ep.1 鐘の鳴った日
鐘の音が、朝から止まない。
城の中庭を越え、外壁を越え、離れのさらに奥へ押しやられたこの小屋にまで届くほどに、重く、長く、湿った音だった。
誰を悼む鐘であるかくらいは、私にも分かる。
勇者が死んだのだ。
人々を奮い立たせ、戦場の最前で剣を振るい、魔王と相打ちになった、あの勇者が。
読みかけの本に指を挟んだまま、私はしばらく窓の外を見ていた。祈りの文句は口にしなかった。口にしてよい立場ではないように思えたし、その名をいまさら私の祈りに乗せるのは、どこか盗人じみている気がしたからだ。
ただ鐘の音だけを聞く。
ひどく遠い音だった。
まるで別の世界で鳴っているようで、それでいて胸の奥だけは妙に近く、じわじわと痛んだ。
今日の風は強い。窓の隙間から入り込んだ冷気が、机の上の短剣を撫でた。一度も使わなかった短剣を手に取り、私は小さく息を吐いた。
戦争が終わるかもしれない、と昨日、食料の包み紙に走り書きされていた。勇者と魔王がともに死んだのなら、そうなるのかもしれない。そうであってほしい、と人は願うのだろう。
けれど終わる戦と、終わらないものは、たいてい別だ。
そう思ったところで、粗末な木の扉が乱暴に開いた。
「アルシエラ、お前の結婚が決まった」
吹き込んだ風が銀髪を巻き上げる。咄嗟に片手で押さえ、立ち上がろうとして、私は一瞬だけ動きを止めた。
勇者の死を悼む鐘が鳴る日に、最初に告げられる言葉がそれなのか、と。
おかしくなってしまいそうなほど場違いで、だからこそ妙に現実味があった。
「……陛下」
開け放たれた扉の向こうに立つのは、ハスガル・フィエルクマティア国王。赤と金の豪奢な外套は裾を土で汚し、整えられているはずの金髪も、今日は指で後ろへ掻き上げただけのように乱れている。
急いで来たのだろう。王が、こんな離れの、王族が出入りするとは到底思えない小屋まで。
「御冗談はよしてください。罪人を娶る方など、どこにいらっしゃるのですか」
「冗談であればよかったがな」
陛下は低くそう言ってから、室内を見回した。
「……椅子はあるか」
「一つだけでしたら」
手に持ったままの短剣を机に置きなおす。
書物の山の脇に置いていた布張りの椅子を引き、陛下へ差し出す。私は床に積んであった厚い本を二冊重ね、その上に浅く腰かけた。
向かい合うと、陛下の金の瞳が真正面からこちらを見る。
幼い頃、その目はもっと怖かった気がする。王の目だったからだろう。今は、怖いというより疲れて見えた。
「埃だらけだな。使用人はどうした」
「四年ほど前に追い出しました。クロア教の聖典で殴られそうになりましたので」
陛下の眉間に深い皺が寄る。
「ここへ移してすぐではないか」
「ええ。おかげで一人暮らしの腕は上がりました。食材は届きますし、書物も届きます。生きる分には困りません」
「困っているだろう」
「そうでしょうか」
問い返すと、陛下は苦々しく息を吐いた。
沈黙が落ちる。外ではまだ鐘が鳴っていた。
「……結婚、とは」
先に口を開いたのは私だった。
「どういう意味ですか」
「言葉の通りだ。停戦の証として、お前が魔族へ嫁ぐ」
覚悟はしていた。
処分。追放。引き渡し。そうした語なら、心のどこかで用意していた。
けれど、結婚、は想定していなかった。
その言葉だけは、もっと明るい場所で言われるものだと思っていたからだ。
花と祝福と、笑い声のある場所で。
少なくとも、雨の染みた天井と、冷えた灰と、積み上がった古本に囲まれた小屋で、罪人に申し渡されるものではない。
「……停戦」
「勇者と魔王が死んだ。戦線は動かん。だが、終わったとも言い切れぬ。互いに次の旗印を立てる前に、形だけでも止めねばならぬと考えた者たちがいる」
陛下はそこで言葉を切った。ほんの一瞬だけ、その視線が私の顔を探るように揺れる。
まるで、鐘の音が誰にとってどれほど重いものか、確かめようとするように。
「私が、その形ですか」
「……そうだ」
答えは短かった。そこには王の声が混じっていた。私情を切り離した、国家の声だ。けれど、そのあとに続いた声はわずかに掠れていた。
「本来なら、断りたかった」
「ですが、断れなかった」
「ああ」
それだけで十分だった。
大きな話なのだろう。国と国、あるいはもっと大きな思惑の絡む話だ。私ひとりが拒んだところでどうにもならず、陛下ひとりが怒ったところで覆せない。
そして、その手の話において、私が選ばれる理由も分かる。
惜しまれず。
しかし無価値でもなく。
手放すにはちょうどいい。
私に、向いている役目だ。
「私は大陸でいちばん、死を望まれているのだと思っておりましたが」
自分でも驚くほど、声音は静かだった。
「どうやら結婚に関しても、大陸一望まれているようですね」
陛下の顔が歪んだ。怒りか、悲しみか、その両方か。
「そのように言うな」
「事実でしょう」
「事実であってもだ」
短い叱責だった。けれど、王としてではなく父としての響きがあった。
私は少しだけ視線を伏せる。
この人は、最初から私を邪険にしたわけではなかった。養子として迎えられた日、王妃も、王子も、王女も、たしかに笑っていた時期がある。少なくとも幼い私は、そう記憶している。
ただ、それを守り通せるほど世界は優しくなかった。
そして私もまた、守られるに足る子どもではいられなかった。
「お前さえよければ、城へ戻してもよいのだぞ」
「陛下がよくても、陛下以外が許しませんでしょう」
即座に返すと、陛下は何も言わなかった。否定しない沈黙は、たいてい肯定より重い。
