ep.8 二日目
馬の嘶きで、意識がゆっくり浮いた。
眠りが浅かったのか深かったのか、自分でもよく分からない。ただ、まず肩のあたりに、冷たくて硬いものが当たっている感触があった。
目を開く前に、それが細く湾曲していると分かる。
何だろうと思ってから、ああ、と遅れて分かる。
角だ。
そこで目を開けた。
暖炉の火はほとんど落ちている。灰の奥に赤い熱がかすかに残り、その上を薄い朝の光が撫でている。窓の隙間から入り込む朝の光は薄く、部屋の輪郭を静かに露わにした。
毛布の下だけが、まだ少し熱を残していた。
その熱が暖炉の名残だけではないと分かるくらいには、隣が近い。
少し身じろぐと、肩に触れていた角もわずかに動いた。
私の気配で目が覚めたのか、隣でレディヴィアもゆっくりと瞼を開く。
しばらく、互いに何も言わなかった。
たぶんこちらと同じように、状況を思い出しているのだろう。
その沈黙のあとで、彼女は暖炉でも私でもなく、自分の衣装の裾を見下ろして言った。
「……花嫁衣装は、寝るのに適さないですね」
私は少しだけ息を吐いた。
「ええ。少なくとも、長椅子との相性は最悪です」
その返事に、レディヴィアはほんのわずかだけ目元を緩めた。
毛布を退けて立ち上がる。途端に冷えが足元から這い上がってきた。固い椅子に預けていた背と腰が、遅れて痛む。腕を上げれば肩が突っ張り、衣装の飾り紐がどこかで引っかかった。レディヴィアも立ち上がって、ひとつ息をつく。長い袖が少し皺になっていた。
その時、また馬が鳴いた。
今度は昨夜より近く、はっきりと聞こえる。二人ともほとんど同時に扉のほうを見た。
「……見に行きましょう」
「はい」
部屋を出る。
朝の城は、夜よりもかえって広く見えた。薄い光のせいで壁も床も輪郭だけが先に浮き、寒さばかりがはっきりしている。 外へ出ると、朝の空気は思った以上に冷たかった。冬の白い光が城塞の石へ平たく落ち、霜とまではいかないが、靴裏の土は固く乾いていた。
崩れかけた囲いのそばには、二頭ともいた。
片方は木柵の陰で首を下げ、もう片方は外門のほうを向いて耳を動かしている。逃げてもおかしくなかったのに、結局、夜のうちにどこへ行くでもなかったらしい。
「揃っていますね」
そう言うと、レディヴィアは馬の鼻先を見ながら小さく頷いた。
「寒かったのか、空腹だったのか」
「たぶん、どちらもでしょう」
囲いの床には、霜が薄く降りていた。水も餌も無かったのだろう。嘶くくらいは当然だ。私たちはすぐに井戸のある小さな中庭へ戻り、水を汲む桶を探した。まともな桶は見つからなかったが、片縁の欠けた大きめの鉢なら使えそうだった。二度三度と水を運び、馬の前へ置く。二頭は最初こそ用心深く鼻先を寄せたが、やがて静かに水を飲み始めた。
餌になりそうなものを探すため、今度は食料庫と物置を見て回る。
まともな干し草は残っていなかったが、外庭の兵舎裏、古い納屋の隅に、湿っていない藁束がわずかに残っていた。食用には向かない粗い麦粒も袋の底に少しある。人が食べるには惜しいが、今朝の馬にはそのくらいしかない。
藁をほぐし、麦を混ぜる。
手が冷える。袖が邪魔だ。金糸の入った布地は、水を汲むにも藁を抱えるにも実に向いていない。裾には朝露と土がつき、指先で払っても取れない埃が増えていく。
私が藁束を抱え直していると、レディヴィアが馬の前へそれを置きながら言った。
「……彼らもここに残るなら、同居人ですね」
私は藁屑のついた袖を見下ろし、それから思わず少し笑った。
「私たちより先に、この城塞へ馴染むかもしれません」
馬は返事の代わりに鼻を鳴らした。
その音だけで、朝の空気が少しだけやわらぐ。
世話を終えて立ち上がった時、ようやく私はレディヴィアの姿をまともに見た。
昨夜のままの花嫁衣装は、もうほとんど花嫁のものには見えない。裾には乾いた泥が飛び、袖口には藁がつき、布地は長椅子で眠った皺をいくつも残している。髪も、整えられてはいるのに完璧ではなく、朝の光の下では昨日の飾り立てた印象がずいぶん薄れていた。
たぶん、私も同じようなものだろう。
レディヴィアもまた、こちらを見ていたらしい。
視線が私の裾から肩口へ、それから髪飾りの崩れた位置へと移る。妙に真面目な顔のまま、彼女は言った。
「……ひどいですね」
「ええ。かなり」
それだけで十分だった。
視線が自然と、昨日のままにしてあった馬車へ向く。
嫁入り道具を積んだ、紋章のない箱。昨夜は運び込む余裕もなく、そのままだった。今見ると、ようやく手をつけるべき荷物に見えた。
「……着替えましょうか」
私が言うと、レディヴィアは少しだけ首を傾げる。
「代わりがあるのですか」
「嫁入り道具に、服くらいは入っているでしょう」
