第六百六話「柱の傷跡と、姫殿下の『背比べの記憶』」
その日の午後、王城の西の端、もう何年も使われていない「古い子供部屋」の扉が、きしみながら開きました。
中は、埃と、乾燥したラベンダーのポプリの匂いがしました。時が止まったような、薄暗い部屋です。
そこに佇んでいたのは、かつてルードヴィヒ国王の乳母を務めた老女、グレータでした。彼女は引退して久しいのですが、今日は久しぶりに城を訪れ、懐かしさに足を運んだのです。
グレータは、部屋の中央にある木の柱の前に立ち、震える指先で、柱に刻まれた無数の「傷」をなぞっていました。
「……ああ、ルーディ(※国王の幼名)。あんなに小さかったのに。もう、この傷をつけた日のことは、忘れてしまわれたでしょうね」
彼女の背中は、置き去りにされた家具のように小さく、寂しげでした。大人になるということは、子供部屋を忘れるということだからです。
◆
シャルロッテは、モフモフを抱いて、音もなく部屋に入りました。
彼女は、グレータの邪魔をしないように、部屋の隅にある木馬の横に座り込みました。
シャルロッテの目には、この部屋が「寂しい廃墟」ではなく、「子供たちの夢の抜け殻」がたくさん詰まった、神聖な場所に見えていました。
「ねえ、グレータおばあちゃま。その柱、痛い痛いって言っているのかな?」
グレータは、驚いて振り返り、そして優しく微笑みました。
「いいえ、姫殿下。これは痛い傷ではありません。これは、成長の証しです。陛下や、そのご兄弟が、早く大きくなりたくて、背伸びをした跡なのです」
柱には、低い位置から高い位置まで、ナイフで刻まれた線と、日付が残っていました。
一番下の傷は、今のシャルロッテよりも低い位置にあります。あの威厳ある国王にも、こんなに小さな頃があったのです。
シャルロッテは、立ち上がり、柱の前に歩み寄りました。
そして、自分の背中を柱に押し付けました。
「私も、測って」
グレータは、ポケットから小さなチョークを取り出し、シャルロッテの頭の位置に、白い線を引きました。
それは、国王の幼い頃の傷と、並ぶような高さでした。
「……ふふ。姫様は、ルーディ様の五歳の頃と同じ高さですね」
シャルロッテは、柱に向き直り、その傷跡たちに手を触れました。
そして、時間魔法と光属性魔法を、ごく静かに、吐息のように吹きかけました。
魔法は、何かを劇的に変えるものではありませんでした。
ただ、柱に刻まれた傷の一つ一つが、淡い琥珀色の光を帯びて、ぼんやりと浮かび上がったのです。
一番下の傷からは、よちよち歩きの幻影が。
真ん中の傷からは、やんちゃな少年の幻影が。
そして一番上の傷からは、青年に近づいた少年の幻影が。
それらは、幽霊のような怖いものではなく、古い写真が空気に溶け出したような、懐かしい「時間の残像」でした。
「見て、おばあちゃま。パパたちが、ここにいるよ」
グレータは、口元を手で覆いました。
彼女の目には、今の立派な国王ではなく、膝をすりむいて泣き、彼女のエプロンにすがってきた、あの頃の愛しいルーディの姿が、ありありと見えたのです。
記憶という名の幻灯機が、シャルロッテの魔法で再生されたようでした。
「ああ……。私の可愛い子供たち。みんな、ここから巣立っていったのですね」
それは、悲しいことではありませんでした。けれど、胸が締め付けられるような、甘い痛みがありました。
子供部屋は、いつか必ず空っぽになる運命にある。それが成長というものだからです。
シャルロッテは、グレータの手を取り、自分の頬に寄せました。
老女の手は、紙のように乾いていましたが、とても温かかったです。
「大人になってもね、パパの中には、この傷をつけた男の子が、ずっと住んでいるんだよ。だから、おばあちゃまは、一人ぼっちじゃないの」
シャルロッテの言葉は、論理的な慰めではなく、直感的な真実でした。
過去は消え去ったのではなく、現在の中に層を成して生き続けている。
二人は、夕暮れが部屋をオレンジ色に染めるまで、柱の前の幻影たちと過ごしました。
モフモフも、古いぬいぐるみの匂いを嗅ぎながら、安心したように眠っています。
部屋を出る時、グレータは、柱に向かって深く一礼しました。
それは、過ぎ去った時間への、そしてこれから成長していくシャルロッテへの、静かな祈りのようでした。
「姫殿下。いつかあなた様も、この部屋を小さく感じる日が来るでしょう。でも、今日のことは忘れないでくださいね」
「うん。忘れないよ。だって柱の傷は、消えないもんね!」
その日の子供部屋は、埃っぽいままでしたが、そこには「愛された記憶」だけが持つ、特別な輝きが満ちていました。
シャルロッテは、自分がいつか大人になることを、少しだけ不思議に、そして楽しみに思いながら、長い廊下を歩いていきました。




