第七十五話「温室の『繭』と、記憶を編む光の糸」
その日の午後、王城の温室は、外の明るい日差しにもかかわらず、どこか薄曇りのような、静かな光に満たされていた。温室の中央には、庭師ハンスが大切に育てている、銀色の繊維に包まれた、巨大な繭が置かれていた。
その繭は、王城に伝わる珍しい魔法生物の孵化を待つもので、外から見ると、内部で生命の微細な活動が起こっているのが、かすかに透けて見える。
シャルロッテは、モフモフを抱き、その繭の前に立っていた。彼女の銀色の髪は、温室の光を浴びて、繭と同じプラチナのような、透明な輝きを放っている。
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シャルロッテは、その繭が放つ、「新しい生命の誕生への期待」という静かな魔力の波動を感じ取っていた。
彼女は、そっと繭に触れた。繭の表面は、シルクのように滑らかで、彼女の指先から、繭の内部の生命体へ、魔力の信号が伝わっていく。
シャルロッテは、光属性魔法を応用し、繭の表面に、極めて微細な、虹色の光の糸を編み始めた。それは、繭の生命に、「生まれてくる世界は、愛と優しさに満ちている」という、温かい記憶を送り込むための、無言の祝福だった。
繭は、シャルロッテの魔法によって、虹色の光の糸に包まれ、まるで夢の揺りかごのようになった。
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そこに、マリアンネ王女が、温室にやってきた。彼女は、妹の創り出した幻想的な光景に、息を飲んだ。
「シャル……これは、一体……」
マリアンネは、シャルロッテの魔法が、繭の内部の生命体の魔力パターンを、穏やかで、幸福な状態に保っていることを、魔法解析で感知した。
「これは、単なる祝福ではないわ。まるで、生命の初期段階の『記憶の設計図』を、上書きしているようだわ」
マリアンネは、妹の魔力と、その純粋な感情が持つ生命の根源への影響力に、驚愕した。
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シャルロッテは、マリアンネを振り返り、にっこり微笑んだ。
「お姉様。この子、生まれてくるのが、ちょっと怖いって言ってるの。だからね、生まれる前の夢に、可愛いものと、優しい光を、いっぱい見せてあげてるの!」
マリアンネは、妹の純粋な優しさと、その魔法の力の強さに、胸を打たれた。
「シャル。あなたは、本当に、優しさで世界を編むことができるのね」
マリアンネは、妹の創造性を邪魔しないよう、そっとその場を離れた。
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数日後、繭は静かに割れ、そこから新しい魔法生物が姿を現した。
その生物は、絹の囁きと呼ばれた。体は、透明なガラス細工のように繊細で、内部には、微細な星々の光が絶えず瞬いている。大きな羽は、朝霧に濡れた蝶の羽のように、虹色の遊色光を放ち、その羽ばたきは、絹の衣擦れの音のような、微かな、美しい音色を奏でた。
その生物は、通常、荒々しい性質を持つはずなのに、驚くほど穏やかで、優しさに満ちた魔力を持っていた。シルク・ウィスパーは、真っ先にシャルロッテの銀色の髪に舞い降り、その頬に、冷たい月光のようなキスをした。
庭師のハンスは、この奇跡を「三女殿下の光の祝福」だと称した。
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しかし、シルク・ウィスパーは、この世界に長く留まることはできない運命だった。その美しい命は、純粋すぎるがゆえに、遥か遠い、星々の織りなす故郷へと帰らなければならないのだ。
一日の終わり、温室の光が最も優しくなる夕暮れ時。シルク・ウィスパーは、シャルロッテ寄り添い、静かに震えた。
「可愛い子……。でも、もう行かなくちゃいけないのね」
シャルロッテは、その儚い生命の別れを予感し、涙ぐむことはなかったが、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
シャルロッテは、シルク・ウィスパーの透明な体に、最後の、最も濃い、光属性の愛の魔力を流し込んだ。それは、別れの悲しみを消すのではなく、「別れても、この愛の記憶は、あなたの魂の中で永遠に輝き続ける」という、切ない約束の光だった。
シルク・ウィスパーは、シャルロッテの指先から静かに飛び立ち、温室のガラス屋根を突き破り、夜空へと舞い上がった。その虹色の遊色光は、夜空の星々を、一瞬、強く煌めかせた。
シャルロッテは、モフモフを抱き、温室の静寂の中で、優しく微笑んだ。
「可愛い子……。生まれてきてくれて、そして、私に、永遠の愛の記憶をくれて、ありがとう……」
シルク・ウィスパーの儚い存在は、シャルロッテの心に、この世界の生命の美しさと、愛の切なさを、永遠に刻んだのだった。