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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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11/12

ep.11 浴場

 炉に火を入れると、最初は煙のほうが先に出た。

 長く眠っていた煙道が、息を取り戻すまでに少し時間がかかる。煤けた匂いが浴場に広がり、私はしばらく煙の行方を見守った。やがて煙は上へ向かい始め、炉の奥で木が赤く落ち着く。


「使えそうですか」


「今のところは。ただ、長くは分かりません」


 レディヴィアが炉の前へ屈み込み、赤い熾火(おきび)を覗き込んだ。


「どれくらいは、保ちますか」


「薪の量と、煙道の具合次第です。今日直したばかりですから、一人分なら何とか。二人を続けてとなると、途中で落ちるかもしれません」


 少しだけ考えてから、付け加える。


「炉も、今日初めて使いますから。途中で何かあっても困りますし」


 レディヴィアは少し黙った。

 それから、ひどく真面目な顔で言う。


「一人ずつだと、後から入る方には温い湯しか残らないかもしれません」


 呟くように言うと、視線をこちらへ向けた。


「ええ。炉の様子も、まだ読めませんし」


 少しの間、二人で炉を見ていた。

 言わなくても、考えていることは同じだろうと思った。


「一緒に汚れたのです。一緒に綺麗になればいいでしょう」


 先に口にしたのは私だった。

 レディヴィアは特に驚いた様子もなく、ただ一度だけ湯船の広さを見てから頷いた。


「そのほうが、たぶん無駄がありません」


 レディヴィアは静かに納得したようだった。

 湯の温まりを待つあいだ、棚に並べた麻布を確かめ、鉢に水を汲み足す。レディヴィアが脱いだものをどこへ置くかを、一度だけ私が示した。

 そうしているうちに湯船の縁から湯気が立ち始めた。完全な熱湯ではない。けれど、今日の冷えた石の城には、十分だった。


「先に、かけ湯だけしてしまいましょう」


「はい」


 私は上着の留め具に手をかけた。レディヴィアも同様に、袖口から始めて布を外していく。冷えた浴場の空気が素肌を撫でた。


 床へ重ねた衣服を濡れぬ位置へ置き、鉢の湯を掬って肩へかける。暖かさに思わず声が漏れそうになる。


 肩へ、腕へ、足へかける。

 その時、レディヴィアの手首に薄い痕があるのが見えた。輪のようにぐるりと一周、皮膚の色だけが少し違う。足首にも似た痕が残っている。

 新しいものではない、けれど、消えきるほど古くもない。


 私は湯をもう一度掬った。

 問えば、答えるのかもしれない。

 だが、まだそこへ言葉を差し込む気にはなれなかった。


 代わりに、レディヴィアの視線がこちらの背へ落ちるのを感じる。

 沈黙が少しだけ変わった。


「……大きいですね」


 背中のことだろうとすぐ分かった。


「ええ」


 私は振り向かないまま答える。


「昔からあります」


 それ以上は、互いに踏み込まない。

 新しい麻布を一枚手に取り、私は髪を軽くまとめる。背中へ垂れる銀髪が浸るのは厄介だ。横目で見ると、レディヴィアも同じように髪を寄せようとしていたが、どうにも片手が足りないらしい。


「紐、結びましょうか」


 言うと、彼女は素直に振り向いた。


「お願いします」


 私は背後へ回り、黒髪を束ねる。指へ触れる感触は思っていたより細く、しかし重みがあった。角の根元に髪が絡まぬよう少し避けてから、紐を二重に回して結ぶ。レディヴィアはじっとしていた。


