第六百九話「夕暮れの点灯夫と、姫殿下の『琥珀色の足跡』」
その日の夕方、王城の庭園は、昼と夜が混ざり合う「青い時間」を迎えていました。
空は深い群青色に沈みかけ、木々の影が長く伸びて、世界から色が失われていく、少しだけ寂しい時間帯です。
そんな中、庭園の小道を、一人の背の高い老人が歩いていました。
宮廷点灯夫のバーナビーです。彼は、長い棒――点火棒――を肩に担ぎ、園内に数百とある魔導ガス灯に、一つ一つ火を灯して回るのが仕事でした。
カチン。シュボッ。
カチン。シュボッ。
彼は、無言で、機械的に作業を続けていました。
彼にとって、この仕事は「夜という巨大な敵」に対する、終わりのない、そして勝ち目のない戦いのように感じられていました。
「いくら火を灯しても、朝が来れば消える。そしてまた夜が来る。私は毎日、同じ闇を追い払うだけ……」
◆
ふと、バーナビーの足元に、小さな影が重なりました。
シャルロッテが、モフモフを抱いて、彼の後ろをトコトコとついてきていたのです。
「こんばんは、バーナビーおじいさん」
「おや、姫殿下。もうじき暗くなります。もうお部屋へお戻りください」
しかし、シャルロッテは首を横に振りました。彼女の翠緑の瞳は、バーナビーが灯したばかりの琥珀色の光を映して、キラキラと輝いていました。
「ううん。私、おじいさんの『魔法』を見ていたいの」
「魔法……? これは、ただのガス灯ですよ」
「違うよ。おじいさんはね、夜の黒い画用紙に、金色の絵の具で『道』を描いているんだよ」
シャルロッテは、振り返って、今来た道を見渡しました。
薄暗い庭園の中に、バーナビーが灯してきた街灯が、点々と、温かい光の鎖のように繋がっています。それは、暗闇に飲み込まれそうだった世界に引かれた、安心の境界線でした。
「見て。おじいさんが歩いたところだけ、夜が優しくなってる」
◆
シャルロッテは、バーナビーの仕事に、リズムをつけることにしました。
彼女は、光属性と音響魔法を、ごく控えめに融合させました。
バーナビーが棒を伸ばし、ランプに触れる。
カチン。
その瞬間、火が灯ると同時に、ポロン♪ と、オルゴールのような優しい音が響くようにしたのです。
「さあ、次はあっちのランプだよ! ワン、ツー、スリー!」
シャルロッテが指揮者のように手を振ると、バーナビーもつられて足取りが軽くなりました。
次のランプへ。
カチン。ポロン♪
また次へ。
カチン。ポロン♪
単調だった作業が、リズムとメロディを持った「行進」に変わりました。
モフモフも、新しく生まれる影を追いかけて、楽しそうに跳ね回っています。
バーナビーは、自分がランプを灯すたびに、庭園の景色が温かい色に塗り替えられていくのを、初めて「美しい」と感じました。
彼は、闇と戦っていたのではありませんでした。彼は、夜を楽しむための「光の舞台」を整えていたのです。
「……ふふ。私の棒が、まるで楽器になったようですな」
老人の顔に、柔らかな笑みが浮かびました。
最後のランプ――薔薇の塔の入り口にある一番大きな街灯――に火が灯ると、庭園は、琥珀色の光のビーズで飾られた、夜のネックレスのようになりました。
「完成だね!」
シャルロッテは、光の道を満足そうに眺めました。
「おじいさんのおかげで、夜になっても、誰も迷子にならないよ。ここは、世界で一番安全な『光の廊下』だもん」
バーナビーは、帽子をとって、小さな姫君に一礼しました。
「ありがとうございます、姫殿下。……明日の夕方も、またこの『演奏会』にお付き合いいただけますかな?」
「もちろん! だってひとりより二人でやったほうが絶対可愛いもんね!」
完全に日が落ちた後も、王城の庭園には、温かい光の列が浮かび上がっていました。
それは、家路を急ぐ人々や、窓から外を見る人々にとって、「もう休んでもいいんだよ」と告げる、優しくて懐かしい合図となっていたのです。




