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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.9 住むべき場所

 話が決まると、私は暖炉の奥を覗き込んだ。

 熾火(おきび)はまだわずかに残っている。薪を探しに出る前に、何か少しだけ腹へ入れておいたほうがよさそうだった。


「その前に、軽く食べてしまいましょうか」


 そう言うと、レディヴィアは一度だけ目を伏せてから頷いた。


 並んで厨房に向かう間、靴音だけが並ぶ。


 食料庫から燻製肉を少し切り、厨房の隅に立てかけてあった細い鉄串へ刺した。火にかざすと、すぐに脂がじわりと浮く。燻した匂いが静かな厨房へ広がった。


 隣でレディヴィアが茶葉の包みを持ち上げる。


「こちらも使いますか」


「そうですね。湯だけでもあると違いますから」


 レディヴィアが水を汲みに向かう。


 少しの間、火を眺めていると、肉はちょうどいい焼き目が付いていた。


 指を軽く動かすと、鉄串から肉が浮かび、二つに分かれて器に乗せられた。

 小鍋も、手を伸ばさずに机の端へ寄せる。

 一人でいる間くらいは、こういう細かな支度を手でやる必要もない。


 それだけ済ませたところで、廊下の向こうから足音がした。


「水、持ってきました」


「ありがとうございます」


 レディヴィアの汲んで来た水を小鍋に移し、火にかける。

 それから肉の乗った器を持ち上げた。昨日ほど器を選ぶ必要もない気がして、そのまま近いほうを渡した。レディヴィアは何も言わず、ただ自然に受け取った。


 やがて湯気が立ち、茶葉を落とす。


 立ったまま、肉をひと口(かじ)る。塩気が強い。だが、空の胃にはそのくらいがちょうどよかった。熱い茶を少し含むと、冷えていた喉の奥がようやく人心地つく。


「朝は、こういうものでよいのですね」


 レディヴィアが椀を持ったまま言う。


「働く前なら、十分です」


 それきり、しばらくは肉を噛む音だけが続いた。

 燻した脂の匂いと、薄い茶の湯気だけが、冷えた厨房に残った。


 私は最後のひと口を飲み込み、椀の底を見てから息を吐く。


「では、行きましょうか」


「はい」


 まずは、薪にできそうな木を探すことになった。

 城の中は広い。昨日見たぶんだけでも、もう使い物にならない机や棚も多いはずだ。


「乾いていて、割れやすくて、釘が少ないものがいいですね」


 そう言いながら、私は談話室らしい長い部屋の中を見回した。窓板は半分外れ、埃と古い布切れが床に溜まっている。壁際には、片脚の折れた机と、棚板の抜けた戸棚が倒れかかっていた。


 レディヴィアが、その戸棚へ目をやる。


「これは、燃やしてよいのでしょうか」


「そうですね。もう家具としての役目は終わっています」


 私は長椅子に近づいて座面を叩く。乾いている。

 傷んではいるが、まだ座れそうだった。


「こちらは残しましょう」


「分かるのですね」


「半分は勘です」


 私がそう答えると、レディヴィアは真面目な顔で戸棚の片端に手をかけた。次の瞬間、私は思わず口を閉じる。


 押して運ぼうとしたそれを、彼女はただ静かに持ち上げ、向きを変え、部屋の中央へ運んだ。重そうに見えない。床板の軋む音だけが遅れてついてくる。


「……ありがとうございます」


「これでよかったですか」


「ええ。十分すぎるほどに」


 まずは燃やしてよさそうな木を部屋の中央へ寄せておく。遠い部屋の木から燃やしたほうが、日ごとに運ぶ手間が減る。


 次の部屋では、扉の前でレディヴィアが足を止めた。


「ここは、少し」


「崩れそうですか」


「床ではなく、上です」


 言われて見上げると、梁の一部がたわんでいた。石の裂け目に古い木が噛んだまま、辛うじて形を保っている。うっかり中で家具を動かせば、その振動だけで何かが落ちてもおかしくない。


