ep.12 二日目、夜
薪を抱えて暖炉の部屋へ戻るころには、髪の先もだいぶ落ち着いていた。
廊下の冷えは相変わらずだったが、身体の芯に残った熱が、昨日とは違う強さでそれを押し返している。扉を閉め、私はまず暖炉の前へしゃがみ込んだ。
熾火はすっかり消えていた。灰の奥を火掻き棒で探れば、かすかな熱が残っているようでもあるが、頼れるほどではない。
炉に薪を組み、薄い板片を配置する。
レディヴィアに視線を向けると、彼女は軽く頷いた。
炉の前へ手を差し出す。
次の瞬間、細い木がぱち、と鳴って赤く走る。
乾いた木が少しだけ煙を上げ、やがて赤い熱を帯びて静かに燃え広がり始めた。火が安定するのを見届けてから、私たちは連れ立って厨房へ向かった。
今夜も、豆と麦を煮る。
食料庫の扉を開けると、昨日見た袋や籠がそのままの位置にある。けれど昨夜とは少し見え方が違った。何がどこにあって、どれを先に使えばよいか、もうだいたい分かっているからだろう。
私は麦の袋を引き寄せ、乾燥豆を小鍋へあける。隣では、レディヴィアが何も言わずに水差しを持ち上げていた。昨日なら一度こちらを見ただろうに、今日はそれもなく、そのまま水場へ向かう。
鍋を卓へ置き、燻製肉を細く裂く。塩気は強い。豆と麦に移れば、それで十分だった。
ほどなくして、レディヴィアが戻ってきた。
「水です」
「ありがとうございます」
受け取りながら、小さく笑いそうになる。
昨日と同じ言葉だった。けれど、その響きは昨日より少しだけ自然だった。
水を注ぎ、鍋を火にかける。
昨日と同じ音がする。鍋底が温まり、やがて小さく泡が立ち始める。燻製肉の匂いが混じり、厨房の冷えた空気が少しずつ人のいる場所らしくなる。
昨日は、鍋の前に立つだけで少し落ち着かなかった。
どれだけ水を入れればよいのか、塩は足すべきか、それとも燻製肉の味だけで足りるか。そうした小さな判断のひとつひとつが、やけに重く感じられたのを覚えている。
けれど今夜は、手が勝手に先へ進んだ。
麦をひと掴み、豆の様子を見て、匙で一度だけ底をさらう。火の通りが偏らぬよう鍋の位置を少し寄せる。その間にも、レディヴィアは何も言わず、棚の上から昨日使った布を選び分け、乾いている椀だけを手元へ置いていた。
昨日なら、どの器を取るかで一度手が止まった。
今日は違う。
どこに何があるかも、何をどう使えばよいかも、もう少しだけ分かっている。
鍋の中で豆が揺れ、麦の粒がほどけていく。
匂いまで昨日と同じはずなのに、不思議と今日は少しだけ早く、腹がその匂いを受け入れた。空腹というより、戻ってきたあとの安心に近い。
レディヴィアが、布で器を拭きながらふと口を開く。
「昨日より、早いですね」
「何がですか」
「鍋が、もう食べ物になる気がします」
私は一瞬だけ匙を止め、それから小さく笑った。
「よい表現ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。昨日はまだ、鍋と豆でしたから」
レディヴィアはそれを聞いて、器の縁を見下ろした。
「今日は、もう少しだけ、夕食です」
その言い方が妙に真面目で、私は鍋を混ぜながら頷く。
「そうかもしれません」
レディヴィアは器を棚から取り出し、布で内側を拭っていた。
ふと見ると、昨日と同じ二つの椀を並べたあと、今度は迷わずそのまま卓の端へ置く。
「今日は、どちらが正しいか考えなくてよいのですね」
私が言うと、彼女は布を持ったままこちらを見た。
「昨日は近いほうを取ることになりました」
「ええ」
「でしたら、今日もそれで」
真面目な返答だった。
私は鍋をかき混ぜながら、小さく頷く。
「そうですね。それが一番揉めません」
それきり、また静かな時間が戻った。
豆が柔らかくなり、麦がほどける。鍋の湯気の向こうで、レディヴィアが一度だけ窓の外を見た。もう夜はほとんど落ちているらしい。
私は椀へ中身をよそう。 昨日と同じ、素朴な色だ。
「できましたよ」
「はい」
同じように、近くの木箱へ腰を下ろした。
ひと口、ふた口、匙を運ぶ。
温かい豆と麦が腹へ落ちていく。塩気の強い肉の味も、昨日と何ひとつ変わらない。
「昨日と同じですね」
レディヴィアが椀を見下ろしたまま言う。
「ええ。たぶん明日も、似たようなものです」
「いいですね」
「ですね」
それ以上はなかった。
椀の底が見え始めるころ、私は匙を止めた。
「……今夜の寝床ですが」
レディヴィアも顔を上げる。
「はい」
「昨日のままでは、さすがに身体に悪そうです」
「長椅子は、そうですね」
「ええ。かなり」
寝台はまだ空いている。けれど、あそこを使う気にはどうしてもなれなかった。
「整えられた寝室のほうから、毛布や敷布だけ持ってきませんか」
レディヴィアが目を瞬かせる。
「寝具だけを、ですか」
「部屋ごと使う気はありませんが、寝具に罪はないでしょう」
「それは、そうかもしれません」
そこで彼女は寝室のほうを一度だけ振り返り、それから真面目な顔で言った。
「……少しだけ、寝具泥棒みたいですが」
思わず、私は椀を持ったまま笑いそうになった。
