第九十五話「港町の色彩と、銀の髪の旅立ちの不安」
その朝、エルデンベルク王城は、旅立ちの静かな高揚感に包まれていた。ルードヴィヒ国王は、隣接する海洋国家、ポルトフィオ公国との重要な貿易協定を結ぶため、シャルロッテを伴い、一週間の外遊に出発する。
シャルロッテは、王妃エレオノーラが特別に仕立てた、海のような青と白のセーラードレスに身を包んでいた。
◆
城門の前で、家族との別れの時間が訪れた。
エレオノーラ王妃は、娘の小さな肩をそっと抱いた。
「シャル。初めての外遊よ。知らない場所で不安になるかもしれないけれど、あなたの『可愛い』という心は、どんな場所でも通用する最高のパスポートよ」
アルベルト王子は、妹のために、風属性魔法で、旅路の天候が穏やかになるよう、微細な祝福を込めた。
フリードリヒ王子は、妹の無事を祈り、「シャル! 兄ちゃんが剣の訓練を頑張っているから、安心していってこい!」と、豪快に妹を抱きしめた。
兄姉たちの愛に包まれながら、シャルロッテは、少しだけ不安を感じていた。「見慣れない場所で、私の『可愛い』は、本当に通じるのだろうか」という、小さな問いが、彼女の心に影を落としていた。
◆
城門の前で、家族との別れが済むと、国王とシャルロッテは、厳重な護衛の輪に囲まれた。先頭にはオスカー執事が、後方には騎士団の精鋭が続き、万全の態勢で旅は始まった。
不安を抱えたままのシャルロッテは、王国の国境を越えるまでは、大人しく馬車の中にいた。しかし、ポルトフィオ公国に入り、馬車が活気ある港町に到着した途端、彼女の好奇心は抑えきれなくなった。
港町の色彩は、エルデンベルク王国の重厚な石造りの街並みとは全く違っていた。壁は、太陽の光を反射する鮮やかなオレンジやターコイズブルーに塗られ、空気は塩と魚と、聞いたことのないスパイスの匂いで満ちていた。
「わあ……!」
◆
ルードヴィヒ国王は、娘の学習のために、厳重な護衛を伴いつつ、港町の市場を案内した。オスカー執事は、王と王女の周囲を、視線で囲い込むような、完璧な護衛陣を敷いていた。
しかし、シャルロッテの好奇心は、その護衛の「完璧な輪」を、いとも簡単に破った。
彼女は、まず、露店に並ぶカラフルな魚に目を奪われ、風属性魔法をごく微細に応用して、周囲の魚の匂いを、自分の鼻の先にだけ集中させた。
「ん~! この魚、太陽の匂いがする!」
次に、彼女は、露店の裏側に積み上げられた、赤・黄・緑の唐辛子の山に魅了された。護衛の輪から脱走しないよう、モフモフを盾に使い、騎士の視線を掻い潜って、その唐辛子の山に手を伸ばし、光属性魔法で、唐辛子の表面の色と光のコントラストを増幅させた。
「見て、モフモフ。この赤、お姉様のドレスよりも情熱的だよ!」
オスカー執事が「殿下! いけません!」と駆け寄る一瞬の隙に、シャルロッテは、別の露店の奥にある、聞いたことのないスパイスの壺を覗き込み、その匂いを嗅いで、クシャミをしてしまった。その可愛らしいクシャミは、周囲の護衛たちを一瞬和ませた。
◆
国王は、娘の「好奇心の爆発」に、内心ハラハラしていたが、娘が異文化の色彩と匂いを、全身で受け入れている姿を見て、安堵の息をついた。
最後に、シャルロッテは、市場の片隅で売られている、鮮やかな青と緑の羽を持つ、小さな鳥の形をした木彫りの玩具を見つけた。
「パパ! これ、すごく可愛い! まるで、空を飛ぶ宝石みたい!」
国王は、その玩具を買い与えた。
シャルロッテの心にあった小さな不安は、異文化への強烈な好奇心と、護衛の目を掻い潜る遊び心に飲まれて、完全に消え去った。
「異国の『可愛い』も、わたしの魔法で、もっともっと可愛くできるね!」
シャルロッテの純粋な「可愛い」の感性は、厳重な護衛の輪を破り、異文化の色彩と熱狂を、自分のものとして取り込み始めたのだった。




