第八十三話「騎士訓練場の午後の静寂と、白いチョークの『五分の約束』」
その日の午後、王城の騎士訓練場は、珍しく静寂に包まれていた。第二王子フリードリヒは、新しい剣術の型を反復練習していたが、その動きは、どこか迷いを帯びていた。
フリードリヒは、剣を一度振り下ろすたびに、白いチョークで描かれた、地面の小さな目印をちらりと見る。その目印は、完璧な足運びを示すための印だが、フリードリヒの動きは、その目印から、一寸だけずれていた。
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訓練場の端には、シャルロッテが、モフモフを抱いて座っていた。彼女は、兄の剣術の技術的な迷いではなく、「完璧なフリードリヒ」という理想と、「現実の自分」という微妙なズレに苦しんでいる、兄の心の機微を感知していた。
そこに、王立学院の若手騎士である、エミールが、フリードリヒに声をかけようと近づいてきた。エミールは、フリードリヒの剣術に憧れているが、どこかフリードリヒを越えたいという、複雑な感情を抱いている。
「フリードリヒ殿下。その目印、少しずれていませんか」
エミールは、そう指摘したが、その言葉には、優しさよりも、ライバルとしての微妙な優越感が滲んでいた。
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フリードリヒは、何も答えず、剣を収めた。その場の空気は、一瞬、ぴんと張り詰めた。
シャルロッテは、立ち上がり、兄とライバルの間に、そっと入った。
「ねえ、エミールお兄様。この目印はね、五分の約束なんだよ」
「五分の約束?」
シャルロッテは、チョークの目印を、小さな足でそっと踏んだ。
「この目印はね、完璧な場所じゃないの。『ここから、あと五分だけ、頑張る』っていう、兄様との約束の場所なんだよ。五分だけ頑張ったら、ズレてもいいの。だって、頑張ったんだから」
彼女の言葉は、完璧を求める兄のプレッシャーを、「短い時間で区切られた、清々しい努力」へと変換させた。
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そして、シャルロッテは、チョークの目印に、光属性と風属性の魔法を応用した。
彼女が魔法をかけると、チョークの目印は、消えずに残ったまま、その周りの地面だけが、ごく微細に虹色に揺らぐ光の砂に変化した。
「ね、フリードリヒ兄様。この目印は、もう動かないよ。でもね、この周りの砂は、兄様の心の揺らぎを、優しく受け止めてくれるのよ」
それは、「完璧さ」という硬い目標を、「揺らぎ」という感情の余白で包み込む、シャルロッテの愛の魔法だった。
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フリードリヒは、妹の純粋な愛と、その言葉の深さに、心が洗われるのを感じた。
彼は、エミールに向かって、静かに言った。
「俺の剣術は、完璧ではない。だが、俺の妹は、俺の不完全さを愛してくれた。俺の剣は、その愛のために振るわれる」
エミールは、その言葉と、妹と兄の間にある、言葉にならない強い絆を見て、ライバルとしての優越感など、どこかへ吹き飛んでしまった。彼は、初めて心からフリードリヒを尊敬し、静かに訓練場を後にした。
フリードリヒは、妹を抱きしめ、再び剣を構えた。彼の動きは、まだわずかにズレているが、その剣には、迷いが消え、清々しい愛の強さが宿っていた。