「……入らないほうがよさそうですね」


「はい」


 そのあとも、いくつかの部屋を見て回った。


 書記官の部屋だったのか、足の欠けた小机と紙屑の残る部屋。

 兵の待機所だったのか、壁際に粗い寝台が並ぶ部屋。

 礼拝室の名残らしい、何も燃やせそうなものがない石の小間。


 どの部屋でも、使えない木は中央へ寄せた。私は板の乾き具合や釘の数を見る。レディヴィアは重いものを動かす。

 そのたび、私が踏み出すより半歩早く、彼女が「そちらは駄目です」と言った。見上げれば、梁か壁の継ぎ目に小さな歪みが残っている。


 言葉は多くなかった。けれど、昨日より少しだけ、同じ作業が同じ速さで進む。

 そうして三部屋目か四部屋目を出た頃、私は妙なことに気づいた。


「……こちらだけ、床がきれいですね」


 廊下の奥まった一角だった。そこまでの石床はどこも灰色に埃をかぶっていたのに、その部屋の前だけは、薄く積もった埃が不自然に少ない。


 扉も、ほかより滑らかに開いた。

 中へ入った瞬間、私は足を止めた。


 寒さは同じはずなのに、空気の質だけが違う。誰かが整え、誰も使わず、そのまま置いていった場所の匂いだった。


 寝台がひとつあった。二人で使っても余る大きさで、掛布も厚い。脇の卓子には燭台が対で置かれ、窓辺には水差しまで整えられている。


 綺麗だった。


 だからこそ、ひどく居づらかった。

 レディヴィアが箪笥の前へ歩み寄る。私も卓子のそばへ寄った。


 卓上に、指輪がひとつ小箱に納められていた。大きい。私にも、レディヴィアにも合うはずがない。

 箪笥の中には、着替えのほかに上等な手袋と、外套、それから男物の室内履きまであった。


「……こちらも」


 レディヴィアが低く言う。


 振り向くと、彼女は箪笥の下段から小さな箱を出していた。中には櫛と香油、白い布巾、髪を結うための紐。こちらは女の身支度に寄っている。整えられた花嫁のための品だ。


 人の側が、魔王のために置いたのか。

 魔の側が、勇者に差し出すために置いたのか。


 主のための部屋。

 付属品みたいに置かれた花嫁のための櫛と布。


 私は寝台のほうを見た。厚い掛布、整えられた枕。昨夜の長椅子より、はるかにましだ。レディヴィアは寝台の脇まで行ったが、掛布の端へ指を伸ばしかけて、そのまま手を下ろした。


「……よく、揃っていますね」


「ええ」


「なのに」


 彼女はそこで言葉を切った。私のほうを見ないまま、静かに続ける。


「ここにいるのは、少し違う気がします」


 私は小さく頷いた。


「私もです」


 それだけで十分だった。

 誰にも、顔を見ないまま整えた部屋。

 私は卓子の上の指輪を小箱ごと閉じた。


「……戻りましょうか」


 ようやくそう言うと、レディヴィアはすぐに頷いた。


「はい」


 扉を閉める。廊下へ出ると、埃っぽい空気がむしろ気楽に思えた。さっきまでいた部屋のほうがよほど整っていたはずなのに、こちらのほうが息がしやすい。

 少し歩いてから、レディヴィアが小さく言った。


「昨日の部屋のほうが、まだましです」


 私は思わず口元をゆるめる。


「わかります」


 昨日の部屋は寒い。長椅子は固い。

 それでも、私たちが一度、そこで夜を越した。


「たぶん、しばらくは昨日の部屋を使います」


「そのほうがよいと思います」


 そう決めて、私たちはまた廊下の先へ歩き出した。


 昨日の部屋へ戻る角をひとつ見送り、今度はその反対側へ折れる。こちらはまだほとんど見ていない区画だった。石の壁は同じように冷たく、ところどころ燭台の台座だけが残っている。床は古いままだが、先ほどの整えられた部屋ほど作為めいた気配はない。ただ使われなくなって久しいだけの、素直な荒れ方だった。


