ep.10 共同作業
浴場を見つけたあと、私たちはいったん馬車へ戻った。
湯を使えるようにするなら、嫁入り道具の中にも役に立つものがあるはずだった。布、替えの衣服、桶の代わりになりそうな器。そうしたものを思い浮かべながら箱を見回す。
レディヴィアは幾つかの木箱へ手をかけると、そのまままとめて持ち上げた。
大きさのわりに、音がしない。ぶつかることもなく、彼女の腕の中で静かに収まっている。
私は少し大きい箱を一つ抱えたところで、それ以上は無理だと分かった。少し迷ってから、残った小さな荷物を浮かせる。
視線を感じて顔を上げると、レディヴィアが宙に浮いた荷を見ていた。
私は指先の力をほんの少しだけ緩める。高さがわずかに落ち、動きも少しだけ鈍くなった。
「……器用ですね」
私は苦笑する。
「力仕事は、あまり向いていません」
レディヴィアは小さく首を傾げた。
「私には、そういう持ち方はできません。動かすことはできますが、あんなふうに止めておくのは、たぶん無理です」
私は小箱をそっと引き寄せる。
「こういう細かいことのほうが、性に合っているんです」
レディヴィアは静かに頷いた。
「私は、逆です」
それだけ言って、レディヴィアは先に歩き出した。
私は浮かせた小箱を引き連れて、そのあとに続く。
暖炉の部屋へ戻るころには、抱えていた箱の角が指に少し食い込んでいた。
先に着いたレディヴィアが、長椅子の脇へ大きな木箱を静かに下ろす。続けて私も抱えていた箱を卓のそばへ置き、浮かせていた小箱をひとつずつ床へ降ろした。
「役に立つ物があればいいですが」
最初の箱を開ける。
上にかかっていたのは夜着類。どれもきれいではあったが、私たちに必要ない。
私はそれらを脇へ避ける。
その下から、厚手の布が何枚か現れた。麻布。大判の布。替えの靴下。
「よさそうですね」
「ええ。やっと、まともなものが」
レディヴィアが隣の箱を開ける。
こちらには、櫛、香油の小瓶、白い布巾、それから手鏡まで入っていた。
「持っていくものはありますか」
私は一瞬だけ考えてから、一つだけ手に取った。
「櫛は必要かもしれません」
私が答えると、レディヴィアは小さく頷いた。
別の箱を開けると、浅い銅の鉢が二つ、布に包まれて入っていた。湯を汲むには少し浅いが、体を拭くための水を受けるくらいなら十分だろう。
「こういうものは」
レディヴィアが白い布を持ち上げる。
花の模様が端へ縫い込まれていた。湯気と石の匂いの中で使うには、少しだけ綺麗すぎる。
「浴場には持っていかなくてよさそうです」
「では、残します」
その返答がいちいち真面目で、少しだけ口元が緩む。
ひとまず必要なものは揃ってきた。
「桶の代わりになるものが、もう少し欲しいですね」
そう呟くと、レディヴィアはすぐに別の小箱へ手を伸ばした。
中から出てきたのは、蓋つきの深鉢だった。もともとは化粧道具か何かを入れるためのものだったのかもしれないが、内側は滑らかで、水を入れても問題なさそうに見える。
「これは」
「使えます」
私が即座に言うと、レディヴィアはほんの少しだけ目を和らげた。
「よかったです」
それからしばらく、箱を開ける音と、布を分ける音だけが続いた。
必要なものの山は少しずつ形を持ちはじめる。
逆に、脇へ寄せられていくものも増えた。
レディヴィアが、そのひとつを両手で持ち上げる。
絹に細かな刺繍が流れるように縫い込まれていた。薄いレース。布そのものが軽すぎて、持っているというより指先へ掛かっているだけのように見える。
「これは、どこで使うものなのでしょう」
私は答えに少しだけ困った。
「……たぶん、あまり実用のためではなく」
「見せるためのものですか」
「ええ。そういう類いかと」
レディヴィアはしばらくその布を見ていた。
それから、何も言わず箱へ戻す。
その手つきは慎重だったが、未練があるわけではなさそうだった。
「ずいぶん、不便そうです」
「その通りですね」
しばらく箱の中身を分けていく。
浴場へ戻るころには、抱えていた物は随分と山になってしまった。
先を行くレディヴィアが、身体で扉を押し開く。
水の流れは止まらずにしっかりと続いているらしい。その音にまずは一つ安堵した。
レディヴィアが木箱を壁際へ下ろす。
私は布を乾いていそうな棚の上へ置き、水差しと鉢を石槽のそばへ寄せた。冷えた空気の中に、水の匂いと、古い灰の匂いが混ざっている。
「まずは、灰ですね」
そう言って炉の前へしゃがむ。
煤けた煉瓦の口は狭かったが、火掻き棒代わりになりそうな鉄の棒を部屋から持ってきてある。差し込んで掻くと、奥の灰が崩れ、乾いた音とともに前へ落ちてきた。
思ったより多い。
古い灰の下に、半分だけ燃え残った木片まで埋もれている。いちど使われて、そのあと長く放置されていたのだろう。
深鉢を抱えたレディヴィアがすぐ隣へ膝をつく。
私が前へ寄せた灰を、素手で触れぬよう割れた木板でまとめて鉢へ移し始めた。
何度か繰り返すうちに、炉の底の煉瓦がようやく見えてくる。
私は灰の層を均し、煙道の口を見上げた。煤はついているが、完全には塞がっていない。棒を差し込んで軽く突くと、上のほうから乾いた塊がぱらぱらと落ちる。
「使えますか」
「たぶん。少なくとも、試す価値はあります」
そう答えると、レディヴィアはすぐに頷いた。
「では、使えるようにしましょう」
