第七十四話「小さな唇の秘密と、王城のパニック」
その日の夜、ルードヴィヒ国王は、隣国の使節団を招き、厳かな晩餐会を催していた。大食堂の隅のテーブルには、シャルロッテのために、特別に用意されたフルーツジュースと可愛らしいデザートが並んでいる。
シャルロッテは、モフモフを膝に抱き、デザートに夢中だった。
その時、給仕が、アルベルト王子のワイングラスに、熟成された深い赤ワインを注ぎ入れた。グラスから立ち上る、芳醇な香りが、シャルロッテの鼻をくすぐった。
「わあ、いい匂い!」
シャルロッテは、ワイングラスに好奇心を惹かれた。彼女は、ワインが「大人のおいしいジュース」だと勘違いしていたのだ。
◆
アルベルト王子が、使節団との会話に気を取られている、ごくわずかな瞬間。
シャルロッテは、そっとグラスに近づき、小さな舌の先で、ワインをちょっぴり、本当にごく少量だけ舐めた。
「ん……?」
次の瞬間、彼女の顔が、あっという間に茹でた苺のような鮮やかなピンク色に染まった。彼女の規格外の魔力と幼い体が、ごく少量のアルコールに過剰に反応したのだ。
シャルロッテは、自分の世界が一瞬にして、虹色のシャボン玉で満たされたように感じた。彼女の瞳は、潤み、焦点が定まらない。
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「えへへ……なんだか、世界が全部、ふわふわだよ……」
シャルロッテは、そう言うと、持っていたモフモフを、「モフモフのぬいぐるみ」ではなく「空飛ぶ絨毯」だと勘違いし、モフモフに跨がろうとした。モフモフはご主人様の異常事態に手足をばたばた振って懸命に助けを求める。
その異常事態に、まず気づいたのは、フリードリヒ王子だった。
「シャル! どうした!?」
アルベルトは、妹の目の潤みと、そのすぐそばにあるワイングラスを見て、すべてを悟った。
「大変だ! シャルが、ワインを!」
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王城は、一瞬でパニック状態に陥った。
ルードヴィヒ国王は、使節団との会話を中断し、顔面蒼白で娘の元へ駆け寄った。
「シャル! 我が宝よ! 誰だ! 誰がこんな危険なものを、我が娘の近くに置いたのだ! オスカー! 直ちにワインの製造責任者を捕らえろ!」
エレオノーラ王妃は、娘を抱きしめ、焦った様子で水属性の治癒魔法をかけ始める。
「すぐに魔力を中和しないと! ああ、私の可愛いシャルが、こんなに熱を出して!」
アルベルトは、冷静さを失い、「誰か! 解毒剤を! 全治癒魔法師を招集しろ!」と、国政よりも妹の体調を優先した指令を出す。
フリードリヒは、妹の酔態の愛らしさに、胸をときめかせつつも、妹を守る騎士の本能で、周りのワイングラスを全て、土属性魔法で一瞬で砂に変え、場を清めた。
◆
シャルロッテは、そんな家族の過剰な心配をよそに、幸せの絶頂にいた。
「ママ……パパ……兄様たち……みんな、いっぱい愛の光を出してるね。わたし、みんなの愛の光を、全部集めたいよ……」
彼女は、虹色の魔力を放ちながら、ふらふらと立ち上がった。そして、晩餐会に出席していた隣国の使節団に向かって、愛の光のシャワーを浴びせた。使節団は、突然の癒やしの魔力に、呆然としながらも、心が温かくなるのを感じた。
やがて、王妃の治癒魔法が効き、シャルロッテの顔色は戻った。彼女は、そのままベッドに運ばれ、すぐにぐっすりと眠りについた。
翌朝、目覚めたシャルロッテは、昨夜の出来事を何も覚えていなかった。
しかし、彼女の周りには、家族全員が徹夜で編んだ、「二度とワインを舐めないように」という願いが込められた、世界一可愛いフリルの誓約書が置かれていたのだった。