ep.13 探索
翌朝、目が覚めた時には、暖炉の火はもうほとんど灰になっていた。
昨夜のように肩や腰の痛みはない。床に作った寝床が思った以上に身体を休めてくれた。隣では、レディヴィアもすでに目を開けていた。
朝の光は薄い。窓の隙間から差し込む白い明るさが、石壁の粗い面を静かに撫でている。寒さは相変わらずだったが、昨夜の湯の熱を思い出すだけで、どこか昨日までとは違う場所にいるような気がした。
「おはようございます、レディヴィア様」
そう言うと、彼女は少しだけ目を瞬かせてから、静かに返した。
「おはようございます、アルシエラ様」
二人で並んで、手早く実用着に着替える。髪だけ軽く整え、顔を洗う。朝の水は容赦なく冷たかったが、それが朝の目覚めにちょうどいい。
厨房では、簡単に朝を済ませた。
燻製肉を少し炙り、湯を沸かして薄い茶を淹れる。空の胃に温かいものが落ちると、冷えた身体の奥がゆっくりほどける。レディヴィアは椀を持ったまま、窓の向こうの薄い朝をしばらく見ていた。
「今日は、城の外を見て回るのでしたね」
「ええ。大まかで構いませんから、周辺を知っておきたいです」
私は茶をひと口飲んでから続ける。
「兵の集まる場所か、指揮を執る部屋があれば、地図が残っているかもしれません」
「地図」
「こういう城には、だいたいあります。無ければ無いで諦めますが、あれば助かります」
食事を終えると、私たちは厨房をあとにした。
朝の城は静かだった。昨日までの静けさと変わらぬはずなのに、今朝はただ冷たいだけの空間には見えない。
広い回廊を渡り、昨日は通らなかった区画へ入る。
兵舎らしい長い部屋を抜け、内壁沿いの階段を上がる。階段は石でできていたが、中央だけすり減り、長く使われていたことが分かった。指揮を執る者の部屋があるなら、少し高い位置か、外を見渡しやすい側だろう。
二つ目の踊り場を曲がったところで、他より重そうな扉が見えた。
飾りはない。だが蝶番が太く、取っ手も実用一点張りの鉄だった。
押し開けると、乾いた空気がわずかに動いた。
部屋は広くはないが、他より整った形をしていた。
窓は細く高く、外の光だけはよく入る。中央には大きな机が脚の揃ったまま残っていた。壁には鉄の留め具がいくつも打たれていて、以前はそこへ地図や命令板が掛けられていたのだろう。書類や文具などは残っていない、それでも薄い木枠に張られた一枚物の古地図がまだ残っていた。
私はそっとそれを机に乗せた。木枠は乾ききって少し反っており、動かすだけで薄く埃が舞った。
それでも紙はまだ破れていない。長く放置されていたわりに、驚くほど形を保っている。
エヴェルデナ旧城塞を中心に、周辺の地形が細い線で描かれている。山、谷、沢、旧街道、見張り道。城塞の周囲には小さな監視塔がいくつも記され、その一部には赤い印が重ねられていた。
レディヴィアが私の肩越しに地図を覗き込む。
「何もありませんね」
「人と魔の間、どちらにとっても果てですから」
私は監視塔の印を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。
「ここには近づかないようにしましょう」
レディヴィアが首を傾げる。
「使われているのですか」
「分かりません。それでも、城塞から遠くへ移動していないか、確かめている可能性もあります」
そう言うと、レディヴィアは少しだけ考える顔をした。
地図の端に、見張り塔を結ぶ線が走っている。旧街道より細く、補給や伝令のための道だろう。長い戦争のあいだに廃れたのかもしれないが、完全に死んだとは限らない。
「もし使われているなら、見つからないほうが面倒が少ないでしょうから」
「見ないで済むものなら、そのほうがよさそうです」
「ええ。私たちは、いまのところ放っておかれているほうがましです」
その言葉を自分で口にしてから、妙にしっくり来ると思った。
指揮官室から戻る際に、城の見取り図と周辺図を持ち帰ることにした。
見取り図は、後で役に立つだろう。
「外に出る前に、昼に少し食べられるものを持っていきましょう。城へ戻ってからでは遅くなるかもしれません」
厨房へ戻ると、昨日よりさらに手順は早かった。麦を少しだけ潰して固め、小さな焼き団子にする。豆の残りと燻製肉を麻布で包み、干した果実を数粒添える。水は蓋つきの深鉢へ移した。豪勢とは程遠い。けれど、歩きながら腹を繋ぐには充分だった。
レディヴィアが包んだ布を手に取って言う。
「遠征食ですね」
その言い方があまりに真面目で、私は少しだけ口元を緩めた。
「初めての遠征です」
レディヴィアは素直に「私もです」と返し、それから包みを大事そうに持ち直した。
城の外へ出ると、空気は思った以上に澄んでいた。冷たいというより、何も混ざっていない。人の煙も、町の匂いも、家畜の濁った熱もない。あるのは冬の光と、石と、遠い山林の匂いだけだった。
馬たちは昨夜の囲いから少し離れた斜面で草を食んでいた。 完全にいなくなるでもなく、しかし囲いに戻るでもなく、好きな距離だけ城塞から離れている。こちらに気づくと片方が耳を立てたが、すぐまた草へ顔を戻した。
「賢いですね、この場所をうまく使っています」
レディヴィアが言う。
「私達も上手く使えていますよ」
レディヴィアは口角をほんの少しだけ緩めて、頷いた。
