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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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ep.4 嫁ぐべき相手

「……あの」


 声にしてから、自分でも頼りないと思う。

 花嫁として差し出され、見知らぬ魔族を前にして、最初の言葉がそれなのかと。


 相手は笑わなかった。


 ただ、目がわずかに開かれる。

 威圧でも警戒でもない。本当にこちらが話しかけてくるとは思っていなかった者の反応だった。


「フィエルクマティアより参りました、アルシエラと申します」


 名乗りながら、私はひとまず相手の手元を見た。

 何も持っていない。武器も、杖も、護衛の影もない。高位の者らしい衣を着ているのに、その立ち姿だけが妙にひとりきりだった。


 やはり、魔王その人ではない。

 近しい血縁か、迎えの使者か。あるいは、この場へ立たされただけの誰かか。


「……差し支えなければ、お名前を伺っても?」


 相手はすぐには答えなかった。

 その沈黙は気まずさというより、言葉をどう並べるか自分でも測っているような間だった。


 やがて、唇が静かに開く。


「……レディヴィア」


 低すぎず、高すぎもしない声だった。

 若い声だと思う。それでいて幼くはない。薄氷の張った水面を指先でそっと叩いた時のような、静かで、少し硬い響きがあった。


「レディヴィア、と申します」


 言い直すようにそう続けてから、彼女は一度視線を外した。

 そして次に出てきた言葉は、名乗りよりさらにぎこちなかった。


「……あの」


 今度は相手のほうが先に声を出した。


「あなたは」


 そこまで言って、また止まる。

 視線が揺れた。剣へ。私の衣装へ。顔へ。やはりその順番だった。


「あなたが、その……婿殿(むこどの)? でしょうか」


 私はすぐには返事ができなかった。


 風が吹く。

 石の冷えが靴底から上がってくる。

 馬が鼻を鳴らした。


「……婿殿?」


 思わず聞き返すと、レディヴィアは目を伏せ、言い直そうとして、それでももっと適切な語が見つからないようだった。


「人の側では、何と呼ぶのが正しいのか、まだ……よく」


「いえ、そこではなく」


 思ったより早く声が出た。

 自分でも少し驚いた。


「婿、とは……どなたのことですか」


 その問いに、レディヴィアはひと呼吸おいてこちらを見た。

 見栄も威圧もない。ただ、こう答えるしかないと思っている者の静けさだけがあった。


「私の、結婚相手です」


 私は黙った。


 レディヴィアも黙った。


 広い外庭が、急に余計なもののように感じられる。遠くの壁に馬蹄の反響が遅れて返り、さっきまで気にも留めなかった音が妙に耳に残った。


「……ええと」


 頭のどこかだけが、不思議なくらい静かだった。

 何か言わなければと思う。言葉が見つからなかった。


「レディヴィア様は、その……どなたか、人間の男性を?」


「見ていません」


 返答はきっぱりしていた。

 そこだけ、妙に早い。


「門前で降ろされて、行けとだけ言われました。あとは婿に従えと」


 声は淡々としていた。

 だがその平坦さの奥に、何か硬いものが沈んでいるのを感じた。怒りか、諦めか、そのどちらとも言い切れない冷えたものだ。


「……門前で?」


「はい」


「お一人で?」


「はい」


 そこまで答えてから、レディヴィアはようやく小さく眉をひそめた。


「人の婚姻では、違うのですか」


 皮肉ではなかった。責めでもない。

 本当に知らない者の、まっすぐな問いだった。


 私はしばらく答えられなかった。


 違う、と言うべきなのだろう。

 花や歌や祝福があるものだと。少なくとも、そうあるべきなのだと。

 私自身、つい先ほどまで馬車ごと置き去りにされ、荷を引いて門の内側へ入ってきたばかりだった。


「……たぶん」


 ようやく出た声は、少しかすれていた。


「本来は、違うのだと思います」


 レディヴィアは何も言わなかった。

 目が少し伏せられる。その沈み方が納得なのか、落胆なのか、私にはまだ分からない。


 私には魔族へ嫁げと命じられた。

 彼女には人の婿に従えと命じられた。

 どちらも、次に立つ象徴の顔など見ないまま、役目だけを先に決めたのだ。


 滑稽なはずだった。

 停戦の婚姻が、肝心なところでこんなにも噛み合っていないのだから。

 けれど笑えない。


 レディヴィアが、そっと言った。


「あなたは……婿殿では、ないのですね」


「違います」


「そうですか」


 そこで終わるはずの沈黙が、終わらなかった。


「ですが」


 と、私は言う。


「私も、この婚姻のために来ました」


 レディヴィアの睫毛がかすかに揺れる。


「停戦の証として、魔族へ嫁げと命じられています」


「……嫁ぐ」


 彼女はその言葉を小さく繰り返した。

 口の中で転がし、意味を確かめるように。


「では、あなたが」


 そこで切れて、今度は私の顔を見た。

 真正面から、まっすぐに。敵意はない。

 ただ、理解に追いつこうとする真剣さだけがそこにあった。


