第七十七話「夜明け前の温室と、交わされた『秘密の片翼』」
深夜、王城は深い静寂に包まれていた。シャルロッテは、自分の部屋から放たれる、ごく微細な、ガラスが擦れるような、共鳴を求める魔力の不協和音に目覚めた。それは、第二王女マリアンネの心の叫びだった。
マリアンネは、常に論理と知識を求め、自身の内向的な性格と、研究者としての孤独な道に、人知れず苦悩していた。彼女の魔力は、その孤独と自己否定を反映し、鋭く、冷たい不協和音を奏でていたのだ。
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シャルロッテが向かった温室は、月の光を浴びて、蒼い水晶体のように輝いていた。空気は湿り、植物の微かな息遣いだけが響く、幻想的で静謐な空間だ。
温室の中央、月光が差し込む一角には、マリアンネが座り込んでいた。彼女の手には、王立学院の標本室から持ち出してきた、ガラスの破片が連なったような、透明で美しい蝶の標本。
その蝶は、片方の羽が、まるで鋭利なナイフで切り取られたかのように欠けていた。マリアンネの冷たい瞳は、その不完全な美しさと、自己の不完全な存在を重ね合わせていた。
「私は、完璧な王女でも、完璧な研究者でもない。この蝶のように、永遠に片翼のまま、飛び立つことすら許されないのよ」
マリアンネの魔力の不協和音は、蝶の欠けた羽に集まり、小さな痛みを伴う光を放っていた。
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シャルロッテは、マリアンネの隣に座り、何も言わず、ただ自分の銀色の髪とともに、姉の冷たい腕にそっと寄り添った。
「お姉様、その蝶、なんだか、泣いているみたい」
マリアンネは、妹の純粋な優しさに、思わず涙が溢れそうになったが、自己否定の鎖がそれを許さない。
シャルロッテは、欠けた蝶の片翼を、自分の翠緑の瞳に映した。そして、自分の銀色の髪から、プラチナ色の光の糸を、極めて繊細に、しかし力強く引き出した。
「欠けた羽はね、もう一つ、愛の羽を探してるんだよ。このままじゃ、寂しいもの」
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シャルロッテは、その光の糸を、変化魔法で、蝶の欠けた片翼の形に、一秒間に千回もの微細な振動を与えながら、精緻に編み上げた。その翼は、ガラスの蝶本体よりも、遥かに儚く、優雅だったが、「永遠の愛」という魔力に裏打ちされていた。
「お姉様。これはね、わたしがお姉様にあげる、愛の羽。不完全でいいの。私たちは、お互いの欠けた部分を、愛で補い合って、二人で一つの、完全な翼になるのよ」
マリアンネは、妹の純粋な愛の献身と、その言葉の深くロマンティックな真理に、自己否定の鎖が音を立てて砕けるのを感じた。彼女の孤独と、不完全さへの苦悩は、妹の献身的な愛によって、「愛の可能性」へと昇華された。
彼女の冷たい瞳から、涙が溢れた。その涙は、頬を伝うのではなく、蒼い魔力の粒となって、蝶の欠けた部分に落ち、光の翼と融合した。
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マリアンネは、光の翼を受け取ると、それを自分の心臓の上、胸元に、大切に抱きしめた。
「シャル……あなたは、私の魂の双子よ。あなたは、私が論理で探求していた『愛の究極の形』を、こんなにも優しく、美しく、私に教えてくれた」
マリアンネは、その感謝の証として、自分の秘密の象徴だった欠けた蝶の標本を、シャルロッテに譲り渡した。
「この蝶は、これからはあなたのものよ。そして、私の欠けた翼は、永遠にあなたの愛と共に、私の心の中にある」
シャルロッテは、蝶の標本と、姉の愛の証を受け取ると、満面の、幸福な笑顔になった。二人の少女の間には、激しく、しかし切なく、そして美しい、運命的な姉妹愛の絆があらためて結ばれた。温室の蒼い光は、二人の純粋な感情を優しく照らし、その光景は、誰にも触れられない、永遠の美の瞬間となったのだ。