ep.5 花嫁としての一日
しばらく進んだところで、私は足を止めた。
「……まず、この子たちをどうにかしなければなりませんね」
手綱の先で、馬が小さく鼻を鳴らす。ここまでよく歩いてきた。馬車を引いたままでは城の中までは入れない。
レディヴィアは馬の横顔を見上げ、それから馬車へ視線を移した。
「つなぐ場所が、必要でしょうか」
「本来なら」
そう答えながら、あたりを見回す。兵舎らしい建物の裏手、崩れた壁の向こうに、低い木柵の残骸が見えた。半分ほど朽ち、ところどころ外れている。囲いと呼ぶには頼りないが、何もないよりはましだった。
「あちらに、古い囲いがあるようです」
馬を引いて近づく。近くで見れば、やはり厩舎の名残らしかった。柱は傾き、屋根の一部は落ちている。だが風を避けられる壁はまだ残っているし、床の石も比較的平らだ。藁はない。餌桶も砕けていた。ただ、少なくとも馬車を切り離して置いておくには使えそうだった。
私は荷台の固定具に手をかける。レディヴィアは少し迷ったあと、反対側へ回って金具へ指を伸ばした。
「こう、でしょうか」
「ええ。そこを押さえてください」
革紐は冷えて固くなっていた。引いて、緩めて、もう一度引く。最後に金具を外すと、荷の重みがわずかに沈み、馬が首を振った。
ようやく馬車から解かれた二頭は、どこか困ったようにその場で足を踏み替える。走り去るでもなく、命じられるのを待つでもなく、ただ、次を決めてくれる者を探している顔だった。
レディヴィアがぽつりと言う。
「放してしまって、いなくなりませんか」
その問いに、私はしばらく馬の背を撫でてから答えた。
「かもしれません」
「それでも?」
「それでも」
目の前の耳がぴくりと動く。手の下の体温は思ったより高い。ここまで王都から運ばれてきて、門前に置かれて、それでも黙って立っていた生き物だ。
「この子たちも、もう自由でいいでしょう」
レディヴィアは何も言わなかった。
ただ、私の言葉をそのまま受け取るように、ゆっくりと馬の首もとへ手を添える。角のある手ではない。人の娘と変わらぬ、白く細い指先だった。馬は少しだけ警戒したが、逃げなかった。
囲いの内側へ導き入れ、手綱を外す。水場が近くにあれば戻るかもしれないし、戻らなくてもそれはそれで構わないと思った。王家の馬ではあっても、もう私のものではない。最初から私のものだったことも、きっと一度もなかった。
荷は後で運ぶしかない。今日はもう、それだけで精いっぱいだろう。
立ち上がると、冷えた風が襟元から入り込んだ。城塞の中へ入ってから、陽はさらに低くなっている。曇天の薄い明るさが石に吸われ、広い前庭はもう夕方の色をしていた。
「……順に考えましょう」
私がそう言うと、レディヴィアはまっすぐこちらを見た。
「順、ですか」
「ええ。今すぐ要るものから」
レディヴィアは一瞬だけ空を眺めた後、指を一つ一つ折りながら数え始めた。
「水と、寝る場所。それから食べるもの」
「火もあると嬉しいです。冬の寒さは、体に応えますから」
レディヴィアは軽く首を傾げた。
私ほどには、冬の冷えを気にしていないらしかった。
「……分かりました」
素直な返事だった。理解というよりは、認識に近いように聞こえた。
私たちは囲いを離れ、再び城のほうへ向き直る。
誰の家でもない石の城。
今夜から身を置くことになる石の城。
城の正門前へ戻りながら、壁の厚さや窓の位置を眺める。兵や荷を抱えるための造りだ。城としての華やかさより、防備の都合が先にある。だからこそ、暖を取る部屋があるとすれば、内側に寄った場所だろう。
「暖炉がある部屋を探します」
「分かるのですか」
「見当がつく、くらいですが。こういう城は、人を泊めるための部屋より、先に兵を生かすための部屋が作られます。暖を取れる部屋は、風の抜けない側に寄ることが多いので」
レディヴィアは感心したようでも、驚いたようでもない顔で聞いていた。
「あなたは、よく知っているのですね」
「本で読んだだけです」
「本は、便利ですね」
「ええ。だいたい、裏切りません」
そう答えると、レディヴィアは少しだけ考えるように目を伏せた。
たぶん彼女は、本に頼る暮らしをしてこなかったのだろう。
城に入り、広間を抜ける。
最初の部屋は、外見のわりにひどかった。
重い扉を押して入れば、窓の板戸が半ば外れ、風が吹き抜けている。暖炉はあったが、煙道のあたりが崩れていて、火を入れればむしろ煙が室内へ戻りそうだった。床には砕けた石と古い木片が散らばっている。
次の部屋は、もっとましに見えて、もっと駄目だった。