「ええ。ですが、私たちのために置かれていたのでしょう」
「……賛成です。あのまま置いておくのは、無駄ですから」
レディヴィアは笑わなかったが、目元だけがわずかにやわらいでいた。
食後の片づけを済ませてから、私たちは例の寝室へ向かった。
夜の廊下は昼より静かで、誰もいないはずなのに、余計にこそこそしている気分になる。扉を開けると、相変わらず整いすぎた寝台と卓子がこちらを待っていた。
けれど今夜はもう、昨日ほど息苦しくはない。
そこに住む気はないと分かっているからだろう。必要なものだけ持って出るつもりで見れば、厚い掛布も枕も、ようやく物として見えた。
「こちらを」
レディヴィアは迷いなく厚手の掛布を持ち上げる。
昨日ならためらったかもしれないそれを、今夜はただ実用のために運ぶ。その姿を見て、私も敷布と予備の毛布をまとめた。枕は二つとも持っていく。どうせここで寝る者はいない。
寝台の上が空いていく。
妙にきちんと整えられていた部屋が、布を持ち去られるたびにただの空箱へ近づいていく。それを見て、ようやく少しだけ気が楽になった。
「全部、持っていきますか」
レディヴィアが掛布を腕に抱えたまま尋ねる。
「寝台まで運ぶのは目立ちますから、このくらいでやめておきましょう」
「寝台は重そうです」
「ええ。泥棒にしては仕事が大きすぎます」
お互いに囁く様な声量で話す。
今度こそ、レディヴィアの口元がほんの少しだけ動いた。
両腕いっぱいの寝具を抱えて暖炉の部屋へ戻る。
床へ敷布を広げ、暖炉に近すぎず、遠すぎもしない位置を選ぶ。火の正面は熱が偏るし、窓際は冷える。そのあいだを探るように、私たちは布の端を引き、少しずつ位置を直した。
長椅子は壁際へ寄せる。
寝台はそのままにする。
代わりに床の上へ、厚い敷布を二枚重ね、その上に掛布と毛布を置く。枕も並べれば、昨日の長椅子よりはずっとましな景色になった。
「これなら、少しは」
「はい。痛くはなさそうです」
レディヴィアが敷布の端を丁寧に整えながら、少しだけ満足そうに言った。
私たちは暖炉の前に座り込んだ。
後ろにはようやく人の眠れそうな寝床があり、前には暖かい火がある。
石の床の冷たさは、もうほとんど感じなかった。
私は箱から取り出した櫛を手に取った。
火の熱が毛先の重さを少しずつ奪っていく。
隣では、レディヴィアが暖炉の火を見ていた。
角の根元のあたりは、自分ではやはり扱いにくいのだろう。後ろ髪だけが、まだ少し重たそうに残っている。
「……レディヴィア様」
「はい」
「髪、梳きましょうか」
彼女は火を見たまま、一度だけ目を瞬かせた。
それから、ためらいなく頷く。
「お願いします」
私は少し近くへ寄り、黒髪を手の中へ取る。
湯気と湯の名残が、まだわずかに残っていた。指へ触れるたび、見た目より柔らかいことが分かる。角の根元に櫛が当たらぬよう気をつけて、毛先から少しずつ解く。
黒髪は、火の明かりの下ではただ暗いだけではなかった。
ところどころに赤い光を薄く含み、櫛を入れるたび、遅れて鈍い艶が返る。長さのわりに重すぎず、束ねて持てばするりと指のあいだを落ちていく。角の根元に近いあたりは少しだけ乾きにくく、湯の熱がまだ残っていた。
私は毛先から、絡まりを拾うみたいに少しずつ梳いていく。
無理に引けば痛む。細い櫛歯を浅く入れて、ほどけたところからもう少し上へ進める。
こうして誰かの髪を梳く手つきを、指はまだ覚えていた。
レディヴィアは何も言わず、じっとしていた。
だが、ただ固まっているわけではない。櫛が引っかかればわずかに首の力が入り、痛まぬようにすぐ抜けば、そのぶんだけ肩が緩む。その小さな変化が手に伝わる。
「痛くはありませんか」
「大丈夫です」
「角の近くは、少し難しいですね」
「自分では、いつもそこが最後になります」
「最後には、うまくいくのですか」
そう尋ねると、レディヴィアは少し考えてから答えた。
「うまくいかないまま、終わることもあります」
私は思わず小さく笑った。
火のはぜる音と、髪を梳くかすかな音だけが、部屋に響いていた。
やがて髪も乾き、私たちは新しく作った寝床へ身を横たえた。
昨日のように狭い長椅子で肩をぶつけ合うこともなく、互いに十分な広さがあった。
「……今日は、よく眠れそうです」
レディヴィアが天井を見上げたまま、静かに言った。
「ええ」
私も同じように、暗い石の天井を見上げる。
火の音が続く。
「明日は」
私が言うと、隣でレディヴィアが少しだけ顔を向けた気配がした。
「はい」
「城塞を大まかに見て、少し外を歩いてみましょうか。城以外にも役に立つ物があるかも知れません」
少し間があいてから、レディヴィアが静かに言う。
「少しだけ、ゆっくりできそうですね」
「そうしましょう」
毛布を肩まで引き上げる。
今夜は毛布を迷わず二人の上へ広げていた。
暖炉の赤い光が、天井へ薄く揺れている。
目を閉じれば、火の音だけが残った。
「よい夜を、レディヴィア様」
静かに言うと、間を置かず返ってくる。
「よい夜を、アルシエラ様」
昨日より、少しだけ自然だった。
それで十分だった。