「なるほど」
馬車の荷台に上がると、幾つかの箱から一番大きい箱が目に付いた。
蓋は重かったが、二人で開いた。飾りの多い布の下に、旅装に近い仕立ての服がいくつかあった。
「こちらなら、まだ」
「使えそうですね」
布の仕立てはどれもゆとりがあり、背丈もさほど違わない。
互いに服を抱えたまま暖炉の部屋へ戻った。
暖炉の赤みはほとんど消えかけていたが、まだ完全には冷えきっていない。私たちは少し離れて立ち、それぞれ黙って飾りを外し始めた。
金具は思ったより多く、冷えた指先では留め具も固い。私は髪飾りを外して卓へ置き、肩の重い布を一枚ずつ外した。背後でも、似たような布擦れの音がしている。
途中で、レディヴィアのほうから小さな声がした。
「……これは、どこで留まっているのでしょう」
振り返らずに尋ねる。
「背中の紐ですか」
「たぶん」
「少しだけ、失礼します」
短く断ってから、振り返る。
レディヴィアはきちんとこちらに背を向けていた。指先が、複雑に交差した紐の前で少し止まっている。私は結び目を見つけて緩めた。布がひとつ軽くなる。
「ありがとうございます」
「いえ」
それで終わり。
あとはまた背を向ける。
やがて、重ねすぎた布の音が途切れていく。
花嫁衣装は床の上へ順に落ち、朝の光を受けて静かに広がった。
それを見ても、私たちは特に何も言わなかった。
新しい衣服に袖を通す。
厚手の布は少し硬いが、動きやすい。裾は短く、腕も上がる。腰の位置で結べば、それだけで体がずいぶん軽くなる。外套を羽織り、編み上げをきつく締める。ようやく、今日一日を動ける格好になった気がした。
整え終えて振り返ると、レディヴィアも実用服に身を包んでいた。角だけが相変わらずそこにあった。それ以外は、昨日とは別の人のように見えた。
レディヴィアは袖を見下ろし、指先で布をつまむ。
「こちらのほうが、ましですね」
私も自分の裾を見た。
草がついても払いやすい。水を汲んでも邪魔にならない。そう思っただけなのに、胸のどこかがわずかに軽かった。
「少なくとも、あちらよりは向いていますね」
床に残った花嫁衣装のほうへ視線をやる。
あれをどうするかは、またあとで考えればいい。今はまだ、今日を始めるほうが先だ。
私は長椅子の前へ立ち、部屋の中を見回した。
暖炉。寝台。窓。扉。
昨日は無事だっただけ、暮らせるようになったわけではない。
「……今日することを、決めましょうか」
そう言うと、レディヴィアは素直に頷いた。
「はい」
私は指を折って数える。
「まず、火を絶やさないための薪を集めること。次に、この城の中で使える部屋をもう少し見て回ること。台所と水場の近くに物を寄せたほうが、たぶん暮らしやすいです」
「食べ物は」
「それも確認します。何日ぶんあるのか。足りないなら、外で拾えるものや使えるものを探さないと」
レディヴィアは少し考えるように目を伏せた。
「寝る場所も、そのままでよいのでしょうか」
私は長椅子を見た。昨夜の名残みたいに、毛布がまだ半分ずつ崩れている。
「今夜までは、あの部屋でよいと思います。ですが、長く使うなら寝台や椅子をもう少し整えたほうがいいですね」
「では、掃除も必要です」
「ええ。かなり」
そこでレディヴィアは、窓の外へ視線を向けた。
「荷物も、まだ開けきっていません」
「それもありましたね」
嫁入り道具、という名前だけは立派な箱だ。けれど今となっては、飾りより先に、毛布や器や使える布が入っているかのほうが大事だった。
「……思ったより多いですね」
私がそう言うと、レディヴィアがごく小さく頷く。
「でも、やらないといけません」
私は少しだけ口元を緩めた。
「ええ。残念ながら」
火の落ちた暖炉の奥を見てから、私はもう一度指を折る。
「では、順番に。薪を集めて、使える部屋を見て、荷物を確かめる。昼までにそこまでできれば、今日は十分でしょう」
「分かりました」
レディヴィアはそう言ってから、ほんの少しだけ首を傾げた。
「薪を集めた後は、私は何をしたらいいでしょう」
問われて、私は少し考えた。
昨日なら、その問いにすぐ答えられなかったかもしれない。けれど今は、前よりはましだった。
「一緒に見て回ってください」
「一緒に」
「ええ。私一人では見落とすことがありますし、レディヴィア様のほうが分かることもあるでしょう」
彼女はしばらく私を見ていたが、やがて静かに頷いた。
「……では、そうします」
それで話は決まったらしい。
私は外套の紐を結び直し、レディヴィアも袖口を整える。まだ寒い朝の光が、窓の隙間から細く差し込んでいた。
昨日は、ここへ来ることしか決められていなかった。
けれど今日は、少なくとも今日のぶんだけは、自分たちで決めてよい。




