ep.11 浴場
炉に火を入れると、最初は煙のほうが先に出た。
長く眠っていた煙道が、息を取り戻すまでに少し時間がかかる。煤けた匂いが浴場に広がり、私はしばらく煙の行方を見守った。やがて煙は上へ向かい始め、炉の奥で木が赤く落ち着く。
「使えそうですか」
「今のところは。ただ、長くは分かりません」
レディヴィアが炉の前へ屈み込み、赤い熾火を覗き込んだ。
「どれくらいは、保ちますか」
「薪の量と、煙道の具合次第です。今日直したばかりですから、一人分なら何とか。二人を続けてとなると、途中で落ちるかもしれません」
少しだけ考えてから、付け加える。
「炉も、今日初めて使いますから。途中で何かあっても困りますし」
レディヴィアは少し黙った。
それから、ひどく真面目な顔で言う。
「一人ずつだと、後から入る方には温い湯しか残らないかもしれません」
呟くように言うと、視線をこちらへ向けた。
「ええ。炉の様子も、まだ読めませんし」
少しの間、二人で炉を見ていた。
言わなくても、考えていることは同じだろうと思った。
「一緒に汚れたのです。一緒に綺麗になればいいでしょう」
先に口にしたのは私だった。
レディヴィアは特に驚いた様子もなく、ただ一度だけ湯船の広さを見てから頷いた。
「そのほうが、たぶん無駄がありません」
レディヴィアは静かに納得したようだった。
湯の温まりを待つあいだ、棚に並べた麻布を確かめ、鉢に水を汲み足す。レディヴィアが脱いだものをどこへ置くかを、一度だけ私が示した。
そうしているうちに湯船の縁から湯気が立ち始めた。完全な熱湯ではない。けれど、今日の冷えた石の城には、十分だった。
「先に、かけ湯だけしてしまいましょう」
「はい」
私は上着の留め具に手をかけた。レディヴィアも同様に、袖口から始めて布を外していく。冷えた浴場の空気が素肌を撫でた。
床へ重ねた衣服を濡れぬ位置へ置き、鉢の湯を掬って肩へかける。暖かさに思わず声が漏れそうになる。
肩へ、腕へ、足へかける。
その時、レディヴィアの手首に薄い痕があるのが見えた。輪のようにぐるりと一周、皮膚の色だけが少し違う。足首にも似た痕が残っている。
新しいものではない、けれど、消えきるほど古くもない。
私は湯をもう一度掬った。
問えば、答えるのかもしれない。
だが、まだそこへ言葉を差し込む気にはなれなかった。
代わりに、レディヴィアの視線がこちらの背へ落ちるのを感じる。
沈黙が少しだけ変わった。
「……大きいですね」
背中のことだろうとすぐ分かった。
「ええ」
私は振り向かないまま答える。
「昔からあります」
それ以上は、互いに踏み込まない。
新しい麻布を一枚手に取り、私は髪を軽くまとめる。背中へ垂れる銀髪が浸るのは厄介だ。横目で見ると、レディヴィアも同じように髪を寄せようとしていたが、どうにも片手が足りないらしい。
「紐、結びましょうか」
言うと、彼女は素直に振り向いた。
「お願いします」
私は背後へ回り、黒髪を束ねる。指へ触れる感触は思っていたより細く、しかし重みがあった。角の根元に髪が絡まぬよう少し避けてから、紐を二重に回して結ぶ。レディヴィアはじっとしていた。
「これで」
「ありがとうございます」
私は手早く湯船の縁へ足をかけ、中へ入る。温度は思ったよりちょうどよかった。石の底が足裏に触れ、体の重さをゆっくり受け取っていく。
隣でレディヴィアも入ってくる。
水が少し揺れ、湯気がまた立った。
二人が入っても、湯船は十分に広かった。余るほどに。
それでも、互いに大きく距離を取ることはなかった。
「……温かいですね」
先に言ったのはレディヴィアだった。
「ええ」
「掃除をした甲斐があります」
「本当に」
それからしばらく、どちらも何も言わなかった。
石槽の向こう、炉の火が静かに揺れている。煙道の具合は今のところ悪くない。このまま保てばいい、と思いながら、私はゆっくりと肩まで湯に沈んだ。
そこで、レディヴィアのほうへ自然と目が向く。
視線に気づいたのか、レディヴィアが手首を持ち上げた。
「ああ」
特に何でもないように言う。
「枷の跡です」
「……ずっとつけていたのですか」
「ずっとありました」
その答え方に、私は何も足さなかった。
彼女の言い方が既に完結していたからだ。驚きも、慣れも、諦めもない。ただ、そうであったという事実だけが置かれている。
「外れたのは、いつですか」
「魔王になると決まった時です」
水面が、炉の光を受けて小さく揺れた。
魔王になると決まった時。
それが彼女にとって自由を意味したのか、別の縛りへの移行だったのかは、私にはまだ分からない。
レディヴィアが、自分の手首へ一度だけ目を落とす。
