ep.2 出立
それから三日、城は妙に静かだった。
勇者を悼む鐘は二日目の夕方にようやく止み、三日目には、まるで最初から何も鳴っていなかったかのような顔で、人々はそれぞれの務めへ戻っていったのだろう。ここからでは分からない。ただ、風だけが相変わらず小屋の隙間を通り抜け、紙を鳴らし、火の気の乏しい室内を撫でていく。
何も変わらないようにも思えた。
けれど四日目の朝、小屋の扉が叩かれた音で、それが思い違いだったと知る。
開ければ、見慣れない侍女が二人、黙って頭を下げていた。どちらも城仕えの服を着ている。けれど私の顔を見ても、親しげな色はなかった。ただ命じられた仕事を運んできた者の目だった。
「王命により、嫁入りの支度をお届けいたしました」
そう言って運び込まれた木箱は、狭い小屋には不釣り合いなほど大きかった。床に置かれた途端、いよいよ部屋が狭くなる。
侍女たちは蓋を開け、布を持ち上げ、言葉少なに中身を並べていく。淡い金糸を織り込んだ外套、光沢のある靴、細工の細かな髪飾り、薄い香の移った下着や手袋。どれもこの四年、私の手元にあったものとはまるで違っていた。
昨日までこの小屋にあったのは、古びた毛布と、洗っても少し固いままの布と、継ぎの入った普段着ばかりだ。そこへ急に、誰かに見せるための衣装が入り込んでくる。
まるで、別の娘の荷物を間違えて運び込んだようだった。
布にそっと指を滑らせる。柔らかい。丈夫で、汚れても惜しくなくて、繕いやすいものばかり触っていた手には、あまりに頼りない感触だった。
「こちらも」
侍女がもう一つ、細長い包みを差し出した。
受け取って、布を解く。中から現れたのは一振りの剣だった。鞘にも柄にも見覚えがある。フィエルクマティア王家の紋を刻んだ宝剣。祝いの品としては、どうにも物騒で、けれど陛下らしいと言えば、あまりに陛下らしかった。
鞘に触れた瞬間だけ、不思議と胸の内がすとんと落ち着く。
衣装も飾りもどこか借り物めいて見えたのに、剣だけは重さがあった。冷たくて、固くて、まぎれもなく手の中にある。これだけは、夢ではないと分かる。
柄に小さく紙片が括りつけられていた。
――フィエルクマティアの娘として持て。
誓うためにも、守るためにも。
署名はなかった。なくても分かる。
私はその紙片をしばらく見つめ、笑いかけて、やめた。
父より、と最後に書かれていたなら、たぶん今より苦しかっただろう。
侍女たちが去ったあと、小屋は妙に静まり返った。先ほどまで人の手が入っていたせいで、かえって元の無人の気配が際立つ。
床に置かれた箱と、畳まれた布と、剣。
私はゆっくりと室内を見回した。
持っていくものを考えなければならない。
考えたところで、大して持っていけるものなどない。本は山ほどある。けれど全部は無理だ。衣類はほとんどが城から改めて用意された。食器は粗末で、鍋も薬缶もこの小屋のものだ。持っていけるとすれば、自分で使い込んだ数冊と、書きつけの束と、あとは小さな裁縫道具くらいだろうか。
本棚代わりに積んでいた山へ指を伸ばし、一冊ずつ背をなぞる。
指先が途中で止まった。
薄い革装丁の勇者譚だった。子どもの頃に何度も読み返し、内容を覚えてしまってからは開かなくなっていた本。勇者の剣は光を帯び、勇者の歩む道には人々の祈りがある。そんなふうに、あまりに美しく書かれた物語。
私はその本を取り上げかけて、やめる。
いま持っていくには、ひどく不似合いに思えた。
結局、選んだのは地誌の本と、簡単な薬学書、それから何も書かれていない紙束だけだった。必要になるのは物語ではなく、たぶんもっと別のものだ。
窓の外は曇っていた。午後には雪になるかもしれない。季節はまだ冬の気配を捨て切っていない。
出立は、翌朝になった。
夜のうちにほとんど眠れなかったせいで、朝はずいぶんあっさりと来た。水で顔を洗い、支度をし、侍女に手伝われるまま衣を重ねる。鏡に映った自分は、自分でありながら、どこか知らない娘に見えた。