その言い方があまりにもまっすぐで、笑いそうになる。
使えるようにする。
言葉にすれば簡単だが、目の前にあるのは、長く放置された浴場だった。白くこびりついた水垢、乾いた泥、炉に詰まった灰、棚の隅に残った朽ちた縄の切れ端。
湯船の底も、流れ込む水が濁りを攫ってはいるが、まだ灰色の筋がところどころ這っていた。
それでも、不思議と無理だとは思わなかった。
「……まずは、汚れを外へ出しましょう」
私は炉の前から立ち上がり、石槽のほうを見た。
水は細く流れている。
私たちは手分けをした。
レディヴィアが棚や床際に残った大きなものをどかし、私は棒と布で細かな塵を掻き寄せる。
湯船の底に残っていた泥は思った以上にしつこかった。
水を浅く溜め、棒で底を擦る。浮き上がった濁りをまた流す。灰色の水は排水溝へ吸い込まれていったが、一度で綺麗になるほど甘くはない。石目の隙間に入り込んだ黒ずみは、布を巻いた棒でこそげ取るしかなかった。
最初は水の匂いより、古い灰と湿った石の匂いのほうが強かった。けれど何度か流すうち、ようやく冷たい水そのものの匂いが勝ち始める。
少しずつ、石の本来の色が見えてくる。
レディヴィアが、袖を肘のあたりまで折り返していた。
濡れた石の縁へ片膝をつき、私が掻き寄せた泥を深鉢へ移していく。最初のうちは綺麗に避けていた裾も、気がつけば水の跳ねと灰でところどころ色を変えていた。
床の隅に溜まった黒い汚れは、水だけでは落ちなかった。
棚の下に積もっていた古い灰を除けると、そこから乾いた獣毛のようなものが出てきて、思わず眉をひそめる。何かが巣にしていたのかもしれない。布で包み、深鉢へ押し込む。
途中で、レディヴィアが朽ちた木枠をまとめて持ち上げた。
ひとつずつ外へ運び出すつもりでいたものを、彼女はまとめて肩の高さまで持ち上げ、そのまま振り返る。
「こちらも、外へですか」
「はい。あとで燃やせるものは分けますが、今はとにかく邪魔ですね」
「分かりました」
床を引きずる音もなく、それらが運び出される。
空いた壁際には、濡れた石と白く乾いた筋だけが残った。
私は石槽のほうへ戻り、水を掬っては流し、布を洗ってはまた拭いた。
冷たい。指先の感覚が薄れていく。
ふと、足元に影が落ちる。
見上げると、レディヴィアが何も言わず深鉢を差し出していた。中には新しい水が張られている。汚れた布をすすぐためのものだろう。
「……ありがとうございます」
「何度も往復するより、こちらのほうが早いかと」
「助かります」
そう言うと、彼女は小さく頷き、また別の場所へ向かった。
それからしばらく、言葉はあまりなかった。
水を流す音。布で石を擦る音。木片がまとめて置かれる音。たまに、どこかで何かが落ちて乾いた音を立てる。
作業に追われると、沈黙はかえって楽だった。
どれほど経っただろう。
ようやく石槽の縁も手で触れてためらわない程度にはなった。湯船の底も、まだ古びてはいるが、少なくとも洗えば使える場所に近づいている。
私は背を伸ばし、一度だけ腰に手を当てた。
固まっていた筋が、遅れて痛む。
「……広いですね」
思わずこぼすと、壁際の木枠を外し終えたらしいレディヴィアが振り返った。
「使うぶんには助かります」
「掃除するぶんには厄介です」
「それは、確かに」
その返事があまりに素直で、少しだけ肩の力が抜けた。
炉のまわりも、最後にもう一度掃いた。
落ちてきた煤の塊を外へ出し、煉瓦の隙間を棒で確かめる。ひびはあるが、すぐ崩れるほどではない。湯船のそばへ運んであった木片を見比べ、最初に燃やすなら細いものからだと目星をつける。棚には麻布を重ね、小鉢と深鉢を並べ、櫛や紐は濡れない側へ寄せた。
ようやく、手を止める。
浴場の中を見回した。
古びている。綺麗だとは言いがたい。石の傷も、長い放置の名残も、そのまま残っている。
それでも。
水は流れている。
床は歩ける。
棚には布があり、炉も息を吹き返しそうだった。
「……どうでしょう」
私がそう言うと、レディヴィアは湯船の縁へ手を置き、浴場の奥から入口までを一度ゆっくり見た。
それから、静かに答える。
「こちらのほうがよいです」
私は小さく笑った。
「比較対象がひどいですが、ええ」
「使えそうです」
「はい。ようやく」
レディヴィアの頬に、いつの間にか煤が細くついている。
彼女もそれに気づいたらしい。
袖口で拭おうとして、かえって広げそうになり、手を止めた。
私は指先で自分の頬のあたりを示す。
「そこ、ついていますよ」
「どこでしょう」
「少し、失礼します」
近づいて、指先で煤を拭う。
ほんのひとかすれで取れる程度のものだった。レディヴィアはじっとしていたが、私が手を離すと、ごくわずかに目を瞬かせた。
「取れましたか」
「ええ。もう大丈夫です」
代わりのように、彼女がこちらの袖を見た。
「あなたも、かなり」
「見ないことにしていました」
少しだけ笑って、炉の前へ視線を戻す。
「……掃除は、これでよしとしましょう」
「はい」
「細かいところは、またあとで」
「今日はもう十分働きましたから」
その一言に、私は思わずレディヴィアを見る。
彼女は真面目な顔のままだったが、ほんの少しだけ口元がやわらいでいる。
「では、次は火ですね」
「ええ」
薄暗い石の浴場はまだ冷たい。
けれどもう、ただ冷たいだけの場所ではなかった。