壁紙めいた布は残っていたが、湿気の匂いが強い。寝台はあるものの片脚が折れ、掛布は黴の匂いを吸っていた。ここで眠れば、寒さより先に喉を悪くしそうだ。
さらに二部屋ほど見て回り、ようやく奥まった位置に、まだ使えそうな部屋を見つけた。
広くはない。執務室だったのか、長椅子と小卓が残り、壁際には仮置きにも見える粗末な寝台が一つだけ置かれている。きれいではないが、板はまだ生きていた。窓は小さく、隙間も少ない。暖炉の前には古い火掻き棒まで残っている。
私は炉の中をかがんで覗き込む。煤は積もっているが、完全には詰まっていないようだった。
「……今夜だけなら、ここで何とかなるかもしれません」
レディヴィアも部屋の中をゆっくり見回す。
壁。寝台。暖炉。扉。
どれも、もともとここにあったはずの誰かの暮らしの名残だった。今はもう、持ち主のないものばかりだ。
「さっきの部屋よりはましです」
「かなり」
それだけで、ひとまず今夜の拠点は決まったような気がした。
掃除が必要だ。薪も探さなければならない。火種もいる。寝具も、使えるかどうか確かめる必要がある。考えるべきことは多い。けれど、どこで夜を越すか分からない不安がひとつ減るだけで、人はだいぶ楽になる。
「水を探しましょう」
立ち上がりながらそう言うと、レディヴィアは扉のほうを見たまま、ふと耳を澄ますように動きを止めた。
「……水は」
「ありますか?」
「たぶん」
彼女は数歩、廊下へ出る。
私も続く。レディヴィアは音よりもっと薄い何かを拾うように首を傾けている。
「流れる音が、少し」
「井戸でしょうか」
レディヴィアは何も答えず、少し考え込んだ。
その後に、彼女は左手の奥を示した。
「あちらです」
「行けば、わかりますね」
城塞の内側へ折れる細い通路を進む。突き当たりの扉を押すと、小さな中庭に出た。石で囲われた、光の乏しい空間だ。中央に浅い水盤があり、その奥に井戸の名残が見える。釣瓶は落ち、縄は腐っていたが、水盤には細く水が落ち続けていた。壁の向こうから引かれたものらしい。冬の冷たさのせいで、表面は薄い銀のように見える。
「助かりました」
私が言うと、レディヴィアは少しだけ目を瞬かせた。
「助かりましたか」
「勿論です」
そう返すと、彼女は何か言い返しかけてやめた。
その代わり、水盤へ近づいて指先をつける。
「飲めそうですか」
「見たところは」
私は首に掛けられた銀細工を外し、水へ浸した。色は変わらない。完全な保証にはならないが、少なくとも目立つ毒や汚れはなさそうだった。
「沸かせば、たぶん大丈夫でしょう」
「あなたは、そういうことも分かるのですね」
「少しだけです。薬学の真似事をしていただけで」
「……真似事で、それなら十分では」
その言い方があまりに素直で、私は一瞬返事に困った。
褒められることに慣れていない。そんなことは、今さら説明するほどのことでもないが。
水場の位置が分かったことで、次は火だった。
水盤の脇に朽ちた木箱があり、中を探ると、湿ってはいるがまだ使えそうな木片が少し出てくる。加えて、先ほどの部屋の脇の物置から折れた椅子の脚や細板を拾えば、今夜のぶんくらいは何とかなるかもしれない。
何度か往復して薪代わりの木片を運び込んだあと、窓を開ける。
暖炉の灰を寄せ、使えない煤を掃いた。布で寝台の上をはたくと、埃が薄い雲みたいに立つ。レディヴィアは最初、その雲を正面から吸い込みそうになって小さく咳をし、それから次は顔を背けて布を使うようになった。
「……掃除は、不得意ですか」
思わずそう尋ねると、彼女は布を持ったまま、少しだけ考える顔をした。
「自分でやる必要が、あまり」
そこで止まる。
言いにくそうにしたわけではない。ただ、それ以上説明すべきことでもないと思っている沈黙だった。
「そう、そうですよね」
私がそう言うと、レディヴィアはほんの少しだけ眉を下げた。
「ですが、できないままでは困ります」
「掃除は私がやりますよ」
「いいえ」
彼女は静かに首を振る。
「私も、花嫁です」
その言い方が妙に真面目で、私は小さく息を吐いた。
少しだけ、おかしかった。
この城塞にいる二人は、まともな婚礼の席を与えられなかった花嫁で、そのくせ今は暖炉の灰をかき出し、寝台の埃を払っている。世界は本当にどうしようもなく雑にできている。
火は、結局レディヴィアがいれた。
細い木片を組み、布の端を撚って芯にするところまでは私が。
肝心の火は、レディヴィアが「燃えろ」と呟くだけだった。
炎が木へ移り、ぱち、と乾いた音が鳴る。暖炉の奥で熱が立ち上がり始めた。部屋がすぐに暖かくなるわけではない。それでも、火があるというだけで石の部屋は少し人の場所になる。




