第六百十二話「完璧な返事の部屋と、姫殿下の『マニュアル外の押し花』」
その日の午後、王城の行政棟の一室にある「代筆局」は、カサカサという紙の音と、ペンが走る音だけに支配されていました。
そこには、王城一の能吏と呼ばれる書記官、トビアスが座っていました。彼の仕事は、城に届く膨大な手紙に対し、礼儀正しく、完璧な返事を書くことです。
トビアスの机の横には、天井まで届くような巨大な本棚があり、そこにはあらゆる状況に対応した「返信マニュアル」が並んでいました。
彼は手紙を一瞥し、感情を挟まずに作業を進めます。
「ふむ。キーワードは『感謝』と『贈り物』。ならば、対応コード4番、『丁寧な謝辞(春バージョン)』を適用」
彼はマニュアルを開き、そこに書かれた美辞麗句を、何も考えずに羊皮紙に書き写していきます。
「キーワード『苦情』『騒音』。対応コード9番、『遺憾の意と改善の約束(定型文B)』を適用」
彼の作業は完璧でした。相手が何を想って書いたかなど関係なく、記号を記号として処理し、出力する。
外から見れば、彼は「心優しく、思慮深い手紙の書き手」に見えます。しかし、部屋の中の彼自身は、文章の意味などこれっぽっちも味わってはいなかったのです。
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そこに、シャルロッテがモフモフを抱いて、トテトテと入ってきました。
彼女は、機械のようにペンを動かすトビアスを、不思議そうに見つめました。
「ねえ、トビアスお兄さん。お兄さんは、お手紙を読んでいるの?」
トビアスは手を止めずに答えました。
「読んでいますとも、姫殿下。文字を認識し、適切な返答を選んでいます」
「ううん。違うよ。お兄さんはね、文字を見ているだけで、心を読んでないよ」
シャルロッテは、トビアスの横に、一通の封筒を置きました。それは、昨日、城下町の子供からシャルロッテに届いた手紙でした。
「これのお返事、お願いできる?」
トビアスは頷き、封筒を開けました。
しかし、中に入っていたのは、文字が書かれた紙ではありませんでした。
そこに入っていたのは、一枚の「シロツメクサの押し花」と、茶色い「ジャムのシミ」がついた、画用紙の切れ端だけでした。
トビアスの手が止まりました。
彼は、慌ててマニュアルのページをめくりました。
「ええと……キーワード『花』……『汚れ』……。該当なし。エラー。対応する定型文が見つかりません」
彼はパニックになりました。
文字がない。記号がない。これでは、「処理」ができないのです。
「姫殿下、これは……解読不能です。意味を成していません」
シャルロッテは、困り果てたトビアスの手を取り、その画用紙に触れさせました。
「意味ならあるよ。マニュアルじゃなくて、ここにあるよ」
彼女は、トビアスの指を、ジャムのシミに当てました。
「これはね、『おやつを食べていたら、美味しくてこぼしちゃった!』っていう、楽しい気持ちだよ」
次に、押し花に触れさせました。
「これはね、『きれいなお花を見つけたから、シャル様にあげるね』っていう、優しい気持ちだよ」
トビアスは、指先から伝わるカサカサとした花の感触と、微かに残る甘い匂いを感じました。
それは、「文字」という記号に変換される前の、生の感情でした。
マニュアルには載っていない。けれど、誰にでもわかる、温かいメッセージ。
「……私は、今まで何をしていたのでしょう」
トビアスは、ペンを置きました。
彼は、自分が単なる「手紙を書く機械」になっていたことに気づきました。外見上は会話が成立していても、そこには「理解」も「心」もなかったのです。
「返事はね、お兄さんの言葉で書くんだよ」
シャルロッテに促され、トビアスは、マニュアルを閉じました。
そして、真っ白な紙に向かい、拙いけれど、自分の心から湧き上がってきた言葉を書き始めました。
『きれいなお花をありがとう。ジャムの匂いで、僕もお腹が空きました』
それは、王宮の書記官としては失格かもしれない、子供のような文章でした。
でも、それは彼が初めて、相手の心に触れて、「理解」して書いた、本物の手紙でした。
書き終えたトビアスの顔は、少し赤く、そして晴れやかでした。
「……姫殿下。文章を書くというのは、こんなにもドキドキすることだったのですね」
シャルロッテは、モフモフと一緒に、その手紙に肉球スタンプを押しました。
「うん! 完璧な言葉よりもね、心が伝わる言葉のほうが、ずっと嬉しいし、可愛いんだよ!」
その日の午後、代筆局からは、マニュアル通りの冷たい美文ではなく、少し不器用だけれど温かい、人間味のある手紙が発送されました。
トビアスは、もう「部屋の中の機械」ではありませんでした。彼は、言葉と心を繋ぐ、本当の「手紙の運び手」になったのでした。