髪を整えられ、飾りを挿されるたびに、これは誰のための姿なのだろうと考える。
少なくとも私のためではない。城のためか。大陸のためか。あるいは、これから会うことになる名も顔も知らぬ魔王のためか。
どれでもないような気もした。
すべての支度が済んだあと、侍女たちは一歩下がった。その目に感嘆はなかった。ただ、ようやく役目を終えたという安堵があった。
「お綺麗です」
形式だけは整っている言葉だった。
「ありがとうございます」
私もまた、それに見合う声で返す。
やがて外から馬具の音が聞こえた。乾いた金属音。人の声。石畳を打つ蹄。
迎えが来たのだ。
剣を持ち上げる。腰に下げるには、花嫁衣装には少しばかり不穏すぎたので、侍女は困った顔をしたが、私は外さなかった。陛下が持てと言ったのだ。ここで従わぬ理由はない。
扉を開けて外へ出ると、曇天の下、十数騎の騎兵が列をなしていた。旗に描かれた紋はクロアライト聖国のもの。婚礼の迎えというより、役目を果たしに来た使節だった。馬も鎧も整っているのに、そこに祝いの浮ついた気配はひとつもない。
その列の手前に、一人だけ、こちらへ背を向けず立っている者がいた。
短く切り揃えた金髪。見慣れたはずなのに、見上げる高さが記憶よりずっと高い。
「見送り感謝いたします、リディウム殿下」
呼びかけると、父に似た金の瞳がまっすぐこちらを見る。
「殿下はよしてください、姉上」
その声を聞いた途端、四年という時間の長さを、ようやく知った気がした。
記憶の中の彼は、まだ少年だった。私の後ろを追って、城の回廊を走り回っていた子どもだ。けれど目の前に立っているのは、もう子どもではない。肩幅は広くなり、顎の線も大人びている。それでも、「姉上」と呼ぶ響きだけが昔のままだった。
「陛下は来られません。それでも王女が国を離れるのです。せめて僕だけでも見送らなければ」
来られない理由に触れる必要はない。
そういうものだ、と分かれば十分だった。
「……もうその顔で『僕』は、あまり似合いませんね」
リディウムは少しだけ口元を緩めた。
「姉上の前だけです。……姉上は、少し縮みましたか?」
「リディが伸びすぎなのです」
それだけの軽口に、侍女たちが戸惑ったような顔をした。クロアライトの使者は無表情のまま待っている。祝婚の場にしては静かすぎて、会話だけがひどく人間らしかった。
リディウムは私の腰の剣に目を留め、ほんのわずか眉を寄せる。
「父上らしい」
「ええ。祝いの品としては、かなり物騒です」
「ですが、姉上には似合います」
からかいでも慰めでもない声音だった。まっすぐ過ぎて、少し困る。
思ったよりも、普通に話せてしまう。もっと遠い相手になっているのではないかと思っていたのに、こうして目の前で軽口を交わせば、城にいた頃の空気が少しだけ戻ってくる。その少しだけが、かえって苦しかった。
姉弟のあいだに残っていたわずかな間を縫うように、クロアライトの使者が一歩前へ出る。
年嵩の男だった。礼の形だけは整っている。だがその声には、目の前で交わされていたものが別れであるという理解すら薄かった。
「お時間です、アルシエラ殿」
ただ、手順を遅らせぬための促しだった。
私は頷く。
「ええ」
それだけで、もう話は終わったらしい。男は下がり、騎兵たちは無言のまま列を崩さない。風が旗を鳴らす音ばかりがやけに耳についた。
侍女が外套を差し出す。淡い金糸を織り込んだ花嫁衣装の上から羽織るには、少し地味なくらいの色味だったが、冬の空の下ではむしろそれでよかった。華やかすぎるものは、今日には似合わない。
剣を下げ、外套の前を留める。侍女の手がわずかに震えた。花嫁に剣を帯びさせるのは本来の手順ではないのだろう。けれど誰も止めなかった。
リディウムが先に歩き出す。私はその半歩後ろを行く。小屋から馬車までの距離は短い。それなのに、妙に遠く感じられた。
用意されていた馬車は豪奢すぎず、粗末でもない。磨かれた車体に王家の紋も、クロアライトの紋もない。ただ中立を装うように、余計なものを削ぎ落とした箱だった。
