第六百十話「井戸底の哲学者と、姫殿下の『小さな宇宙の肯定』」
その日の午後、王城の古井戸の底には、一匹の大きなヒキガエルが住んでいました。彼の名はケロッグ。
彼は、湿った苔の感触と、井戸の口から見える「丸く切り取られた空」だけを愛し、そこから一歩も出ようとしませんでした。
ある日、南の国から渡ってきた博識なツバメが、井戸の縁に止まりました。
ツバメは、井戸の底のケロッグを見下ろして、嘲笑うように言いました。
「やあ、カエルくん。君は一生、そんな狭くて暗いところにいるのかい? 外の世界には、果てしない海や、高い山々があるんだよ。君は『井の中の蛙』だね」
ツバメは、自分の知識と経験を誇り、ケロッグを哀れみました。
しかし、ケロッグは動じませんでした。
「ゲロゲロ。海? 山? そんなものは知らん。ここには、最高の湿気と、美味しい虫がいる。それだけで十分だ」
ツバメは呆れて飛び去ろうとしましたが、そこにシャルロッテがモフモフを抱いてやってきました。
彼女は、ツバメの話を聞いていましたが、井戸の中を覗き込んで、ケロッグに話しかけました。
「ねえ、カエルさん。ここは狭いけど、とっても素敵なお城だよね」
ケロッグは、人間(※しかも子供)に理解されたことに驚き、目をパチクリさせました。
「ゲロ? これはめずらしい。姫様は、ここを狭苦しいとは思わないのですか?」
「ううん。だって見て。上を見ると、お空が『丸い宝石』みたいに見えるよ。夜になったら、お月様が独り占めできるんでしょう?」
シャルロッテは、光属性魔法を使って、井戸の底の水面に、昼間の空の青さを鮮やかに映し出しました。
暗い井戸の底に、小さな青空が浮かび上がります。
「大海を知らなくてもね、井戸の中には『自分だけの空』があるんだよ。それは、外の広い空よりも、ずっと近くて、親密な空なの」
シャルロッテは、ツバメにも優しく言いました。
「ツバメさんは、広い世界を知っていてすごいね。でも、カエルさんは、狭い世界の深さを知っている博士なんだよ」
ツバメは、ハッとしました。
自分は広さを求めて飛び回っていたけれど、一つの場所に留まって、その場所を愛し尽くすという幸せを知らなかったことに気づいたのです。
「……なるほど。深さ、か。空を飛ぶ私には、地面の底の涼しさはわからない」
シャルロッテは、ポケットからビスケット屑を取り出し、井戸の中にパラパラと落としました。
それは、空から降る「甘い雪」のようでした。
「はい、カエルさんへの差し入れ! 井戸の中の王様へ!」
ケロッグは、ビスケットをパクつきながら、満足げに鳴きました。
「ゲロゲロ! これぞ至福! 広い海に、こんな甘い雪は降るまい!」
ツバメも、井戸の縁に降りてきて、少しだけ羨ましそうに中を覗きました。
「……ここは悪くない場所かもしれないな。今度、海の向こうの話を聞かせてやる代わりに、その涼しい場所を少し貸してくれないか?」
「ゲロ。まあ、たまにならいいぞ」
シャルロッテは、二匹の交流を見て、にっこり笑いました。
「世界はね、広くても狭くても、自分が『大好き』って思える場所が、一番広い場所なんだよ! だってそれが一番可愛いもんね!」
その日の午後、古井戸の周りでは、空を飛ぶ鳥と、地を這うカエルが、互いの世界の「広さ」と「深さ」を教え合う、不思議で平和なお茶会が開かれたのでした。
井の中の蛙は、大海を知りませんでしたが、井戸の中の宇宙を知っていたのです。




