ep.6 特別な食事
そのあとで、私たちは台所を探した。
暖炉のある部屋からそれほど遠くない場所に、思ったよりまともな厨房が見つかった。壁沿いに作業台。大鍋を吊るす鉄の金具。古い食器棚。灰をかぶったままのまな板。すべて放置されていたが、使えないほどではない。
食料庫の扉も開いた。
中には、誰かが置いていった袋や籠が並んでいる。
レディヴィアが隣から覗き込んだ。
「十分でしょうか」
「贅沢は言えませんが」
袋の口をひとつずつ確かめる。
乾燥豆。粗挽きの麦。塩。干した果実。固くなったチーズ。燻製肉。干し草めいた匂いのする茶葉。どれも豪華ではない。けれど今夜を越すには困らない程度にはある。人間側か魔族側か、あるいは双方が最低限だけ置いていったのかもしれない。
「……誠意は薄いですが、まるきり飢えさせるつもりでもなかったようですね」
「それは、気を遣われたのでしょうか」
「どうでしょう」
私は食料庫の中を見回した。
乾燥豆。麦。塩。干した果実。燻製肉。
だいたいは人の食べるものに見える。けれど、見えるだけだ。
何をどう訊けばよいのか、すぐには分からなかった。
指先で干し肉をつまみ上げる。口を開きかけて、やめる。
食べられるかと尋ねるのは、どこか違う気がした。
では何と聞けばよいのかと考えても、もっとましな言葉は出てこなかった。
「……これは、食べられますか」
彼女は少し戸惑ったようにそれを受け取り、ためらいながら端をかじった。
人の食事と魔族の食事が同じかどうかは、まだ分からない。
確認のつもりだった。
けれど、口に出た形はあまりに悪かった。喉の奥が、遅れて冷たくなる。
「違っ……」
うまく続かない。
まるで、自分が彼女に先に確かめさせたことを、いまさら取り繕おうとしているみたいだった。
そうではないのに。そうではない、と言うほど、なおさらそう聞こえそうで。
「……大丈夫です」
彼女は小さく言って、噛みちぎった欠片を飲み込んだ。
「問題は、ないと思います」
私はひとつ息をついた。
安堵したのか、別の意味で胸が冷えたままなのか、自分でもよく分からない。
「……そうですか」
それだけ言って、受け取った干し肉を見下ろす。
食べられる。少なくとも、それ自体は問題にならない。けれど、だからといって何もかも同じとは限らない。塩気が強すぎるものはどうなのか、香草や茶葉はどうか、煮た豆は、麦は。知らないことばかりだった。
レディヴィアはそれ以上、先ほどのことに触れなかった。
気を悪くした様子がないのが、ありがたくて、少しつらかった。
私は食料庫の中をもう一度見回した。
袋と籠の数は多くない。選り好みをしてよい状況でもなかった。今あるものでどうにかするなら、まず考えるべきは味より先に、無難に腹を満たせるかどうかだ。
「念のため、聞いてもいいですか」
そう言うと、彼女は静かにこちらを見た。
さっきより言葉を選ばなければならない、と思うだけで少し喉が詰まる。
「食べられるかどうか、ではなくて。食べないほうがいいものはありますか。身体に障るものとか」
問うてから、自分の言い回しが今度こそましだったかどうか、自信が持てなかった。けれど彼女は先ほどのような戸惑いを見せず、ほんの少しだけ視線を落とした。
棚の奥にある茶葉の包み、干した果実、豆の袋へと、順に目をやる。
何かを思い出しているというより、今まで与えられてきたものを静かに並べ直しているように見えた。
彼女はしばらく考えてから答えた。
「だいたいのものは食べられます。たぶん、人と大きくは違いません」
「たぶん、なのですか」
「与えられたものを食べていましたので」
その一言で十分だった。
料理を知っているかと尋ねるのはやめた。答えはほとんど出ている。
結局、今夜は麦と豆を煮ることにした。
干し肉を少し裂き、塩を足す。鍋は重かったが使えた。水場まで何度か往復し、作業台を拭き、火を移す。レディヴィアは私の手元をじっと見ていたが、やがて黙って水を運び始めた。鍋の蓋を探し、椀を拭き、布を乾いたものとそうでないものに分ける。何を頼めばよいか分からなくても、今必要なものは自分で見つけるつもりらしかった。
煮えるまでの時間、厨房は妙に静かだった。
暖炉の部屋とは違う火の音。鍋の底で豆が揺れる音。外の風が板戸を鳴らす音。二人分の気配。
しばらくすると、鍋の蓋が小さく鳴り始めた。
豆の匂いに、麦のやわらかな甘みと、裂いた燻製肉の塩気が混ざる。豪勢とは程遠い。けれど、冷えた石の城で嗅ぐには、それだけで十分に食事の匂いだった。
私は木匙で鍋をひと混ぜし、豆をひと粒だけ掬って潰す。まだ少し固い。もう少しだけ火にかける。
レディヴィアは向かい側で、拭き終えた椀を二つ並べていた。
器を見比べていたらしい。片方を私のほうへ寄せかけ、ふと止まる。
「……どちらを使うのが正しいのでしょう」
思わず顔を上げる。
「正しい?」
「こういう時は、立場の上の者が、傷の少ない器を」
そこで言葉が途切れた。
私もまた、何と言えばよいのか分からなくなる。
花嫁として従え。
その教えだけをそれぞれ抱えてここへ来た二人に、今さら上下など決められるはずもなかった。
「……では」
私は鍋から手を離し、椀を見ずに寄せる。
「今日は、近いほうを取りましょうか」
レディヴィアは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「はい。それなら、公平です」