花嫁の乗る馬車らしくはない。
けれど、今日にはその方が似つかわしい気もした。
クロアライトの使者が扉の脇に立つ。侍女たちはそこで止まり、それ以上近づかなかった。彼女たちにとっての役目は、ここまでなのだろう。
リディウムもまた立ち止まる。
ほんの一瞬、何かを言いかけた気配があった。けれど彼は飲み込み、代わりにこちらをまっすぐ見た。
「姉上」
「はい」
「お身体には、お気をつけて」
あまりにありふれた言葉だった。けれど、ありふれているからこそ、いちばん嘘が少ないようにも思えた。
「ありがとうございます」
リディウムはほんの少しだけ眉を寄せ、それから諦めたように息を吐いた。笑って送り出そうとしているのが分かった。
彼は一歩下がり、王子としての礼を取った。弟ではなく、フィエルクマティアの一員として、私を送るための姿勢だった。
「アルシエラ姫。どうか、ご壮健で」
それは家族の言葉ではなく、国の言葉だった。けれど冷たくはなかった。
私は軽く裾を摘み、応じる。
「リディウム殿下も」
それで終わりだった。
抱擁もなく、涙もなく、手を伸ばすこともない。けれど、これ以上は要らない気もした。下手に温度を足せば、形を保てなくなる。
馬車へ乗り込む前に、一度だけ振り返る。
幼い頃には大きく見えた離れの小屋も、今はただ狭く、冷たく見えた。
王都を出るのは初めてではない。けれど、戻る時を決められないまま越えるのは、たぶん初めてだ。
クロアライトの使者が扉を開ける。
「どうぞ」
私は剣の鞘に一度だけ触れ、それから馬車へ乗り込んだ。中は思ったよりも狭い。柔らかな座席、毛布、小さな燭台。長旅のための最低限だけが整えられている。
扉が閉まる直前、リディウムがもう一度だけこちらを見た。
何も言わない。
私も言わない。
それでよかった。
車輪が動き出す。石を噛む鈍い音がして、馬車はゆっくりと進み始めた。
窓越しに見える景色が、少しずつ後ろへ流れていく。城門。石畳。旗。門衛。曇った空。どれも見慣れていたはずなのに、閉じた窓越しに見ると、最初から遠い景色のようだった。
やがて門をくぐる。
車輪が一度だけ大きく揺れ、境目を越えたのだと分かる。
その瞬間、不思議と何の感慨も湧かなかった。胸が締めつけられるわけでもなく、涙が滲むわけでもなく、ただ、ああ出たのだな、とだけ思う。そういうものかもしれない。大きなことほど、起こる瞬間は案外あっけない。
あっけないまま、城は背後に遠ざかっていった。
膝の上に置いた手を、そっと握る。手袋越しでも分かるほど、指先は冷えていた。
行き先は、人と魔のあわいに築かれた旧要塞。
そこで待つのは、次の魔王。
書物の中でしか知らない名だ。角を持ち、牙を持ち、人の血を啜り、災厄とともに現れるもの。頁の上ではいくらでも姿を変えるのに、現実の顔だけがまるで思い浮かばない。
どのような声をしているのだろう。
どのような目で、こちらを見るのだろう。
それとも、見るまでもなく、停戦のために差し出された花嫁として扱われるだけなのだろうか。
どれであっても、さして違いはないのかもしれない。
私はもう、会う前から相手を恐れるほど、何かを期待してはいなかった。
ただ、これまでは書物の頁の向こうにあったものが、いまは同じ道の先にある。
それだけのことが、思っていたより静かに重かった。
外では、騎兵たちの馬蹄が絶えず地面を打っている。一定のリズムが、眠気にも似た鈍い倦みを連れてくる。窓の外を流れる冬枯れの木々は、どこまでも色が薄い。世界から少しずつものの名が剥がれて、ただ道と空だけになっていくようだった。
私は外套の前をかき合わせ、深く息を吐く。
もう、鐘の音は聞こえない。
勇者を悼む音も。
娘を嫁に出す祝福も。
ただ車輪の音だけが、止まらずに続いていた。
その先にあるものが何であれ、もうこちらへ近づいてきているのではない。
私が、そこへ向かっているのだ。
そう思ったとき、ようやく少しだけ、喉の奥が乾いた。