「見苦しいでしょうか」
私は首を振った。
「いいえ」
それから、少し遅れて付け足す。
「役に立たないものではありません」
レディヴィアが目を瞬かせた。
「役に立ちますか」
「少なくとも、もう外れていると分かります」
彼女はしばらく黙っていたが、やがてごく小さく息を吐いた。
「そういう考え方も、あるのですね」
「そういう考えもあります」
私がそう言うと、彼女は薄く笑った。
笑う、と呼ぶにはまだ静かなものだったが、昨日の朝よりはずっと柔らかい。
湯船の中で、沈黙が落ちた。
苦しい沈黙ではなかった。
やがて、レディヴィアの視線がこちらへ動いたのが分かった。
「アルシエラ様の背中は」
「ええ」
先が読めたので、先に答えた。
「傷があります」
「削られたのですか」
「削り取ったのです」
視線は動かさずに、私は続けた。
「勇者の証は、身体のどこかに紋が浮きます。私の場合は、背でした」
水の音が、細く続いている。
私は前を向いたまま、平坦な声で答えた。
「そうした方が、よいと思いましたから」
後悔はない。それだけのことだ。
レディヴィアはそれ以上聞かなかった。
私も続けなかった。
傷の話は、こうして終わった。
レディヴィアが膝を抱え直す。
その動きで、水がまた小さく揺れた。湯気が立つ。
炉の薪が、ぱち、と一度鳴った。
私は炉のほうを確かめる。火はまだ落ちていない。煙道も、今のところ詰まる気配はない。
「もう少し、保ちそうです」
「良かったです」
レディヴィアが、白く細い腕を湯の上に浮かせるようにして言った。
「お湯は、こういうものなのですね」
「こういうものとは」
「温かくて、重くて、どこにも行けなくなる」
私は少し笑った。
「ええ。そういうものです」
「嫌ではありません」
「私も」
しばらく、炉の音だけが聞こえた。
水面を見ていると、揺れが少しずつ落ち着いていく。静かになるほど、湯の温かさがはっきりしてくる。足の先から肩まで、均等に包まれている感覚だ。
隣のレディヴィアも、先ほどより少しだけ力が抜けているように見えた。
角が、湯気の中にある。
最初に外庭で見た時と、今は違う、とだけ思った。
私は目を上げ、浴場の天井を見た。
白く曇った明かり取りの窓から、外の光が薄く入っている。昼はとうに過ぎているだろう。
「レディヴィア様」
「はい」
「今日、何か食べたいものはありますか」
問うと、レディヴィアは少し考えるような間を置いた。
「昨日の、豆と麦は」
「また作れます」
「それなら」
「十分ですか」
「十分です」
城の浴場で、湯に浸かりながら、夕食の話をしている。
あれからまだ二日も経っていない。
「アルシエラ様」
「はい」
「ここは、寒くはなくなりますか」
「全部は無理でしょうが、少しずつは」
「薪が続けば」
「続くように、明日も探しましょう」
レディヴィアは小さく頷いた。
「では、まだここにいられますね」
その言い方が、ひどく素直だった。
まだここにいられる、と言う。当たり前のことのように聞こえるのに、少しだけ、胸の奥の何かに触れる言葉だった。
「ええ」
私は静かに答えた。
「しばらくは」
炉が、また小さく鳴った。
火は落ちていない。
湯はまだ温かく、二人ぶんの重さを静かに支えていた。
湯は少しずつぬるくなっていく。炉の火も、長くは持たないだろう。
私は肩へ湯をかけ、名残惜しさと合理の境目で少しだけ迷った。
「そろそろ、上がりましょうか」
「はい。冷める前に」
私たちは立ち上がり、湯船から出た。
湯から上がった肌に冬の空気が触れて粟立つが、身体の奥には確かな熱が残っている。棚から麻布を二枚取る。一枚をレディヴィアへ渡すと、彼女は黙って受け取った。
髪と肩を拭う。レディヴィアも黙って同じようにしていた。
ふと見ると、彼女は自分の角の根元に少し困っているらしい。布がうまく入らないのだろう。
「こちら、拭きましょうか」
「お願いできますか」
私は布を受け取り、角の付け根を避けながら水気を取る。黒髪の束を持ち上げ、首筋を拭う。温かい湯の名残がまだそこに残っていた。
「昨日の長椅子より、ずいぶん楽です」
布で髪を押さえながら、レディヴィアが言う。
「それは、比較対象が」
「分かっています」
口元だけで笑って、彼女は衣を手に取った。
寝間着に着替えながら、私は炉の様子を確かめる。
薪は少し残っていた。煙道は詰まっていない。
扉を開けると、廊下の冷えがまた戻ってくる。
レディヴィアが先に出て、私が後に続いた。
浴場の扉が、静かに閉まった。
昨日の部屋へ戻る廊下を並んで歩く。
靴音が二つ、石の床に重なる。
今夜の夕食は豆と麦だ。




