ep.7 初日、夜
暖炉の部屋へ戻ると、火はまだ落ちきっていなかった。
赤く沈んだ熾火の奥で、ときおり細い薪がぱち、と小さく鳴る。厨房よりはましだが、部屋全体が暖かいわけではない。石壁は相変わらず冷たく、窓際には夜気が薄く滞っているようだった。
私は扉を閉め、背を向けたまま一度だけ息を吐いた。
食事を終えたことで、何かが片づいたような気がしていた。けれど実際には、まだ今夜そのものが残っている。
視線を上げれば、壁際の寝台が目に入った。
粗末ではあるが、板はまだ軋みすぎていない。掛布も、埃を払ってしまえば今夜ひと晩くらいは使えそうだった。長椅子のほうは暖炉に近いが、二人が十分に横になれる幅はない。座って休むにはよくても、眠るには心許ない。
「……寝る場所を決めませんとね」
そう言うと、レディヴィアも同じものを見たらしい。
その視線が、暖炉から長椅子へ、長椅子から寝台へ移る。
「寝台はあなたに」
「いえ」
考えるより先に言葉が出た。
レディヴィアが少し目を見開く。
「レディヴィア様がお使いください」
「なぜですか」
「なぜ、と言われましても……」
そこで言葉が詰まる。
レディヴィアは静かに首を傾げた。
「私は、人の婿へ従うように言われました」
「ですが、私は婿ではありません」
「ですが、花嫁ではあるのでしょう」
「そうですが」
「ならば、あなたが」
「レディヴィア様も花嫁でしょう」
そこで会話が止まる。
火の音だけが、やけに小さく聞こえた。
私たちはしばらく黙っていた。
どちらも本気で譲ろうとしているのに、譲られた側がそこへ収まる理屈を持てない。器の時と同じだ。違うのは、今度は寝る場所だということだけで、だからなおさら始末が悪かった。
レディヴィアが寝台へ近づく。
けれど腰かけるでもなく、指先で掛布の端に触れただけで手を離した。
「……この寝台は」
「はい」
「誰かが、ここにいるための場所に見えます」
その言い方に、私は少しだけ目を伏せた。
よく分かると思った。私も同じことを感じていたからだ。
ここへ来るべき主がいて、従うべき誰かがいて、そのために置かれたまま空いている場所。今の私たちには、そのどちらの形もない。
レディヴィアは寝台から離れ、暖炉のそばの長椅子へ目を向けた。
「私は、ここで休みます」
言い切るほど強い声ではなかった。
けれど曖昧でもない。自分で決めた者の静けさがあった。
私は思わず問い返す。
「長椅子で、ですか」
「はい。火に近いので、悪くありません」
「ですが、狭いでしょう」
「寝台も、今は……うまく使えそうにありません」
それはたぶん、私に向けた遠慮ではなかった。
彼女自身にとっても、あの寝台はまだ誰かの場所すぎるのだろう。
レディヴィアは暖炉の前へ歩み寄り、長椅子を少しだけ引いた。石床を擦る低い音が鳴る。火に近づけすぎれば熱が偏るし、遠すぎれば寒い。その半端な位置で、彼女は手を離した。
「ここなら、火も見えます」
「……では、私は寝台を使えと?」
「そのほうが良いのでは」
私は答えなかった。
答えられなかった、のほうが近い。
レディヴィアだけを長椅子へ座らせて、自分だけ寝台へ横になる。
それが理にかなっているのかもしれない。けれど、そうしてしまえば、ようやく並んだものがまた少し離れてしまう気がした。
私は暖炉の火を見下ろした。赤い光が石に映っている。
それから、長椅子の端へそっと手を置く。
「……火の番をします」
口にしてから、それがあまりうまい理由ではないと自分でも分かった。
レディヴィアがこちらを見る。
「一晩中ですか」
「そこまではしませんが、まだ落ち着きませんので」
「なら、私も起きています」
「眠れなくなりますよ」
「まだ、眠る気がしません」
そこまで言われると、食い下がる口実がなかった。
それでも、私は小さく息をつき、端へ腰を下ろした。長椅子は思ったより固い。二人で座ると、間に手ひとつぶんほどの隙間しかない。
しばらく、火を見ていた。
石の部屋は静かで、火の音だけがわずかに続いている。
ふと、足元の寒さに気づく。