「これで」


「ありがとうございます」


 私は手早く湯船の縁へ足をかけ、中へ入る。温度は思ったよりちょうどよかった。石の底が足裏に触れ、体の重さをゆっくり受け取っていく。

 隣でレディヴィアも入ってくる。

 水が少し揺れ、湯気がまた立った。

 二人が入っても、湯船は十分に広かった。余るほどに。

 それでも、互いに大きく距離を取ることはなかった。


「……温かいですね」


 先に言ったのはレディヴィアだった。


「ええ」


「掃除をした甲斐があります」


「本当に」


 それからしばらく、どちらも何も言わなかった。

 石槽の向こう、炉の火が静かに揺れている。煙道の具合は今のところ悪くない。このまま保てばいい、と思いながら、私はゆっくりと肩まで湯に沈んだ。


 そこで、レディヴィアのほうへ自然と目が向く。

 視線に気づいたのか、レディヴィアが手首を持ち上げた。


「ああ」


 特に何でもないように言う。


「枷の跡です」


「……ずっとつけていたのですか」


「ずっとありました」


 その答え方に、私は何も足さなかった。

 彼女の言い方が既に完結していたからだ。驚きも、慣れも、諦めもない。ただ、そうであったという事実だけが置かれている。


「外れたのは、いつですか」


「魔王になると決まった時です」


 水面が、炉の光を受けて小さく揺れた。

 魔王になると決まった時。

 それが彼女にとって自由を意味したのか、別の縛りへの移行だったのかは、私にはまだ分からない。

 レディヴィアが、自分の手首へ一度だけ目を落とす。


「見苦しいでしょうか」


 私は首を振った。


「いいえ」


 それから、少し遅れて付け足す。


「役に立たないものではありません」


 レディヴィアが目を瞬かせた。


「役に立ちますか」


「少なくとも、もう外れていると分かります」


 彼女はしばらく黙っていたが、やがてごく小さく息を吐いた。


「そういう考え方も、あるのですね」


「そういう考えもあります」


 私がそう言うと、彼女は薄く笑った。

 笑う、と呼ぶにはまだ静かなものだったが、昨日の朝よりはずっと柔らかい。


 湯船の中で、沈黙が落ちた。

 苦しい沈黙ではなかった。

 やがて、レディヴィアの視線がこちらへ動いたのが分かった。


「アルシエラ様の背中は」


「ええ」


 先が読めたので、先に答えた。


「傷があります」


「削られたのですか」


「削り取ったのです」


 視線は動かさずに、私は続けた。


「勇者の証は、身体のどこかに紋が浮きます。私の場合は、背でした」


 水の音が、細く続いている。

 私は前を向いたまま、平坦な声で答えた。


「そうした方が、よいと思いましたから」


 後悔はない。それだけのことだ。

 レディヴィアはそれ以上聞かなかった。

 私も続けなかった。

 傷の話は、こうして終わった。


 レディヴィアが膝を抱え直す。

 その動きで、水がまた小さく揺れた。湯気が立つ。

 炉の薪が、ぱち、と一度鳴った。

 私は炉のほうを確かめる。火はまだ落ちていない。煙道も、今のところ詰まる気配はない。


「もう少し、保ちそうです」


「良かったです」


 レディヴィアが、白く細い腕を湯の上に浮かせるようにして言った。


「お湯は、こういうものなのですね」


「こういうものとは」


「温かくて、重くて、どこにも行けなくなる」


 私は少し笑った。


「ええ。そういうものです」


「嫌ではありません」


「私も」


 しばらく、炉の音だけが聞こえた。

 水面を見ていると、揺れが少しずつ落ち着いていく。静かになるほど、湯の温かさがはっきりしてくる。足の先から肩まで、均等に包まれている感覚だ。

 隣のレディヴィアも、先ほどより少しだけ力が抜けているように見えた。

 角が、湯気の中にある。

 最初に外庭で見た時と、今は違う、とだけ思った。


 私は目を上げ、浴場の天井を見た。

 白く曇った明かり取りの窓から、外の光が薄く入っている。昼はとうに過ぎているだろう。


「レディヴィア様」


「はい」


「今日、何か食べたいものはありますか」


 問うと、レディヴィアは少し考えるような間を置いた。


「昨日の、豆と麦は」


「また作れます」


「それなら」


「十分ですか」


「十分です」


 城の浴場で、湯に浸かりながら、夕食の話をしている。

 あれからまだ二日も経っていない。


「アルシエラ様」


「はい」


「ここは、寒くはなくなりますか」


「全部は無理でしょうが、少しずつは」


「薪が続けば」


「続くように、明日も探しましょう」


 レディヴィアは小さく頷いた。


「では、まだここにいられますね」


 その言い方が、ひどく素直だった。

 まだここにいられる、と言う。当たり前のことのように聞こえるのに、少しだけ、胸の奥の何かに触れる言葉だった。


「ええ」


 私は静かに答えた。


「しばらくは」


 炉が、また小さく鳴った。

 火は落ちていない。

 湯はまだ温かく、二人ぶんの重さを静かに支えていた。


 湯は少しずつぬるくなっていく。炉の火も、長くは持たないだろう。

 私は肩へ湯をかけ、名残惜しさと合理の境目で少しだけ迷った。


「そろそろ、上がりましょうか」


「はい。冷める前に」


 私たちは立ち上がり、湯船から出た。

 湯から上がった肌に冬の空気が触れて粟立つが、身体の奥には確かな熱が残っている。棚から麻布を二枚取る。一枚をレディヴィアへ渡すと、彼女は黙って受け取った。


 髪と肩を拭う。レディヴィアも黙って同じようにしていた。

 ふと見ると、彼女は自分の角の根元に少し困っているらしい。布がうまく入らないのだろう。


「こちら、拭きましょうか」


「お願いできますか」


 私は布を受け取り、角の付け根を避けながら水気を取る。黒髪の束を持ち上げ、首筋を拭う。温かい湯の名残がまだそこに残っていた。


「昨日の長椅子より、ずいぶん楽です」


 布で髪を押さえながら、レディヴィアが言う。


「それは、比較対象が」


「分かっています」


 口元だけで笑って、彼女は衣を手に取った。


 寝間着に着替えながら、私は炉の様子を確かめる。

 薪は少し残っていた。煙道は詰まっていない。


 扉を開けると、廊下の冷えがまた戻ってくる。

 レディヴィアが先に出て、私が後に続いた。

 浴場の扉が、静かに閉まった。

 昨日の部屋へ戻る廊下を並んで歩く。

 靴音が二つ、石の床に重なる。


 今夜の夕食は豆と麦だ。

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