第六百十三話「革の匂いと、姫殿下の『明日のためのピカピカ』」
昨日の雨でぬかるんだ庭を散歩したせいで、シャルロッテのお気に入りの編み上げブーツは、すっかり泥んこになっていました。
普段なら、メイドのエマが預かって綺麗にしてくれるところです。でも、今日のシャルロッテは、玄関ホールの隅っこに新聞紙を広げて、自分でお手入れ道具を並べていました。
「今日はね、私が『靴磨き屋さん』になるの。モフモフはお客さん役ね」
モフモフは、新聞紙の端っこで香箱座りをして、興味深そうに尻尾をパタパタさせています。
シャルロッテは、小さなブラシを手に取りました。
まずは、乾いた泥をサッサッと払います。
こびりついた土が落ちて、本来の革の色が少しずつ見えてくるのが、なんだか宝掘りをしているみたいで楽しいのです。
「昨日は、水たまりをジャンプしたもんね。この泥は、その時の勲章だよ」
泥が落ちたら、今度は布にクリーナーを少しつけて、汚れを拭き取ります。
古い革の匂いと、クリームの独特な油の匂いが鼻をくすぐります。決していい匂いとは言えないかもしれないけれど、シャルロッテはこの匂いが嫌いではありませんでした。
なんだか、大人っぽくて、落ち着く匂いだからです。
丁寧に拭いていくと、ブーツのつま先に、小さな擦り傷があるのを見つけました。
それは、先週フリードリヒ兄様と鬼ごっこをした時に、木の根っこにつまずいた時の傷です。
「痛かったよね。でも、これもお気に入りの印だね」
シャルロッテは、指先に保湿クリームをとって、傷口に塗り込みました。
体温でクリームが溶けて、革にじんわりと染み込んでいきます。カサカサしていた傷跡が、色を濃くして、目立たなくなっていく様子は、魔法みたいでした。
でも、魔法じゃありません。ただの手間ひまです。
次は、仕上げの磨き上げです。
柔らかい布で、円を描くように、キュッ、キュッ、と磨きます。
最初は曇っていた革が、少しずつ光を反射し始めます。
無心になって手を動かしていると、頭の中が空っぽになって、ただ「綺麗になっていくこと」への喜びだけが満ちてきます。
「見て、モフモフ。私が映ってるよ」
磨き上げられたつま先には、窓から差し込む午後の光と、シャルロッテの満足そうな笑顔が小さく映り込んでいました。
新品のピカピカとは違う、使い込まれて、手入れされて、深みを増した艶。
それは、シャルロッテと一緒に歩いてきた時間の分だけ、輝いているようでした。
そこへ、外出から戻ってきたアルベルト王子が通りかかりました。
彼は、床に座り込んで靴を磨いている妹を見て、少し驚いたように足を止めました。
「シャル。そんなことをして、手や服が汚れないかい?」
「ううん、平気だよ。見て、兄様。こんなに綺麗になったの」
シャルロッテは、誇らしげにブーツを持ち上げて見せました。
アルベルトは、その艶やかな革の光沢を見て、目を細めました。
「……本当だ。とても良い色になっているね。大切にされている靴は、幸せそうだ」
「えへへ。明日はね、この靴でどこに行こうかなって考えてたの。ピカピカの靴だと、いいことがありそうでしょ? その方が絶対可愛いもんね!」
アルベルトは、妹の黒く汚れた指先を見て、ポケットからハンカチを取り出し、優しく拭いてくれました。
「そうだな。良い靴は、持ち主を良い場所へ連れて行ってくれると言うからね」
シャルロッテは、磨き終わったブーツを揃えて置きました。
その佇まいは、「さあ、次はどんな冒険に行く?」と、尻尾を振って待っている犬のようにも見えました。
特別なことは何もありません。
ただ、汚れたものを綺麗にして、また明日を迎える準備をしただけ。
けれど、その整えられた小さな日常が、シャルロッテの心を、どんな宝石よりも豊かに満たしてくれたのでした。