私は指先を軽く振った。空の薬缶がふわりと持ち上がり、水差しから水を受けて、炉の上へ移る。火打石も使わずに灯した火が静かに底を舐め、湯が温まり始めた。
「話が長くなりそうでしたので、紅茶を淹れます」
「……座ったままで済ませるな」
「便利ですので」
乾いた果実を風で裂き、茶葉とともに小鍋へ落とす。狭い小屋では、魔術のほうがよほど勝手がよい。手を伸ばさずとも、火も水も風も、言うことだけは素直に聞いた。
陛下はしばらくその様子を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「城の魔導士どもより、よほど器用だ」
「生活に困らぬ程度です」
「生活に困らぬ程度、で、それだけ扱えれば大したものだ」
湯気が立つ。茶の香りが、埃っぽい室内にやわらかく広がった。
「相手は」
茶を注ぎながら、私は尋ねた。
「……次の魔王だ」
私は頷いた。驚きはした。けれど、声を上げるほどではなかった。戦争を止めるための婚姻であるなら、そこに置かれる相手としては、もっとも分かりやすい。
分かりやすくて、最悪なだけだ。
「魔族に、結婚という概念があるのですね」
「余もそう思った」
「では、向こうは嫌がっていないのですか」
「嫌がっていない、とは言わぬ。だが拒んではいない」
そこで陛下はひどく言いにくそうに言葉を切った。
「向こうにも事情があるのだろう。……こちらと同じくな」
その一言だけで十分だった。
ああ、そうかと思う。
私だけではない。向こうにもまた、都合よく差し出せる何かがいるのだ。名誉ある和平の象徴などではない。ただ、両者が扱いあぐねたものを、婚姻という飾り箱に押し込めるだけ。
その事実は私を慰めはしなかった。けれど奇妙に腑には落ちた。
「お前は、落ち着いているな」
「錯乱した侍女が、とても丁寧に私が死ぬべき理由を教えてくださいましたから。四年もあれば、大抵のことは受け入れられるようになります」
陛下は目を閉じた。痛みを堪えるように、わずかに眉を寄せる。
「……それを娘の成長と受け取るには、あまりに切なすぎる」
その言葉に、喉の奥が少しだけ熱くなった。
困る。
今さらそんなふうに言われると、困るのだ。
私はもう、受け入れるほうが楽だと知ってしまったのに。
「アルシエラ」
陛下はカップに触れもせず、まっすぐ私を見た。
「王として言う。今回の婚姻を、フィエルクマティアは拒めぬ」
「はい」
「だが、それでも」
そこで一度、言葉が途切れる。
王の顔が剥がれ落ちるのを、私は見た。
「――余の中で揺らぐのは、父としての覚悟だ」
その一言だけで、私は返す言葉を失った。
この人は、私を国の駒として差し出そうとしている。
それは事実だ。
けれど同時に、この人は私を娘として惜しんでいる。
その二つが同じ胸のうちにあることを、知っている。知ってしまっている。だからこそ、責めることも、縋ることもできない。
膝の上で組んだ指先に、爪が食い込む。
呼ばなければ、このまま終えられる気がした。
けれど一度だけ息を呑んで、私は口を開く。
「……お父様」
陛下の目が見開かれる。何年ぶりかも分からない、その呼び方に。
胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。
これ以上は駄目だと思う。泣いてしまえば、きっと覚悟がほどける。
だから私は、笑うしかなかった。
「私は、どのような運命でも受け入れる覚悟を持っています」
陛下は何も言わなかった。
ただ深く椅子に腰を沈め、片手で顔を覆った。指の隙間から零れたものを、私は見ないふりをした。
見ないふりをすることなら、昔から得意だった。
湯気はもう薄い。私の前の紅茶も、陛下の前の紅茶も、少しずつ冷めていく。
勇者を悼む鐘は、まだ鳴っていた。
私はカップを持ち上げ、ぬるくなった茶を一口だけ飲む。果実の甘みがわずかに舌に残って、それがひどく場違いに思えた。
「出立は近い」
やがて陛下が言った。
「迎えは数日のうちに来る。城で祝宴は開けぬが、嫁入りの支度は整えさせる」
「祝ってくださるのですか」
「祝うとも」
陛下は静かに、けれど強く答えた。
「たとえ世界が生贄と呼ぼうと、余は娘を嫁に出す」
その声音に、私は少しだけ目を伏せた。
「次にお会いする時は」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「どうか、娘の結婚を心から祝福してくださいね。お父様」
陛下は立ち上がりかけたまま、しばらく動かなかった。
それから、ひどく困ったような、それでもどこかやわらかな顔で笑った。
「お前が幸せであるなら、な」
扉が閉まる。
また静けさが戻る。
鐘の音だけが、変わらず遠くで鳴り続けていた。
勇者が死んだ日。
私の結婚が決まった日。
どちらも、誰かにとっては祝福で、誰かにとっては終わりなのだろう。
私は冷めた紅茶を見下ろし、それから窓の向こうの灰色の空を見た。
魔王。
書物の中でしか知らないその存在に、顔はない。声もない。ただ異形と暴力と災厄の象徴として、頁の上でいくつもの姿を取っているだけだ。先代も、その前の代も、書物が語る魔王はいつも男の輪郭をしていた。その点だけは、どの本も疑っていなかった。
そんなものの花嫁になる。
死ぬよりはましだと、思えるのだろうか。
答えは出なかった。
けれど、もう考える時間は、あまり残されていないのだろう。




