第八十九話「夜明けのテラスと、消えた『影のナイフ』の証明」
その日の深夜、王城のテラスは、街の灯りから遠く、硬質な月光だけが満ちていた。空気が冷たく澄み渡り、遠くの街の微かな騒音だけが、虚ろに響いている。
アルベルト王子は、そのテラスで、一人、静かに立っていた。彼は、外交の交渉で、「信用できない協力者」と手を組むという、苦渋の決断を迫られていた。その重圧と、真実の見えない不信感が、彼の心を冷たい影で覆っていた。
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シャルロッテは、モフモフを抱き、兄の隣にそっと立つ。彼女は、兄の周りに、不信感から生まれた、鋭利な「影のナイフ」が、無数に漂っているのを感じていた。そのナイフは、目に見えないが、兄の心を微細に傷つけ続けている。
「ねえ、兄様。顔が、都市の喧噪の影みたいに、冷たいよ」
アルベルトは、妹に弱音を吐くことを良しとしない。
「シャル。これは、王族としての必要な緊張感だ。信用とは、常に疑うことでしか、得られない」
「ううん、違うよ」
シャルロッテは、光属性魔法で、自分の銀色の髪を、月の光を吸収する、淡い金色の光に変えた。そして、その髪を、アルベルトの冷たい手に、そっと押し付けた。
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シャルロッテの純粋な「光の髪」が触れた瞬間、アルベルトの周りに漂っていた「影のナイフ」は、音もなく、静かに消滅した。
「ね、兄様。誰かを信じるのは、自分の心に、影を入れないことだよ。疑いの気持ちが、影をナイフに変えるの」
シャルロッテは、兄の瞳を見つめた。
「私はね、兄様が、たとえ信用できない人と手を組んでも、兄様自身は、最後まで正しいことをするって、信じてる。だから、兄様の心は、ナイフを作らないよ」
それは、相手を信じるのではなく、「信じようとする兄の行動と、その意志」を信じるという、硬質で、しかし究極の信頼の美学だった。
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アルベルトは、妹の純粋な愛と、その透徹した知恵に、全身の緊張が解けるのを感じた。
「シャル。君は、私にいつも人間が持つ、最も硬質な愛を教えてくれる」
彼は、妹を抱きしめ、テラスの床に落ちた、自分の影を見つめた。影は、もうナイフの形ではなく、妹の影と重なり、優しく、温かい輪郭を描いていた。
その日の夜明け前、アルベルトは、外交の決断を下した。それは、最もリスクが高いが、王国の未来にとって最も誠実な道だった。彼の胸には、妹の愛という確固たる信頼が宿っていた。
テラスの硬質な月光は、二人の間に交わされた、孤独を乗り越えるための、静かで、しかし揺るぎない絆を、優雅に照らしていた。