外門の外には、かつては道だったのだろう石の並びが半ば土へ沈んでいた。
その先はゆるやかな下りになり、やがて森の縁へ続いている。遠くには低い尾根。さらにその向こうは、色の薄い山林が重なっていた。町も農地も見えない。ただ、人の手が引いた道の残骸だけが、ここに戦争の前の生活があったことを示している。
少し歩いたところで、私は立ち止まり、地図を思い返す。
地図の上では、ここから南へ沢、東へ旧街道、西へ監視塔への細道が伸びている。見張りの印がある方向は、できれば避けたい。
「こちらへ行きましょう」
私が沢沿いの方向を指すと、レディヴィアは頷いた。
「監視塔から遠いほうですね」
「ええ。水の位置も見ておきたいですし、森の縁までなら戻るのも楽でしょう」
歩き始めると、足元の土は城塞の中とは違う柔らかさを返した。石の冷たさではなく、枯草と土の重さ。ところどころに、古い杭のようなものが半ば倒れたまま残っている。かつて防柵でも置かれていたのかもしれない。木はすっかり黒くなり、今は触れれば崩れそうだった。
レディヴィアが不意に足を止める。
「ここ」
示された先を見ると、地面に大きな足跡が残っていた。
犬や狼よりずっと大きい。爪の痕が深く、乾いた泥の上に新しく刻まれたように見える。そこから少し先へ続いた痕跡は、途中で不自然に向きを変え、森のほうへ逸れていた。
「魔獣でしょうか」
「たぶん」
私は足跡の縁を見た。鋭い。けれど昨日今日のものかどうかまでは分からない。
「近いですか」
レディヴィアはしばらく黙っていたが、やがて首を横に振った。
「今は、いません。匂いも古いです」
彼女の感覚に頼るしかないので、私はそれ以上確かめようとはしなかった。代わりに、足跡の続く森のほうを見た。木々は静かで、鳥の声も少ない。
魔獣はいる。
けれど、今のところ近寄ってはこない。
その事実は安心と、別の不気味さを同時に連れてきた。
沢はほどなく見つかった。
地図の通り、谷へ落ちる前の浅い流れが岩の間を縫っている。水は細いが、澄んでいた。
私はしゃがみ込み、水の冷たさに指を沈める。城内の水路と同じ流れの一部かもしれない。
それ以上は立ち止まらず、私たちは沢沿いへ歩を戻した。
古い荷車の残骸が、半ば地面に埋もれていた。車輪は腐っていたが、鉄の輪と軸はまだ使えるかもしれない。
少し先には炭焼き小屋めいた黒い跡も見えた。屋根は落ちていたが、乾いた板材なら拾えるだろう。
そのほかにも、春になれば使えそうな草の名残や、細い踏み跡がいくつか森の際へ消えていた。
昼近くになり、私たちは岩陰へ腰を下ろした。
風は冷たいが、朝よりはましだ。布包みを解き、麦団子と豆、燻製肉を分ける。沢の音が細く続き、周囲には鳥の声すら少ない。
レディヴィアが、麦団子をひと口かじってから言う。
「外で食べると、少し違いますね」
「確かに、少し美味しく感じます」
そう言うと、レディヴィアは豆を飲み込んでからこちらを見た。
「特別な昼食ですね」
「初めての遠征ですから」
レディヴィアは小さく頷き、焼いた麦を一口齧った。
そうして、はっきりと目元を和らげた。
食べ終えたあと、私はもう一度だけ城塞のほうを見た。
石の城は遠く、けれど消えるほどではない。
立ち上がり、布を畳む。
「戻りましょうか」
「はい」
しばらく沢沿いを歩き、戻る道へ折れた頃、外壁の北側を回り込む形になった。
こちらはレディヴィアが来た外門のほうへ近い。人の側から見慣れた正面門より、ずっと無骨な造りをしていた。高い石壁の一部が外へ張り出し、監視よりむしろ遮断のために作られたように見える。
「……あれは」
壁際に木箱がいくつか雑に置かれていた。地面には箱を引きずった跡が残り、片側の角だけが土へ食い込んでいる。縄は粗くかけられ、封の蝋は潰れかけていた。
レディヴィアも同時にそれを見たらしい。
しばらく黙ってから、静かに言った。
「……来た時には、ありませんでした」
「あとから?」
「たぶん」
私は近づいて、木箱の側面へ手を触れた。
角には黒い金具が打たれている。
見覚えのない意匠だったが、人の細工ではないとすぐ分かる。華美ではないのに、妙に棘のある線で構成されていた。
「レディヴィア様のでしょうか」
問いかけると、レディヴィアは箱の縄を見下ろしたまま答えた。
「たぶん。私の分も嫁入り道具があったのかも知れません」
彼女の声は平坦だった。
驚いているのか、呆れているのか、今はまだ分からない。
「開けますか」
そう尋ねてから、私は自分で首を振る。
「……いえ。今はやめましょう」
レディヴィアがこちらを見る。
「後で、ですか」
「ええ。ここで中身を広げるより、城の中へ運んだほうがいい。軽いものではなさそうですし」
彼女は少しだけ考え、それから頷いた。
「そのほうがよさそうです」
「二人で運びましょう」
大きい箱は彼女が持ち上げ、浅い箱は私が浮かせた。
木肌に、かすかな赤黒い筋が残っているのが見えた。泥か、古い何かか、今は判別がつかない。私は城のほうへ視線を戻した。
城が、私たちの帰る場所になっている。
レディヴィアが歩いてきた外門から、二人で帰る。
エヴェルデナ旧城塞――人と魔の果ての地で、勇者と魔王が豆を煮ているのだから、世界はずいぶん妙な仕組みで回っている。