公平、という言葉が妙におかしくて、少しだけ口元が緩む。
私は手前の椀を取り、鍋の中身をよそった。もう片方にも同じだけ注ぐ。豆と麦は素朴な色をしていて、裂いた肉だけがところどころ濃く沈んでいる。
湯気が立つ。
冬の冷えた厨房では、それがそれだけで頼もしかった。
椀を渡すと、レディヴィアは両手で受け取った。
熱が掌に移ったのだろう。目がほんの少しだけ伏せられる。
「熱いですね」
「ええ。火を入れたばかりですから」
「食べ物は、本来こういうものなのですか」
問いの意味を測りかねて、私は一度だけ彼女を見た。
冗談ではない。純粋な確認だった。
「温かいほうが、私は好きです」
そう答えると、レディヴィアは椀を見下ろしたまま、ごく小さく頷いた。
「……私も、好きです」
近くに転がしてあった木箱へ腰を下ろす。ほどなくして、レディヴィアも隣の木箱へ静かに腰かけた。
湯気が、二人のあいだで細く揺れている。
どちらから口をつけるべきか、一瞬だけ迷う。
こういう時の作法を考え始めると、たぶんまた止まる。私は匙を取り、先にひと口だけ口へ運んだ。
塩気は控えめだったが、燻製肉の匂いが豆と麦に移っている。粗末な鍋にしては、悪くない。
「……大丈夫そうです」
そう言って顔を上げると、レディヴィアはまだ椀を両手で持ったまま、こちらを見ていた。
「レディヴィア様も」
促すと、彼女は小さく頷き、匙を取った。
動きは慎重だった。熱を逃がすようにひと息だけ吹いて、それから静かに口をつける。
私は少し待ってから尋ねた。
「どうですか」
レディヴィアはすぐには答えなかった。
飲み込んでから、椀の中を見下ろしたまま言う。
「……悪くありません」
それだけだった。
けれど、無理に言わせた言葉ではないと分かる声だった。
「そうですか」
私もまた、それだけ返す。
あとは、しばらく言葉が続かなかった。
匙が椀の縁に当たる小さな音と、火のはぜる気配だけが、静かな厨房に残る。食べながら流暢に話せるほど、私たちはまだ互いに慣れていない。けれど、沈黙が苦しいほどではなくなっていることに、途中で気づいた。
少しずつ、椀の中身が減っていく。
豆も麦も、見た目より腹にたまった。冷えた身体に落ちていく熱が、遅れて腹の底へ残る。
先に空いたのは、どちらの椀だっただろう。
気がつけば鍋の底も見えはじめていて、私は木匙で最後のひと掬いを分けた。
食べ終えたあと、しばらく誰も動かなかった。
空になった鍋。
空の椀。
火の残る暖かさ。
思っていたより、ずっとお腹が空いていたらしい。
レディヴィアが、手の中の椀を見下ろしたまま、小さく息を吐く。
その横顔を見て、たぶん私も同じような顔をしているのだろうと思った。
腹の底に残る温かさだけが、今は妙にはっきりしていた。
先に立ち上がったのは、私だった。
「……片づけましょうか」
そう言うと、レディヴィアもすぐに腰を上げる。
私は鍋を持ち上げ、底に残ったわずかな汁を木匙で掬った。
もう残すほどでもない。匙で口へ運び、それから鍋を傾けて中を確かめる。
「……きれいに空きましたね」
レディヴィアが言う。
「思ったより食べました」
「ええ」
それ以上の説明は要らなかった。
椀を重ね、水場まで運ぶ。石の床を踏むたびに、さっきより身体が軽い。寒さがなくなったわけではないのに、腹に落ちた熱に安心する。
水盤のそばで屈み、椀をすすぐ。
冷たい。指先がすぐに痺れる。私は息を吐き、布で内側をぬぐった。
隣で、レディヴィアが鍋を洗おうとしていた。
だが勝手が違うのか、柄のない重みを少し持て余している。鍋の縁が石に当たり、かつりと乾いた音がした。
「貸してください」
鍋を受け取って、水を入れる。底に張りついた豆を木匙でこそげ、もう一度すすぐ。横からレディヴィアがその手元を見ていた。
「そう洗うのですね」
「そう難しいものでもありませんよ」
「ですが、私は知りませんでした」
その言い方が静かすぎて、私は少しだけ手を止めた。
「……私も、最初から知っていたわけではありません」
鍋の水を捨てながら言う。
「一人で暮らすようになって、覚えました。覚えないと困りましたので」
レディヴィアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「では、私も覚えます」
私は鍋を拭きながら、わずかに頬をあげた。
洗い終えた椀と鍋を持ち帰る。
厨房の棚を確かめ、比較的ましな一段へ並べた。火はまだ落ちきっていない。残った湯気と、薄い煤の匂いが、静かな部屋の中にとどまっている。
布を畳み、匙を拭き、作業台の上をもう一度だけぬぐう。
さっきまで食事をしていた痕跡が、少しずつ消えていく。けれど完全には消えない。鍋を使い、椀を洗い、火を通した匂いだけが、まだこの場所に残っていた。
レディヴィアが、棚へ椀を戻しながらぽつりと呟く。
「少しだけ楽しかったです」
私は小さく笑った。
「ええ。婚姻初日にしては、良いのか悪いのか、といった所ですが」
レディヴィアは真面目な顔のまま、ほんのわずかに目元をやわらげた。
「前例がないので、比較できません」
それはそうだ、と言いかけて、やめる。
代わりに、私は暖炉の部屋のほうを振り返った。火はまだ残っている。夜はこれから長い。
「戻りましょうか」
「はい」
それだけ言って、私たちは並んで厨房を出た。
片づいたあとの静けさは、何かを終えた場所の静けさだった。