「あなたが、私の……」


 夫、と言いかけているのだろうと途中で気づく。

 私も、自分が何と呼ばれるべきなのか、すぐには答えられなかった。


 花嫁。

 罪人。

 停戦の証。


 どれも間違ってはいないのに、どれも少しずつ違う。


 結局、先に形を整えたのは私だった。


「……私たちは互いに、そのつもりでここへ送られてきたのでしょう」


 レディヴィアは黙ったまま、数秒こちらを見ていた。

 それから、壊れものに触れるみたいに慎重な声で言った。


「……二人とも、花嫁として?」


「そうでしょう」


「二人とも、従うように言われて?」


「どうやら」


 そこで初めて、彼女の顔から張りつめたものが少しだけ落ちた。

 笑ったわけではない。置き場を失った何かが表情の端で揺れた。


「……変ですね」


 その一言に、私はこの城塞へ入ってから初めて、胸の奥の息をひとつ吐いた。


「ええ。かなり」


 レディヴィアは目を上げた。

 驚いたのだと分かる。私が同意したことに。あるいは、この場で変だと言ってよいのだと知ったことに。


 その反応が、妙におかしかった。


 笑うべき場ではない。

 冷えきっていて、空虚で、祝福の飾りはどれも嘘くさい。人も魔も、こちらをうまく処分したつもりでいる。

 それでも胸のどこかで、乾いたものがひび割れるような感覚があった。


 私は馬の手綱を軽く持ち上げた。


「……立ち話も何ですし、ひとまず中へ入りませんか」


 そう言ってから、少しだけ困る。

 ここが誰の家で、誰が案内する側なのか分からない。


 案の定、レディヴィアも同じところで立ち止まったらしい。視線が迷い、それから真顔のまま言う。


「はい。ですが」


「ですが?」


「この城の中を、私はほとんど知りません」


「……そうでしょうね」


「あなたも、でしょうか」


「ええ。まったく」


 また沈黙が落ちた。

 今度の沈黙は、さっきまでのものとは違う。敵でもなく、主従でもなく、ただどうすればよいか誰にも分からない者同士の沈黙だった。


 レディヴィアは私の後ろの馬車を見た。

 嫁入り道具の積まれた、紋章のない箱。

 それから馬へ視線を移し、最後に私の手元の手綱へ戻した。

 少しの間、何かを測るように立っていた。迷っているのではなく、踏み切るための間だと分かった。


「……では」


 彼女は静かに近づき、私と反対側の手綱へ手を伸ばした。


「せめて、半分は持ちます」


 白い手だった。

 細いが、近くで見れば節のかたちは思ったよりしっかりしている。何も知らぬ箱入り娘の手ではない。この場で馬を引くことに慣れた手でもなかった。


 私は一瞬ためらってから、頷く。


「ありがとうございます」


「いえ」


 レディヴィアはそこで、ひと拍おいた。


「花嫁同士の役割分担は、まだ分かりませんので」


 思わず顔を上げた。

 冗談だろうかと思う。けれど彼女の表情はひどく真面目だった。真面目なまま、自分の言葉の妙さに遅れて気づいたらしい。目がわずかに泳ぐ。


「……すみません。今のは、その」


「いいえ」


 今度ははっきりと、自分の口元が緩むのが分かった。


「前例を知りませんね」


 それを聞いて、レディヴィアはようやく笑った。

 微笑みと呼ぶにはまだ淡い。

 石壁に射す冬の薄光のように、確かに表情がほどけた。


 私たちは向き直り、並んで手綱を引いた。


 広い外庭に、二頭の馬の足音が響く。

 そのあいだを、花嫁衣装に剣を下げた人間と、角を持つ魔族の娘が肩を並べて歩いていく。


 祝福の言葉はどこにもない。

 出迎えの列も、司祭も、王も、臣下もいない。


 それでも不思議なことに、外門をくぐってから初めて、私は完全にひとりではなくなった気がした。


 隣を歩くレディヴィアも、前を見たまま小さく言う。


「……私、婚姻とはもっと、何か知っている者が全部決めてくれるものかと思っていました」


「私もそう思っていました」


「違うのですね」


「少なくとも、私たちのは違うようです」


 そう答えると、彼女は少し考え込むように眉を寄せた。


「では、最初から自分たちで決めるしかないのでしょうか」


 その問いに、私はすぐには答えなかった。


 石畳の先、聳え立つ城の奥には、暗い回廊がいくつも口を開けている。

 どの部屋が使えるのかも知らない。食料がどこにあるのかも、水場がどこにあるのかも、明かりをどうするのかも知らない。

 隣を歩くこの魔族の娘が、本当はどんな存在なのかも、まだ何ひとつ分かっていない。


 それでも。


「……ええ」


 私は静かに答えた。


「そのためにここへ置かれたのでしょうから」


 レディヴィアは何も言わなかった。

 ただ、手綱を持つ指先にわずかに力がこもる。


 嫁げと告げられ、嫁ぎ先が居ない。

 それでも帰る訳にはいかないのだろう。


 ならば、ここから先くらいは。

 誰にも決められずに決めてもよいのかもしれない。


 冬の空はまだ低く、光は乏しい。

 二人ぶんの足取りに引かれて、馬もゆっくり前へ出る。

 石畳に重なる音が、先ほどより少しだけ多い。

 それだけのことなのに、城塞の奥へ続く道は、ひとりで歩く時よりましに見えた。

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