毛布は寝台の上に一枚、掛けられているだけだった。私は立ち上がり、それを持ち上げる。埃の匂いはしたが、湿ってはいない。
「こちらを使いましょう」
そう言って戻ると、レディヴィアが少しだけ身を引いた。
「ですが、それは」
「寝台に残しておいても意味がありません」
「あなたがお使いになったほうが」
「今は、ここにいるでしょう」
返すと、彼女は少し黙った。
それから、小さく頷く。
最初は膝の上へ半分ずつ掛けるつもりだった。けれど長椅子には足りない。どうしても片方の肩が冷える。私が少し引けば彼女の腕が出る。彼女が整え直せば、今度は私の足元が寒い。
レディヴィアが毛布の端を持ったまま、真面目な顔で言う。
「……公平が難しいですね」
私は思わず笑いそうになったが、どうにか堪えた。
「凍えるよりは、多少の不公平は見逃しましょう」
その答えに、レディヴィアはほんの少し考えてから、毛布をもう少しこちらへ寄せた。
結局、肩から膝まで、二人まとめて覆うしかなかった。布越しでも互いの体温が分かるほど近い。けれど長椅子は固く、暖炉の熱も片側にばかり寄る。肩が触れれば少し窮屈で、離れればすぐ寒い。
ふと、隣に座るレディヴィアに目を向けた。
「寒くはありませんか」
しばらくして、レディヴィアが言う。
「少し」
「私もです」
「では、これで正解ではなかったのかもしれませんね」
「たぶん、今夜の正解はどれも少し外れているのでしょう」
そう返すと、レディヴィアはごく薄く目元を和らげた。
火が揺れるたび、その横顔の影も静かに動く。
「……あなたは」
彼女が言う。
「もっと、上手くできたのではありませんか」
「上手く、ですか」
「火を入れるのも、部屋を整えるのも、食事を作るのも。あなたは、もっと簡単にできたはずです」
私は少し黙った。
暖炉の火が、小さく崩れる。
「私の婚姻相手は、勇者だと聞いています」
その言葉に、私はすぐには答えなかった。
勇者は死んだ、けれど、私には勇者の紋がある。
私の罪を、ここで説明するのはまだ難しい。
「……そう呼ぶ者も、いたのでしょうね」
レディヴィアは私を見た。
驚いてはいない。ただ、確かめたかっただけなのだと分かる目だった。
「あなたは一人で、もっと何でもできたはずです」
「怒っていますか」
「いいえ」
彼女は小さく首を振る。
「ただ、どうしてそうしなかったのかと」
私は火を見たまま、少しだけ考えた。
うまい答えは、やはり見つからない。
「一人でやることもできたかもしれません」
そう言ってから、言い足す。
「……でも、それではあまり意味がない気がしました」
「なぜでしょう」
「花嫁が二人もいるのに、片方だけで済ませるのは、少し変でしょう」
レディヴィアはしばらく黙っていた。
それから、毛布の端を指先で整えながら言う。
「私も花嫁です」
「ええ。そうですよ」
火を見ているうちに、瞼が少しずつ重くなってくる。
長椅子は固いし、姿勢も楽ではない。なのに、暖炉の熱と食後の気だるさのせいで、身体だけが先に眠りたがっていた。
隣が静かだと思って見れば、レディヴィアも目を伏せていた。
眠っているのかと思ったが、気配はまだ起きている。私が視線を向けたのに気づいたらしく、薄く目を開けた。
「……何でしょう」
「いえ」
それだけで終える。
こういう時に何を言えばよいのか、やはりまだ分からない。
しばらくして、レディヴィアが小さく言った。
「よい夜を、で合っていますか」
「……たぶん」
「たぶん」
「私も、そう言う機会があまりありませんでしたので」
すると彼女は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「では、今夜はそれで」
「ええ」
私は火を見たまま、静かに答える。
「よい夜を、レディヴィア様」
「よい夜を、アルシエラ様」
名前を呼ばれたことで、胸の奥に何か小さなものが触れた気がした。
けれど、それが何か確かめる前に、眠気がもうひとつ深く落ちてくる。
長椅子は固い。
肩も少し痛い。
火のはぜる音が、遠くなる。
隣の気配が、まだそこにある。
そのことだけをぼんやり知ったまま、私はゆっくりと目を閉じた。




