第七話「甘いマカロンと、第一王子の難題外交」
王の執務室の隣にある会議室には、重く、淀んだ空気が漂っていた。第一王子アルベルトは、疲れた顔で額に手を当てている。
「まったく、困ったものだ」
ルードヴィヒ国王が、深いため息をついた。
「隣国のザクセン公国は、若き新王子が就任して以来、交渉のテーブルに着くことさえ一苦労だ。特に、今回の貿易協定の件は、先方も頑なで、我々の提案に一切の譲歩がない」
「あのオスカーでさえ、笑顔一つ引き出せなかったそうで……」と、オスカーが自嘲気味に呟いた。
「相手は格式を重んじ、装飾を嫌い、甘いものやフリルなど『軟弱』なものを徹底的に排除する主義のようだ。どうすれば、あの硬い心を動かせるのか」
アルベルトは、完璧主義の彼にしては珍しく、頭を抱えていた。
◆
その日の午後、王城の図書館。シャルロッテは、姉たちとティータイムを楽しんでいた。イザベラはファッション雑誌を広げ、マリアンネは魔法理論書を眺めている。
「アルベルト兄様がね、外交で困ってるんだって」
シャルロッテが、朝の会話を姉たちに伝えた。
「相手の王子様は、可愛くないものが好きなんだって。甘いものも、フリルも、全部いらないって。かわいそう!」
イザベラは雑誌を閉じ、優雅に顎に手を当てた。
「ふむ。可愛くないものが好き、というよりも、彼らの国の伝統や格式が、それを許さないのかもしれないわね。でも、人間には心を動かすものがあるはずよ」
「そうよ、シャル。みんながみんな、魔法や理屈で動くわけじゃない。心の奥底にある、純粋な喜びよ」
マリアンネが眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
「よし! じゃあ、わたしがその王子様の心を動かしてあげる!」
シャルロッテは、可愛いものが大好きな自分と正反対の人間がいるということに、純粋な義憤を感じていた。「可愛くないものが好き」という状態は、彼女にとって「病気」のようなものだ。
「そうだわ! イザベラお姉様、わたしに力を貸して! 可愛いお菓子外交をするの!」
◆
翌日、外交団の最終準備が進められる中、アルベルトの元に、妹たちが現れた。
「兄様! これに着替えて!」
イザベラが差し出したのは、いつもの端正な制服とは少し違う、仕立て直されたタキシード風の衣装だった。
「これは……襟元の刺繍が少し華やかすぎるのではないか?」
「いいえ! これはザクセン公国の伝統的な装飾をモチーフにした、極めて格式高いデザインよ。でもね、よく見て」
イザベラが襟元を指差す。そこには、王家の紋章である銀の薔薇と翠の葉をかたどった、小さなブローチがさりげなくあしらわれていた。これはシャルロッテが、光属性魔法で金属を加工して作ったものだ。
「…これは、華美ではないが、確かに美しい」
「ええ。相手の格式を尊重しつつ、王家の品格と、ほんの少しの温かみを加えたのよ」
◆
その直後、シャルロッテが、エマにワゴンを押させて入ってきた。ワゴンには、色とりどりの小さな箱が積まれている。
「アルベルト兄様! この子たちを、王子様に持って行ってあげて!」
箱の中には、ザクセン公国の厳格な紋章が、見事に砂糖菓子で再現されたマカロンが詰まっていた。一つ一つが宝石のように精巧で、まるで芸術品のようだ。
「マカロン? だが、相手は甘いものを嫌うと……」
「大丈夫! このマカロンは、見た目は可愛いけど、甘さは控えめなの。それに、マリアンネお姉様と、わたしが工夫したのよ!」
シャルロッテは、マリアンネと協力し、マカロンに二つの魔法をかけていた。
一つは、保存魔法。長旅でもマカロンの繊細な食感と美しさを完全に保つ。
もう一つは、風味魔法。マカロンには、ザクセン公国で珍重される薬草の香りをわずかに含ませてあった。
「甘いものが嫌いでも、美しさと、心遣いは、きっと伝わるよ!」
◆
隣国の会議室。交渉は、やはり難航していた。
ザクセン公国の若き王子、ヴェルナーは、その名に相応しく、鉄壁の表情を崩さない。
「エルデンベルク王子の提案は、我が国の国益を損なう。譲歩は一切できない」
アルベルトは、硬直した空気を打開するため、休憩を申し入れた。そして、シャルロッテから預かった箱を、ヴェルナー王子の前に静かに差し出した。
「ヴェルナー殿下。これは、私の末の妹、シャルロッテが、あなたの国のために心を込めて作ったものです」
ヴェルナー王子は、表情一つ変えずに箱を開けた。その瞬間、彼の部屋に、甘い香りではなく、清涼感のある薬草の香りが広がった。
目の前に現れたのは、彼の国の紋章を完璧に模した、美しいマカロンの数々。その精巧な美しさは、彼の厳格な美意識をも満たした。
「これは……」
アルベルトは静かに続けた。
「妹は、『相手を笑顔にしたい』という純粋な気持ちだけで作りました。甘いものがお嫌いと伺いましたので、風味にはあなたの国の特産であるハーブをわずかに加えております。どうか、ご賞味ください」
ヴェルナー王子は、マカロンの一つを手に取った。その薄い生地が光を透過する様、そして自分の国の紋章の再現度の高さに、彼は言葉を失った。
そして、一口。
サクッ、と繊細な音が響く。控えめな甘さの中に、彼の好むハーブの清涼感が広がる。それは、彼の予想を裏切る、優しさと心遣いの味だった。
ヴェルナー王子は、硬い表情のまま、マカロンを飲み込んだ。そして、ゆっくりと顔を上げると、初めて、わずかな微笑みを浮かべた。
「……美味だ。このような繊細な心遣い、感謝する」
◆
その一言で、その後の交渉の空気は一変した。ヴェルナー王子は、マカロンの心遣いに応えるように、以前よりも柔軟な姿勢を見せ始めた。アルベルトは、妹の「可愛いお菓子外交」の力を痛感した。
「政治は難しくとも、人の心はいつだって純粋な優しさに勝てない、か」
アルベルトは、胸元の銀の薔薇のブローチにそっと触れた。
◆
王城に戻ったシャルロッテは、アルベルトから報告を受け、大喜びした。
「わあ! マカロンが、王子様を笑顔にしたんだね! 可愛いマカロン、やったー!」
シャルロッテは、虹色ユニコーンのぬいぐるみと、横で丸くなっているモフモフを抱きしめ、くるくると回った。
「シャル、お前は本当に国の宝だ」
アルベルトが、心から尊敬の眼差しを向ける。
「ねえ、イザベラお姉様。今度は、あの王子様のために、もっと可愛い衣装を贈りたいな。最初は抵抗するかもしれないけど、きっと可愛いものは、みんなを幸せにするから!」
イザベラは、妹の無邪気な優しさに微笑みながら、新しいドレスのデザイン画を広げた。
「ええ、シャル。そうしましょう。世界で一番可愛いものが、あの硬い心を溶かしてあげるのよ」
お菓子とファッションと、そして何よりシャルロッテの純粋な優しさが、エルデンベルク王国の外交を、今日も平和で甘く導いていくのだった。