 廊下はゆるく下りになっていた。

 少し進むと、空気の匂いが変わる。埃の乾いた匂いに混じって、石の冷えとは別の、湿り気を含んだ重さがあった。


 レディヴィアが足を止める。


「……水の匂いがします」


「水場に近いのでしょうか」


「たぶん。流れている、というより、溜まっている気配です」


 その言い方に、私は少しだけ耳を澄ませた。こちらには何も聞こえない。けれど確かに、廊下の石床はさっきまでよりわずかに冷たかった。壁の継ぎ目にも、白く乾いた水垢のような跡が残っている。


 先へ進むと、突き当たりに両開きの重い扉があった。

 鉄の輪がついた、無骨な扉だ。飾りはない。


「ここでしょうか」


 私が輪に手をかけるより先に、レディヴィアがそっと扉へ触れた。


「向こうは、少し広いです」


 押す。

 最初はびくともしなかったが、二人で力をかけると、木が軋み、石床を擦る低い音とともにゆっくり開いた。


 冷たい湿気が、静かにこちらへ流れ出る。


 中は、思ったよりも広かった。


 兵たちのための浴場か、あるいは長い籠城に備えた洗い場だったのだろう。

 豪奢さはない。けれど、湯や水を使うための導線だけはきちんと考えられている。


 床を一段掘り下げた先に、浅い石造りの湯船がある。壁際に桶を置く棚の跡、片隅に朽ちた木枠。冬の光が天井の窓から薄く落ちていた。


「……浴場、でしょうか」


 レディヴィアが慎重に中へ入る。私もあとに続いた。石床はところどころ湿っているが、滑るほどではない。床の隅には排水の溝が走り、その先は格子になっていた。


 湯船の縁へ手を置く。石は冷え切っていた。

 奥を見ると、壁の向こうへ続く細い水路があり、その口は厚い板で塞がれている。止水板だろう。木は古いが、腐りきってはいない。横には鉄の取っ手が残っていた。


「水を止めていたのですね」


 取っ手に触れてみる。固いが完全に動かないわけではない。少しだけ持ち上がる感触があった。

 レディヴィアが隣へ来て、私の手元を見た。


「持ち上げましょうか」


「お願いします」


 彼女が取っ手を握る。ほんの少し力を入れただけで、板は思ったより素直に持ち上がった。長く動いていなかった木が、濡れた音を立てる。

 次の瞬間、向こう側で溜まっていたらしい水が、ごぼりと息を吹き返した。


 最初は濁っていた。灰色の筋が石の底を這い、溜まっていた塵を巻き上げる。しばらくすると、流れは少しずつ澄み、湯船の底の石目が見え始める。


 私は周囲を見回す。

 壁際のさらに奥、煤けた煉瓦囲いが目に入る。近づけば、小さな炉だった。湯を沸かすためのものだろう。灰は古いが、煙道はまだ残っている。掃除をして薪をくべれば、使えなくはないかもしれない。


「湯沸かし用の炉みたいです。灰を出して、煙道が詰まっていなければ」


「使えますか」


「すぐには無理でも、どうにかは」


 そう答えたところで、自分の手の甲が目に入った。昨日の煤がまだかすれている。レディヴィアの裾にも、乾いた土がついていた。


「……使えるようになれば、助かります」


 彼女の言葉に、私は深く頷いた。


 湯船の縁に沿って、さらに小さな石槽が二つ並んでいる。こちらは体を拭くための水を溜める場所かもしれない。棚には、朽ちた桶の輪だけが残っていた。布はないが古いシーツや布地を切って使えばいいだろう。


「今日のうちに、ここも整えたいですね」


 そう言うと、レディヴィアがこちらを見る。


「湯浴みが出来ますか」


「夜までに炉が使えそうなら、少しだけでも」


 言いながら、レディヴィアがわずかに口元を緩めた。


「では、今日は忙しいですね」


 私は小さく笑う。


「そうなりそうです」


 流れ込む水の音が、静かな浴場に細く続いていた。

 たぶん今の私たちに要るのは、整えられた部屋ではなく、こちらだ。


「戻りましょうか」


「はい」


 扉を閉める前に、もう一度だけ浴場を眺めた。

 たぶん、レディヴィアも同じ顔をしているだろう。

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