチで、俺も一緒になって笑う。

「そうか……おかしいのか」

 ネクタイを手でいじり、首を傾げる男。その仕草がおかしくてまた皆笑う。

「ありがとう。これからもよろしくな、水玉模様ポルカ・ドット博士」




 ――月日が流れた。

 その朝、私はいつものように日の出と同時に目覚めた。洗面所で顔を洗い、鏡を見て思う。歳を取ったなあ、と。顔には深いしわが刻まれ、背は大分縮んでしまった。頭の白髪は昔からだが。

 結局私は何も思い出せないまま、ポルカ・ドットと名乗ってこのスワーブという町で暮らしていた。自分でも理由は分からないが私の頭の中には科学や機械技術の知識が詰まっていて、それを活かして生計を立てている。私の細工が評判になったのか、いつの間にやらこの町には国中からエンジニアが集まるようになった。そしてこの町を中心に、今ヨーロッパ全体が産業革命という大きな変革に包まれている。

 漁業と立派な教会しか取り柄の無かったスワーブ市内にも、今ではたくさんの工場がある。大規模な港が元々存在し、輸入と輸出に優れた環境だったのも大きいのだろう。織物、武器、船舶、汽車などありとあらゆる工業製品が日夜生産されている。

「約束の時間にはまだ早いか」

 その日、私はある企業の社長と面会をすることになっていた。世界の果て、東洋のジパングという国から進出して来たと言うその企業は、登場から数か月で五つもの工場を町中に所有、他には真似できないような画期的な技術を多数持っているとのことだった。その社長が今度秘密裏に大規模な実験装置を自社の建物内に作るらしく、資材の調達について相談を受ける約束をしたのだった。

 時間まで散歩に出かけることにした。場所はいつもと同じ、西の入り江。ケビン曰く私はここで保護されたとのことだ。何か思い出すのではないかと、ほとんど毎日ここへ通っている。

「随分と変わったもんだのう」

 円形の美しかった断崖の周囲には、最近壊れた機械が不法投棄されるようになった。中には入り江の中に向かって投げ捨てる者も居るらしい。町が栄えると人の心というのは荒んでいくものなのだろうか?

 海を見下ろし、空を見上げ、ぼんやりと考える。やはり、今日も何も思い出せない。実のところ、もう記憶などどうでも良いと思っている自分が居る。ここに来る前の記憶を失ったとしても、今の私にはこの町で過ごしてきた思い出があって、それだけ十分な気がする。

 いろいろな事があった。毎晩仕事が終わると、ケビンと一緒に行きつけの酒場に行った。お互い金は無かったから安い酒を頼み、一時間くらいかけてチビチビと飲む。彼が課長に昇進した時には仲間を集めて大騒ぎをした。先代の課長さんが結核で亡くなった時には、みんなで一晩中泣き明かした。消防の依頼で消火栓を町中に設置したり、長い時間をかけて教会を元通りに再建したりもした。あの火事の日になると毎年小さな花火大会をする。用意するのはもちろん私だ。

 楽しい人生だった。欠けた前半を補っても、まだ余りあるくらいに。私としてはこのまま何も思い出せず、残り短い人生を終えたとしても悔いは無い。

 そんなことを考えながら、町へ戻る。今度の行き先は約束の相手、アオイ・モーターズ。

 アオイ社が本部としている町の中心にある工場が待ち合わせ場所だ。門のところで職員に顔を見せると、無言で通される。そして同時に建物の出入り口が開いて、中から黒いスーツを着た東洋人らしき男が現れた。

「どうも、お待ちしておりました。私は社長の秘書をしております、シンドウと申します」

 社長の秘書にしては若い男だった。眼鏡の奥の目は笑った形に細められているが、その更に奥に何か得体の知れない感情がある気がする。案内されるままに工場の中を通り、会議室と貼り紙のされた部屋に着いた。

 シンドウがノックをする。返事はすぐだった。

「入りたまえ」

 シンドウがドアを開き、手で私に入るように示す。部屋の中には一人の男が座っていた。

 その男を見た瞬間、私は全て・・を思い出した。

「ヨシノブ・アオイ、この会社の社長だ。よろしく頼む」




 面会を終えた私はすぐにある場所へ向かった。

 狭く入り組んだ路地を抜け、辿り着いた先はとある小さな工場。最近まで汽車の部品を作っていたが、経営不振で潰れたばかりのはずだ。

 閉鎖された工場のすぐ傍、塀の陰に一人の少年がうずくまっていた。ツギハギだらけの汚れた服を着て、地面に落ちた何かの歯車をいじっている。少年は私に気付くと、独り言のように話しだした。

「父さんと母さんが帰って来ないんだ」

 ボサボサとした赤い髪の毛が目元にかかっている。そこから透き通った光を含んだ目が、私の方を見ていた。

「ここのところずっと。工場にも家にも居ない」

 ここにうずくまっている理由は話したから、さっさとどこかへ行ってよ。そう言いたげな雰囲気だった。少年は私から視線を外し、再び歯車をコロコロと転がす。

「名前は?」

 私が聞くと少年はもう一度私に視線を戻し、少しだけ笑って答えた。


「ウィルバー。ウィルバー・ボーダーズだよ」

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